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ねずみ色の封筒

事務手続きを巡って

  今日、久しぶりに時間に少し余裕があったので、ピザを作った。誰にでも作ることのできる簡単なものだ。インターネットを検索して、最も簡単に説明してあるレシピを選ぶ。凝り性の人なら、もっといろいろな材料を集めて、本格的に行うのだろうが、私はそういう訳にはいかない。ピザに合うワインはどれで、オリーブオイルはどこそこのブランドのものを、などと私には考えられない。原則として私の怠惰な性格は揺らぐことがほとんどない。こういった小さなことにでも手を抜かず、必死に怠惰になろうとする。そういうことには熱心なのである。そもそも決して私は料理が得意な訳ではない。ただ、ときどき思いついたように簡単なものに挑戦することがある。そしてそれを人に誇らしげに語り、へえ、桐山さんは料理が得意なのですわね、などと言われて、実際にはそんなことは決してないのにも関わらず、心の中で少し得意になるのだ。しかし、ここには小さなからくりのようなものがあるのかもしれない。豪華なピザを作ったとしても、怠惰な最低限のピザを作ったとしても、ほとんどの人はそのピザのレベルにまで言及せずに、すごいねと言ってくれるのだから。実際に私が行った作業は小麦粉を捏ねてそれをオーブンで申し訳程度に焼いただけなのだけれど。そしてそれはおおまかに言って、来客に出せるような代物ではなかった。しかし、貧しい学生が何も食べるものがなく困っているときに、それがあったら今晩はひとまず周囲に物乞いをしなくても済む、というくらいのものにはなった。私はほとんど貧しい学生なので、背に腹は代えられなかったとも言える。それにしても、どうして、レシピ通りに作ってもそれほど美味しいピザが作れないのだろう、とは思う。でもそれは、どこかで分量や方法を誤ったからかもしれない。どこかに一つでも間違いがあれば、うまくいかないことは往々にしてある。そして大抵はレシピ通りの分量や状況に戻すことができず、あとの祭りとなる。

  長々とピザについて書いたけれど、しかし、実はピザの話はこの文章にとって、ほとんどどうでもいいのかもしれない。私がここで書こうとしているのは、ビザの話なのである。敢えてこのようなトリッキーなことを書くと、この先、文章を読んでいただけなくなるという恐怖を少し感じながら、でも、ピザの話もビザの話も最近の私にとっては身近な話題だった訳で、それは決して不当なものではないのだ。そもそも ‘pizza’ は「ピザ」ではなく、「ピッツァ」だよという愚かしい批判をする人がいるかもしれないが、敢えてそれには耳を貸したくないと思う。

  さて、海外に暮らそうとすると、滞在のためのビザが必要なのだが、この手続きはいささか面倒なものである。原則として滞在先の言語か英語で行うのだが、ミスがあれば却下されて、ビザが取得できない。世の中にある数ある面倒な作業の中でも失敗の許されない、油断のならない恐ろしい事務手続きである。それを私はこれまでに4度経験した。そして最も新しい手続きは現在進行中である。

  ビザ申請手続きが面倒であることは確かにその通りなのだが、喉元過ぎれば熱さを忘れるように、いったんそれを終えてみれば、いちいちこのような場所で、面倒だったことを誇らしげに自慢するほどのことではない。そもそも面倒だと思っていない人もいるかもしれない。けれども、今回の手続きは「ちょっと面倒」という領域を越えて、失笑と恐怖がないまぜになったような状況に陥っていて、今も非常に心持ちが悪い。ここで紹介させていただき、これを読んで下さっている皆さんから同情していただきたくなったというのが正直なところなのである。

  私は諸事情から10月の中旬までにそれまでの滞在ビザから、新規のビザへの更新手続きをしなくてはならないことになっていた。ビザの更新手続きは先述した通り厄介なもので、失敗が許されないものでもあるため、そういったリスクのある境遇の人のために、学校が親切にビザ申請のためのワークショップを開いてくれる。私はあとで困らないようにと用意周到にそのワークショップに参加し、見落としてはならない手続き上のポイントを把握することに努めていた。レクチャーをする担当の男の救いようのないジョークにも耐えて、ときおり頷いて見せたりしながら聞いていたのだ。そして、申請期日のしばらく前に余裕を持って当局のオンラインページで手続きを行った。それは、完璧になされたように見えた。実際、私は何度も書類を見直し、完璧にしたつもりだった。それらをプリントし、パスポートの原本と証明写真を添付して当局へ郵送する。それが手続きの全てだった。

