大村龍太郎 先生
Vol.9
総合教育科学系 教育学講座 学校教育学分野

先生の専門について教えてください。

 私は教育方法学を専門にしていて、主に授業研究、学級経営研究、カリキュラム研究を関連的に行っています。例えば授業研究は、授業を研究対象にしますが、授業はそれを行っている教室の学級経営が必ず影響してきます。教育内容や順序等のカリキュラムは当然直結します。どれか一つに明確に絞ってやるというよりは、それぞれがどう関連して授業が形づくられたり、子どもの学びが良くなったりしていくか、ということを考えています。

今、特に興味をもって研究されていることは何でしょうか?

 教科教育と教育方法学を「授業」という営みの上でどう関連づけていくか、ということに興味がありますね。もちろん関連づいて当然なのですが、妙な分離感を感じるときがあって。例えば教科教育では、国語にしても算数(数学)にしても社会にしても、この教科は一体何を目指しているのかという目標論、何を教えるのかという内容論、どうやって教えるのかという方法論等を考えます。それがとても重要なのは当然ですが、授業には他にも影響する変数が無数にあるので、それだけをやるのでは実際の授業は上手くいかない。だからといってそれを疎かにして、学習者中心の授業観や活動形態、教師の接し方とか学級経営だけを研究しても、それも足りない。教科の目標・内容・方法と、それ以外の授業に影響するものを合わせて関連的に授業の在り方を研究できないかというのが一番の興味です。私は教育方法学が専門という位置づけですが、どの教科もその教科の目標・内容だからこその方法があるし、だからといってそれ以外のことは無視しても良い授業ができるかと言うとできない。二項対立や択一のような単純な話ではないんです。それに、総合的な学習のような教科等横断的な探究でこそ学べることもあります。

きっかけがあって現在の興味に行き着いたのですか?

 そうですね。私は元小学校教諭で、五つの学校に勤めましたが、赴任する学校の実態によって研究内容が大きく変わるという経験をしてきました。行った先々の子ども達の実態も大きく違いました。とても教科研究に慣れている附属小のような学校もあれば、子ども達の心を理解してしっかり寄り添うことが何よりも必要な学校があったり...。特定の教科だけを研究しても上手くいかなかっただろうなぁと思う場面や、逆に教科の深い勉強を疎かにして芸人MCのような上手いやり取りや活動形態の工夫、学級づくりだけをやっても本当に大事なことは学ばせられないと感じる場面、どちらも味わうことができました。その多様な経験がきっかけだと思います。いろんな教科や教育場面で考えてきたので、特定の教科等に縛られずに研究ができる今の場所で研究をさせていただいているという感じですね。

これでは不十分だな、と思い知らされたような実体験があるのでしょうか?

 20代後半のころ、協議会等で尊敬する先生方と話すなかで、「自分が大事だと思っていることは学ばせているかもしれないけど、それは本当にその教科として大事なことなのか」ということを問われて、わかっているつもりなのに上手く答えられないということが何度かありました。正直なところ、子どもとのやり取りはそこそこ得意な自信がありました。子どもも生き生きするし、表面的なテストの点数や技能も上がります。けれど何のためにこの授業を学ぶのかということを真剣に考えるという当たり前のことをもっとこだわってやらないといけない。雰囲気は良い授業でも、本当に深い学びって、こういうことが深いことの内実だ、っていうことをこちらがきちんと分かっていないと深くならない。だからこそ教科等の意義をしっかりと学ぶことと、それ以外の大事なことは関連させないといけないと強く考えるようになりました。

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現場ではなく、大学で教える立場になった理由は何ですか?

 正直すごく迷いましたが、授業と研究が好きだったので、大学だったらずっとその二つができると考えました(笑)。授業で学生さん達とともに教育を考えながら、研究もできるっていうありがたい仕事ができて幸せだなと思っています。

大学で授業をしていて印象的だったことはありましたか?

