論文要旨

  1. 1992年 「自尊心 ―自己のパラドクス―」『ソシオロゴス』16号 東京大学大学院社会学研究科ソシオロゴス編集委員会

     近代社会において、自尊心はしばしば奇妙なエスカレ−ションをともなって観察される。すなわち自己を肯定しようとする試みがかえって自己否定を帰結してしまうがゆえに、人はいっそうの自己肯定(価値証明)を強いられるのである。例えば、17世紀に成立した北米地域における回心告白の儀礼は、たえず「真の」回心へ向けて人々の自己観察をエスカレートさせていくという意味でこのような悪循環の典型的な事例と見ることができる。
     この悪循環は、他者からの否定によって引き起こされる(自分の)苦痛を価値図式によって解釈することから生じる。苦痛を価値へと変換することによって、人は終わりのない価値証明のゲームに巻き込まれてしまうのである。というのも、価値を証明しても対他関係が変容しないならば不安や苦痛それ自体はなくなりはしないのだから。
     そして実は近代とはこの価値への転換を自らの動力とするような社会なのである。

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  2. 1993年 「回心を語る『私』」『ソシオロゴス』17号 東京大学大学院社会学研究科ソシオロゴス編集委員会

     本稿は自己は物語行為を通じて構成されるという仮説に基づいて、二つの社会(1970年代のサンタ・イザベルの社会と17世紀のニュー・イングランド植民地の社会)における回心物語とそれによって構成される自己の様態を比較する。同じキリスト教に由来する回心物語を制度化していながら、前者(「『われわれ』の物語」)では無時間的・関係的・具体的自己が構成されるのに対して、後者(「『私』ひとりの物語」)においては歴史的・内面的・抽象的自己が構成されることになる。
     つまり、同じ物語が異なる社会において語られているのであるから、一方で物語は社会の編成原理とは別の固有の水準を持つといえるであろう。しかし他方ではそれが組み込まれた社会の編成原理によって異なった質の自己現象を構成する媒介ともなっているのである。

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  3. 1993年 「物語はいかにして『私』を構成するのか?」『年報社会学論集』6号関東社会学会機関誌編集委員会

     本稿はアメリカの社会心理学者、K・J&M・M・ジャージェンによって提起された自己物語理論を批判的に検討するものだ。この理論は、第一に、自己現象を自己自身について語る物語の産物であると理解する。つまり、反省的(再帰的)かつ歴史的に自己現象をとらえることを目指している。第二に、自己現象を孤立した実体ではなく、コミュニカティヴで関係的に存立する現象として理解する。つまり社会的に構成されたものとして自己現象をとらえようとする。だがジャージェンの理論構成はこの二点を十分に徹底化したものとは言えない。なぜなら、それは自己の反省性=再帰性がはらむ自己言及の問題を明確な形でとらえてはいないからだ。そこでジャージェンの理論をより徹底させ、自己物語の本質的な機能として、自己自身への関係というパラドクスを実践的に解決する(脱パラドクス化する)というそれを認める必要があるだろう。

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  4. 1994年「自己物語はどのようにして人をとらえるか −神話としての自己物語−」『現代社会理論研究』4号 現代社会理論研究会

     自己同一性は人が自らのライフストーリーを語り、自分がなんであり誰であるのかを説明するような、自己物語行為を通して構成される。このような自己物語は著名な物語論者ポール・リクールの言うところとは反対に、通常、プロットの変更に抵抗するものだ。そこで人々はしばしば同じパタンの自己同一性に拘束されてしまう。たとえ彼らがそのアイデンティティを生きるのに苦痛を感じていたとしてもだ。ではそもそも人々をこのようなパタン化されたアイデンティティに拘束するためにどのような力が作用しているのだろうか。この論文はこの拘束を自己物語が一種の神話であるという事実に由来すると理解するものだ。「神話」という語によって、ここでは物語の視野を限定し、また当該の自己物語を別様に語りうる可能性を排除してしまうような、そういう物語を意味している。

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  5. 1994年 「私のゼマンティーク」奥村隆史編『雑誌の中のアイデンティティゲーム』証券奨学財団研究報告

     本稿の目的は、雑誌メディアによって供給されている、自己を語るための言説形式に注目することによって現代社会における自己現象の様態を理解することである。それら言説諸形式は第一に、現代的自己が、<自己探究コード>とそれを具体化するための<問題構成コード>という二つの水準のコードに準拠しながら構成されていることを示唆する。しかし第二にそれは、今日においては逆説的なことに、後者のコードが自らの前提たる前者を次第に失効せしめていくことを教えてもいるのである。ポストモダンがモダニティのパラドクスを露呈させていく過程であるとするならば、自己構成のこのような変容はまさにその過程の一環として見ることができるであろう。

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