  手続きに不備がなければ、郵送で個人宛に次の手続きに関する説明書が届く。そして私はそれを待っていた。

  数日後、その郵便書類は私の郵便受けに堂々と届いたのだった。書類はネズミ色の安そうな封筒に入っていた。当局から届く書類というものはどのような国のものであれ、無味乾燥でどこか冷たい印象がある。文体にも暖かみというものがほとんどない。しかし、それについて私は批判するつもりはない。私がひどく落胆したのは、宛名欄に書かれた私の名前のスペリングが間違っていたことだった。これは面倒なことになりそうだぞと思った。私の姓は ‘Kiriyama’ だが、その文書によると、私は ‘Kipiyama’ であった。(敢えて書く程のことではないかもしれないけれど)私は『キピ山さん』ではない。これは、東欧系の人物のミスだとそのとき私は感じた。ロシアや東欧諸国ではキリル文字を使う。キリル文字で ‘P’ はラリルレロの音を示すのだ。だから、タイピングの際にうっかり‘P’と打ってしまったのだなと私は想像した。そんな分析が何かの役に立つのかと聞かれたら困るのだが、こう思えば、まあ、しょうがないかな、とも思えてくる。

  その書類には以下のような指示が書かれていた。

  『この書類を受け取った者は15営業日以内に、最寄りの郵便局で指紋撮影を行うこと。その際に手数料として19.20ポンド支払うこと。もし、行わない場合、ビザ申請は却下されるため、注意するように。』

  私は『キピ山』にすっかり成り済まして、郵便局に行くべきか、学校のイミグレーション・オフィスで適切な指示を仰ぐか、どちらにするかで迷うようなことはしなかった。しかし、イミグレーション・オフィスの担当のおばさんに、「そのまま、郵便局に行っていいですよ、たぶん郵便局の受付に話をすれば、修正してくれるでしょう」と言われ、私は馬鹿正直にそのような話を信用して郵便局に赴いた。そして、郵便局員に書類を見せ、スペルミスの話をした。彼女は冷ややかに、名前が間違っているのであれば受け付けることなどできません。こちらでは修正は一切できませんので。正しいものを入手して、再度ご来店ください、とまるで死刑判決の文書を棒読みするような口調で言った。

  そのときの話によると、指示された当局の番号に電話をして、口頭で修正できるとのことだった。そして再びねずみ色の封筒が来るのを待つ。厳格なルールがありそうで、何かが抜けているような不思議な気分に襲われたが、ひとまずそこへ電話をかけることにした。しかし、電話に出た当局の人の英語はおそろしく早口で、言っていることもよく分からない。だいたい、ここへ電話をする人は外国人に決まっている訳なのだから、少し手加減してくれても良さそうなのだが、容赦ない。ひとまず正しいスペルを伝え、「ええ、そうです、‘ロシア’ の ‘R’ です」などとほとんどムキになって伝えた。当局の担当者は「分かった」と言った。そして、その後、当局は早口で再び長いセンテンスの台詞を言い、それを私は理解できず、何度か聞き直した。しかし何度聞いても分からなかった。大切なことを尋ねられていたら困るなと思って注意深く聞いても、よく分からない。しかし、そこで担当者は嫌気がさしたのか、急に電話を切ってしまった。な、なんと恐ろしいことを……。私は一時混乱した。しかし、よく考えてみると、こういうことだったのかもしれない。担当者は「書類の登録をやり直しますので、電話を切ってもいいですか」と尋ね、私がしつこく聞き直すので、切ってしまった、というようなことだ。特に正確に伝える必要のない文句だったのかもしれない。最後のセンテンスは重要ではなかったのだろうと、楽観的に考えることにした。

  私は妙なところに用心深いので、その顛末をイミグレーション・オフィスに話し、万が一、当局の担当者が私の話を理解できていなかったとしたら、ちょっと面倒なことになるので、確認をとってもらいたいと話した。というのも、申請者からの当局への一般的な質問は一切受け付けない、と文書に書かれていたからだ。どのような事情であれ、途中で電話を切られてしまった身としては、不安が残る。すると同意書なるものを渡されて、それにサインをしてくれれば、オフィスとして当局に直接問い合わせることができるとの回答だった。私は二つ返事でサインをし、イミグレーション・オフィスをあとにした。