 はじめたころの一番の衝撃は、小学校と違って授業の人数が多いので、同じようにはできないと感じたことです。上手くいった、いかないとかではなくて、その違いを感じるのが楽しかったです。百人の前でマイクを持ってやると、見えない顔があったりするわけです。だから私が多めに教室内を前後に動くけれど、そうすると当然後ろの方の見えなかった人の表情が見えます。ということは、後ろに座っている人も、私が近づいてくると、前で話している時とは違う感覚を感じているだろうなぁとか。「こうやって近づかれると嫌ですよね」とかわざと振ったりしていますね(笑)。小学校の授業にはない楽しさがあります。

教員を育てる立場として、大学の授業でどのようなことに気をつけていますか?

 実践の具体的なエピソードや事例と、学術的な知見のどちらかに偏らないように気をつけていますね。エピソードがないと理論と実践の現実的なズレを認知しづらいし、逆にエピソードだけだと感覚で終わっちゃうので。学術的な知見や研究者によって見解が分かれている内容などを述べながら、それは実際の現場に立つとこういうところに繋がりますよねっていう両輪というか、架け橋のようなことを意識しています。取り上げる事例も、私の実践経験に偏るとそれはあなたがそう思っただけでしょ、ってことになりかねないので、いろんな先生方のいろんな事例を学生さんと検討することも気をつけています。あとは、自分がもし教師だったら、子ども(学習者)だったら、という視座で理論や実践を学生さんが問い直す対話の場も心がけていますね。...いろいろ言っていますが、気をつけているだけで、反省する授業ばっかりです(笑)。

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大村先生は大学の講義中も学生のことをよく見ておられることが印象的です。やはり学校現場でも日頃から児童生徒の様子を捉えることが授業づくりにおいて重要なのでしょうか?

 とても重要だと思います。ただ先ほど述べたように、授業においては、何か一つが重要というより、影響する変数が無数にあるんです。例えば教師がどういう心持ちでやっているかによっても、同じ内容の授業なのに、子ども達の受け取り方とか、学び方は大きく変わります。様々な変数がどのように作用しているのかを明らかにするのはとても難しいことで、子どもに質問したからといって明確に答えられる訳でもないんですよね。ですから研究においても、実際の授業に視点を当てて、子どもの何気ない一言や教師の発問、指示が授業にどういう影響を与えているのか、子どもの求めは何か、教師の意図した学習目標・内容とどう一致し、また乖離があるのか、そもそも目標は妥当なのか、そういったことを複合的に考えていくようにしています。私が授業するのと他の先生が授業するのでは同じ内容でも全く様相が変わってしまうのも、子どもの実態やその時の気分とか、教師自身のありようまで影響するからってことなんですよね。

教師のありようが学びに影響することを体感したエピソードなどはありますか?

 たくさんありますが、授業以外の教育場面でもありうるという例を一つ挙げます。これは実際に私が小学校の教員をしていた時の話です。一年生の女の子が廊下を走っていて私にぶつかってしまいました。私はその子に「ケガはない?」と確認した後、どうして廊下を走ったのか理由を聞きました。そして、「そっか。気持ちはわかるけど、廊下は走ったらケガする人がでるかもしれないから、走らない人になると優しい人になれるね。」と話し、最後に「廊下を走ったことを注意しただけで、あなた自身は素敵な人なんだよ。だから、一度いけなかったな、と反省したら、もう気にしなくていいんだよ」と言いました。すると次の年に二年生になったその子が、廊下を走っていた別の一年生の子に、私と同じような対応をしたそうなんです。その子のお母さんが私に教えてくれたのですが、その子はお母さんに、「廊下を走らないのは優しい人なんだよ。走ったことを注意しただけで、あなたは素敵な人だから、反省したら気にしなくていいんだよって優しく1年生に言ってあげた。大村先生がそうしてくれたから」と話したそうです。つまり、同じ「廊下を走らないための指導」を意図したとしても、その時に教師がどんな雰囲気でどう対応したかで、その子の「他者への注意の仕方」や「フォローの仕方」の学びにまで影響が出るわけです。ここではよかったかなと感じる例を挙げさせてもらいましたが、私はきっと気づいてないだけでマイナスもたくさんやってしまったんだろうなあと思います。

プライベートで仕事に関係していることはありますか?

