モンゴル通信vol.014 「インターナショナリズムについて考えてみよう」

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ゲル。街には本当にたくさんゲルがある。

 インターナショナリズムについて考えてみよう

 ウランバートルの郊外にはゲル集落が広がっていて、それらを目にすると、ここは確かにモンゴルなのだなと改めて気がつく。ちょうどモンゴルに来て一年が過ぎた。時間というのは不思議なものだ。来る前には「モンゴルといえばゲル」だと思い込んでいたし、ゲルを目にすると物珍しさでドキドキしたものである。写真に撮ることもしばしばあった。しかし、その感覚ももうずいぶん薄らいでしまい、今では当たり前の光景のようになってしまった。ゲルを見かけても、それが特別なものとは今では思わない。ふと気がついて、そういえばあれはゲルなんだなと思い出す。
 ゲルの中に初めて入ったときのことは今でも覚えている。ウランバートル市郊外の村長の家だったと思う。白い丈夫な生地で包まれた円形のゲルの中にテレビとベッドがあった。ベッドの上では赤ん坊がすやすやと眠っていた。内壁には模様のついたオレンジ色の絨毯のようなものが、全てを覆うように貼ってあり、色彩豊かな空間だったことが印象深い。テント住居・ゲルの中に、どんな生活があるのか、そのとき少し理解できた。天井には'オヤ'と呼ばれる細い木製のポールが放射線状に組まれている。家屋は中心に立てられた細い大黒柱によって支えられていて、その側には黒くて四角い暖炉が置いてある。暖炉は食事の煮炊きにも利用されている。その空間はときにキッチンであり、ダイニング・ルームであり、リヴィング・ルームにもなる。そして寝室にもなる。そこへ、冬ならモンゴリアン・ブーツで入っていく。

 モンゴルを訪れたばかりの旅行者にはとても新鮮なものだけれど、ずっと長い期間をそこで過ごすとなると、相当な覚悟が必要かもしれない。原則として一つきりの部屋の中で家族みんなが生活をする。シャワーもトイレもない。都市部の集落なら水道が備えつけられている場合もあるが、郊外や地方にはない。近所の井戸に汲みにいく。現代的な住宅に住み慣れた僕には、不便だろうなと思うことがたくさんある。でも、モンゴル人にとってみれば、そんな僕の小さな感想などは特に重要ではなく、これが伝統的な家屋だと思って住み続けている。当然のことだ。彼らはたぶん、伝統を守らなくてはならない、などといった使命感のためにそこに暮らしているのではなく、おそらくそれが最も快適で合理的だと感じているのだろう。あるいは、何の疑いもなく、生まれたときからそうしていることに倣っているだけなのかもしれない。文化とはしばしばそういうものだという気がする。真冬の信じ難い寒さのなかでも、彼らはゲルに暮らし、真夏の厳しい日差しと激しい砂嵐のなかでも、やはりゲルに暮らしている。そして、その住人が遊牧民なら、季節の変化に合わせて移動を行う。たくさんの家畜たちとともに。

 誰もが知っている通り、文化というものは想像できないくらいに遥か長い時間の中で築き上げられる。習慣にせよ、デザインにせよ。だから、それがなぜそのような佇まいであるのかを理解することは、それほど簡単なことではない。複数の理由が複雑に絡み合いながら、現在の姿を形成しているというしかない。

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ゲルの中。シンプルな外観とは異なり色が鮮やか。水瓶の中には馬乳酒などが入っている。
中央の黒い柱は暖炉の煙突。天井に抜けるようになっている。

 ところで、著述家である海野弘が2002年に発表した著書「モダン・デザイン全史」の中には以下のような指摘がある。
「モダン・デザインは、インターナショナルな一本の流れであり、普遍的で純粋なモデルがあるような幻想が私たちを支配してきた。日本のデザイナーは、その究極のモデルにいかに近づくかで苦闘してきたのである。しかし、そのインターナショナリズムなるものが、実は、フランスやアメリカのナショナリズムであったことが、明らかにされつつあるのである。」

 ちょっとショッキングな内容だが、この文章がどのようなリソースに基づくものであるかは、ここでは明らかにされていない。だから、これをすぐに鵜呑みにするのは難しい。また、「インターナショナリズム」が何であるかについても、いろいろな解釈があるだろう。事実として、この言葉はいくつかの意味を社会の中に抱えている。でもここでは、上述の文章がささやかに定義しているように「国際的に普遍的で純粋なモデル」とすることにしよう。

 世界は多様な価値観や文化が混在していて、ひとことで表現するのはあまりにも難しい。でも、一方でそれを多様性と呼ぶこともできるし、それぞれが生きるための文化の基盤になっているのだとも思う。それらを受け入れ合うことについて、僕は多いに支持したい。

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ベッドや椅子にも細かい模様のついていることが多い。

 「インターナショナリズム」というものが、本当に存在するとして、それが世界文化の結晶だと言えるのかどうかを想像することは面白い試みだと思う。モンゴル・ゲルの形状がモンゴルの気候や人々の生活習慣に色濃く影響されているのだとしたら、「インターナショナリズム」はどんなものから影響を受けて成立するものなのだろう。結局のところ、いくつかの国や地域の文化を反映するにすぎないのだろうか。もしくは、真にそう呼べるようになるまでには、もっともっと長い時間を経なくてはならないのだろうか。世界は多様な価値観や文化が混在していて、ひとことで表現するのはあまりにも難しい。多様性を乗り越え、真に普遍的なものに昇華したデザインがどんなものなのか、あるいは結局存在しないのか。それこそは、神のみぞ知る、ということなのかもしれない。
 でも、その神様でさえ、世界には数えきれないほど様々な形で存在していることを(少なくとも僕は、ということだが)頭の片隅に置いておいたほうがいいと思っている。

★ 祝 
昨日(3月25日)は、モンゴル到着一周年記念日だそうです。桐山さんへメッセージを!

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桐山 岳寛
Takehiro Kiriyama
1981年生まれ。03年に東京学芸大学卒業。会社勤務を経て2011年3月より国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊プログラムでモンゴルのウランバートルにグラフィックデザイン教員として派遣されている。期間は2年間。
なお、表題の“МОНГОЛ”は「モンゴル」と読む。モンゴルではこのキリル文字が公用文字。