  イミグレーション・オフィスの話では、確認後に再び、ねずみ色の安っぽい封筒があなたの郵便受けに届くはずだから、しばらく待つようにとのことだった。そして私は安心し、家でリラックスして待っていた。しかし、待てども待てども封筒が来ない。2週間ほど待って、ついに不信に思って、イミグレーション・オフィスにどうなってるんでしょうね、と尋ねた。イミグレーション・オフィスが早速当局に連絡をとってくれた。そしてその回答は、もう、とうの昔に送ったはずなのですが、ということだった。ということは郵便配達のミスで書類が紛失したのだろうか。私の郵便受けには来ていない。2週間もの間、いちいち遠くに設置された郵便受けに一日に二度ずつ確認してきたのだ。今朝も来ていなかった。

  しかし、それは翌日、ひっそりと届いた。

  それはまた例によって、人をいらつかせるようなねずみ色の封筒に入っていた。めでたくも、私の名が ‘Kiriyama’ と修正されていた。今度はパスポートと同様の表記になっていた。しかしながら、その書類の発行日付はおよそ2週間以上前になっていた。そして、前回と同様、15営業日以内に指紋撮影をせよと書かれている。しかも、あなたは前回のレターで指示した期日までに指紋撮影をしていない、もう一度チャンスをあげるから、今度は期日に間に合うようにと書かれている。私は、期待される以上に精一杯、誠実に対応したし、私によるミスはひとつもないはずであった。同じフォーマットの文章を一斉に送付しているのだろうし、仕方ないともいえるのだが、なにか釈然としない。でも、私も分別のある大人である。そこは冷静に、ビザの入手だけに目的を絞って行動しなくてはならない。ミスを咎めて、担当者の機嫌を損ねようものなら大変なことになる。

  二週間以上前に発行された書類にそんなことが書かれているということは、期限に余裕がない。私は急いで郵便局に駆け込んだ。そのあとに、忘れないようイミグレーション・オフィスに行って愚痴も言ってきた。イミグレーション・オフィスが当局に電話確認をするまで、どこかの机の上に私へ送付するための書類は放置されていたんだろうな、などと思っている訳では決してない。しかしそれは、私が確認した翌日に急に届いたのだった。2週間以上も前の日付で。

  全ての手続きはこれで終わったかに見えた。指紋撮影が終われば、あとはビザがパスポートに貼付けられて送り返されるはずなのである。あとは、自宅でピザでも焼いてのんびり待っていればいい。さあ、これで一安心。

  数日後、私の郵便受けに再びあのねずみ色の封筒が届いた。やけに早くパスポートが返還されたな、と内心喜んで封筒を見た。しかし、そこにはパスポートが入っているような気配はなかった。宛名は正確だった。まずそこに安心した。しかし、文書の内容は、二度目に来た文書と全く同じもので、発行の日付まで同じだった。指紋撮影をして19.20ポンド払うこと、と書かれている。な、なぜこのレターが再び…。しかも、今度は指紋撮影の期限もとうに過ぎている。当たり前だ。

  私には、なぜこの文書が再び届いたのか理由がまだ分からないでいる。それは今、イミグレーション・オフィスに確認をお願いした。しかし、ひとつここで分かることがある。年間に何千件という申請を処理するために精密にデザインされた当局のビザ発行システムをもってしても、一度、スペリングミスなどのような小さな理由で、あるデータがシステムの外にはじき出されてしまうと、簡単にはもとのラインに戻せないということだ。あのミスさえなければ問題がなかったはずなのに、今、私の書類や情報は当局の中で、迷走し続けている。それは、どこかしら、人生のプロセスを彷彿とさせる。受験や就職、出世……。こうしたプロセスで一度外にはじき出された者が、その世界に戻ろうとすることは、現在のところ簡単ではない。ちなみに私はすでにそのようなプロセスの外にいるようにも思う。順調なシステムの中にいる人は、30を過ぎてふと個人的に大学生になったりはしない。これからは、そのようなプロセスとは関係のない、自分の道を踏み分けながら生きていく。そんな決意を私にもたらしてくれる体験であった。いや、これは過去形の物語ではない、今でも本当にビザが支給されるのか冷や冷やしているのだから。とにかく、私はビザを受け取るまで油断ならない日々を送っている。

Vol.011の原稿が届きました!キピ山ですか^_^; ビザの事務手続きって大変なんですね。
 留学生の気持ちが良くわかりました。

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桐山 岳寛
Takehiro Kiriyama
1981年生まれ。2003年に東京学芸大学卒業。会社勤務の後、11年よりモンゴル・ウランバートルにてグラフィックデザイン教師として活動。13年からは英国の大学院でデザインを学んでいる。

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