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はじめに
小学校教員養成課程と専門性については、3つの側面から論じえよう。第一は制度的・カリキュラム的側面からである。第二は発達段階に応じた人間教育・市民教育的側面からである。そして第三は教員の主体的力量に関わる側面からである。
まず、制度的・カリキュラム的側面だが、教員養成においては、「教育科学」「教科教育」「専門諸科学」の三つの領域の有機的な連携により、学生がこれらの素養をバランスよく学ぶことが要請されている。
中学校教員養成については当然教科中心になるが、小学校教員養成については、教育科学を重視した教職中心のカリキュラムにするべきという考え方と、教科教育を重視した教科を中心にカリキュラムにすべきという考え方がある。それは学生募集の在り方に端的にあらわれ、前者の場合には小学校教員養成課程として、後者の場合は小学校教員養成課程の中の各選修を単位として学生募集を行っている。本学は、どちらかといえば、後者に位置していると言える。
我が国の小学校教員養成では、いずれにせよ各教科の内容をすべて担当し万遍なく教え用とする可能性が高いことから「教科に関する科目」が設定されている。これまでは、国語、社会、算数、理科、音楽、図画工作、体育、家庭、生活の9教科2単位ずつの18単位が必修であった。しかし、この規則は1998年に緩和され、1科目以上を8単位以上の必修でよいことになった。教科よりも教職にスタンスを移した改正である。教職の重視、教科と教職のクロスオーバーを意図したものだろうが、それは他方において、私立大学の小学校教員養成への参入を促す規制緩和路線となっており、それはそのまま法人化以降の国立大学においては、総人件費抑制による教員削減によってすべての教科を維持できなくなっている現状追認の根拠にもなっている。
これまで小学校教員養成課程と中学校教員養成課程と別々に学生募集してきた。しかしこうした経過の中で、近年、両者を学校教員養成課程として一元化し、その内部での相互補完を目指す傾向が出てきている。小学校課程と中学校課程を統一的に捉える機能強化の措置ともいえるが、今述べた規制緩和と自由化が必然的にもたらす合理化・人員縮減に寄り添う役割も果たしている。改革のよき意図はあったのだろうが、ここには教育の観点というより、行財政改革の観点によって小学校教員養成課程が大きく規定されている傾向が伺える。
教科専門性
こうした趨勢に抗して、東京学芸大学では、小学校教員養成課程を12の選修に分け、各選修ごとに定員を決めて学生募集を行っている。国語、社会、算数、理科、音楽、美術、保健体育、家庭、英語、学校教育、学校心理、幼児教育の各選修である。教科および教育科学を選修として自立させたもので、本学ではこれを「ピーク制」と呼んでいる。各選修における学問性の涵養が、教える際の科学性の根拠になり、自信となり、他の様々な教科を教える際の方法論的触発につながるという考え方に拠っている。
同時に「教科に関する科目」も、最低基準の1科目以上を8単位以上ではなく、9教科に書写1単位を加えて19単位を必修としている。
以上の二点は、総人件費抑制による教員削減の中にあって、まさに苦心惨憺の対応であるが、こうした形で小学校教員養成の総体性を確保しておくことは、あるべき姿を提示する意味で必要なことと考える。
現在、小学校教員養成課程には新しい領域への専門知をもった対応の必要がうまれている。本学では来年度から小学校教員養成課程に「ものづくり教育」「国際教育」「情報教育」「日本語教育」の新しい選修を創設した。バーチャルな知識ではなく、実際の体験を通じた知の獲得や、あたらしいコミュニケーション能力の育成といった要請に対応したもので、本学の歴史的経緯と特性を生かした新しいウイングの拡大である。
教職専門性
他方、教職大学院が2008年から発足したことに象徴されるように、教職専門性の強化も大きな課題である。教師は子どもたちに教科を一方的に教えていればすむ時代では最早なくなった。子供たちの多様な要求、学ぶ意欲の低下、社会性の不足、いじめや不登校の問題、保護者の意識の変容の中で、教員は教職に関する高度な力量なしにはやっていけない。