 教諭時代から、普段の生活の中でとにかく授業に使えるものがないかな、というのを無意識に探しちゃう癖があります。だから、趣味は何ですか?と聞かれると「授業で使えそうなネタ集め」みたいな感じです。授業で使えるかもしれないっぽい題名のテレビ番組を片っ端から録っています。それを早送りで見ながら、大村型「授業に使えそうセンサー」に引っかかったところだけ残すという作業を今でもしています。いい映像はたくさんあるけど授業で使えるとなると、収穫率は一ヶ月に一個くらいしかなくて...。これを授業で使うんだったらここで切ってここを繋げた方が良いよね、とかいうのを考えるのは結構楽しくて好きですね。下手ですが、多分根っからの授業マニアなんだろうと思います。

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先生の学芸大生のイメージを教えてください。

 真面目な学生さんが多いというイメージはありますね。物事をしっかり考えることができる学生さんが多いなぁって。ただ、一言で言うなら真面目だけど、それは全体的な印象ということであって、みんな同じとか、平均化している、均されているという意味ではないです。当然一人ひとり凸凹があって、その凸とか凹のところを大事にしてあげたいなぁと思いますね。

学芸大生に対して一言!

 色々な経験や学びを自ら求めると同時に、単純に「良い」「悪い」ではなくて、「こういう部分が良さなんじゃないか」というものを見出すような日々を過ごして頂けたらなぁと。批判的思考とか、物事をクリティカルに見ることが大事ってよく言われます。もちろん大事ですが、批判という言葉は非難や否定とは意味が違います。世の中では批判的な検討と言いながら、否定やあらさがしが目的かのように感じる場面に出会うことがあります。そうではなく、どんなものにも必ず良さや価値があるという見方もして欲しいなぁと思います。もし教育現場でいつもその見方で子どもを見たらどうなるか、ということを考えて頂きたいので...。やっぱり子どもを見る時の基本は、どんなに悪さをやっても、どんなに言うことを聞かなくても、その子には必ず良いところやその子なりの思いがあるという見方だと思います。そうでないと、自分の思いえがいたとおりにならない子どもに対して、注意や否定の言葉しか浮かんでこないと思うんですよね。そんな目で見られる日々で子どもが心地よく生きられるとは思えません。先生になりたい方もならない方も、「どんな人もどんな物事も、悪いところや弱点を探そうと思ったらいくらでも見えるけれど、必ず良いところがある」というものの見方をすると、逆に視野が広がり深まることもあるのではないでしょうか。その見方は教師になったら必ずプラスに働くと思います。

取材/虫谷涼香、渡部 光

大村龍太郎 先生

Profile

大村龍太郎 先生

1977年生まれ。福岡県筑豊地区嘉麻市(旧 山田市)出身。生粋の筑豊っ子。2000年度より福岡県公立小学校や福岡教育大学附属小倉小学校など計五校にて教諭。五度目の6年生担任として卒業生を送り出した後、休業を希望して上京し、東京学芸大学大学院で学びながら関東、北陸はじめ様々な地域の学校等に出かけ交流の日々を過ごす。その後、福岡県教育センター指導主事等を経て、2018年度より東京学芸大学にて現職。特に小学校教育の複雑さを増す状況は、特定領域の研究を分化して進めるだけでは向上・改善が困難になってきていると考え、授業研究、学級経営研究、カリキュラム研究、教師教育研究を関連的・複合的に行いながら、「よりよい」とは何かを模索中。