最新の問題解決型リーダーシップ論、行動的な学習スタイルの方法論、教育のあらゆる場面における発見・開発・運用・評価のスタイルの確立など、教職専門性に基づく実践力と応用力が強く求められている。これは制度的・カリキュラム的課題であると同時に、第二の側面である、子どもの発達段階に対応した人間教育・市民教育の課題とも対応している。
ここには様々な課題が重層的に山積し、それらが学校教育の諸問題に反映している。保育園と幼稚園の連携、幼稚園と小学校の連携、小一プロブレムへの対応、低学年・中学年・高学年への対応、小学校と中学校の連携、義務教育6年プラス3年の区分の検討、家庭教育と地域社会との連携などで、いずれも子どもの発達段階に対応した学力と人格の形成にかかわっている。個性的個人の誕生とシティズンシップ形成のはざまで解決を迫られている重要課題である。
これと並んで、今日の特徴である情報化社会と消費社会への対応も課題である。ネット社会におけるモラルの形成、豊かさに処する教育、生活体験教育、知識を知恵へと媒介していく教育、学び方を学ぶ教育、等々、さまざまな課題がある。ここから、教科専門性と絡んだ、教職専門性の新しい展開が求められている。つまり、「教科に関する科目」と「教職に関する科目」とをつなげ、学習者が学ぶ意味を確かめながら学べる内容を創出することが課題となっている。それは、「教科教育」学の領域に当たるのであろうが、その領域の研究を促進することが不可欠となっている。
子どもたちの「ここと今」へ
第三の課題は、学校教育において児童生徒の「ここと今」に、どのように入り込んでいくのかという課題である。児童生徒とどのように対峙し、その成長を促すかである。それはまさに教員の主体的力量にかかってくる。教員の在り方については、さまざまな課題が指摘できるが、ここでは本学教育学の平野朝久教授の指摘を挙げよう。
まず、「教え込むという教育観」の転換である。子どもを受動的存在としてみるのではなく、既習のことと「いま」学んでいることを自らが再構成しているという能動的学習者として徹底してみる視点である。教える人、教えたがる人は沢山いるが、しかし自分が教えたがっているだけで、子どもたちのことを考えないのではないか。あるいは、確かにやる気のない子どももいる、しかしそれは家庭教育や学校教育が本来能動的で好奇心に溢れた子どもを受動的な子どもにしている可能性がある。こうしたことをめぐる問題群である。国語教育の著名な実践家・大村はまは、「子どもとは身の程知らずに伸びたい人」という。ここに基礎をおいた子ども観と教育観の徹底した転換によって開けていく地平の探求が要請されている。
二つめは、ともすれば教育は、将来のための知識や技能を身につけることを強調する傾向や、将来のために現在を犠牲にする発想に傾きがちである。教員は何を大切にすべきかを常に腰を据えて問い直し、子どもも教員も「日々人間として深く丁寧に生きること」、毎日毎日、つまり「いま」がすべてであり、それが初めて将来への準備になる。子どもへの驚きと発見のある教師、問題に対峙して苦悩する教師、そして「ここと今」への的確な介入。そこから生まれる生の輝き、知の輝きをどうつくつていくかである。
三つ目は、一人一人の子どもへのきめ細かな対応である。とりわけ以前にも増して社会は複雑化し多様化し、子どもたちの置かれている状況もいろいろである。不適応は様々な局面で起こる。子どもたちの抱えている課題に個々にしっかり応えることが喫緊の課題となっている。そのためには少人数クラスでの指導やグループでの学びが一つの打開の糸口になるかもしれない。そのような新しい状況に対応できる小学校の教員養成が必要となってくる。
ドイツの哲学者ヘーゲルは、人間存在の理想的在り方として、「自己同一性を失うことなく、他に無限に赴ける存在」と述べた。これは教師に求められる資質そのものである。そのためには深く豊かな教職と教科への知識、それを子どもたちに手渡す技術、そして絶えざる修養が求められよう。教師の力量は、人間の総体的能力そのものの深い涵養にかかっている。
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