titleback.png

vol_015_bar.png

P1130931.JPG

ヒースロー空港のサイン

ウェイファインディング

ウェイファインディングという言葉は日本ではまだあまり広く知られた言葉ではないと思う。けれども、イギリスの大学でデザイン関連の講義を受けていると、講師らは、目の前にいるこの学生たちが知らないはずなどないという前提でもあるかのように、いささかも表情を変えることなく、その言葉をさらりと言ってのける。こちらのこの業界では当たり前の用語であるらしい。しばらく聞いていると、その言葉が持つ意味の輪郭がぼんやりと浮かび上がってくる。
試みにケンブリッジ・ディクショナリーズ・オンラインやオックスフォード・ディクショナリーズといったイギリス系の名門辞書の電子版を使って調べてみる。私のように自らの不明を恥じながらひっそりと生きなければならぬ身分にある人々は辞書をこそこそ見たりして無知を補おうとするのであるが、“wayfinding” なる言葉など辞書にはありませんよという寂しい文言がコンピュータのスクリーンには表示される。ロングマン・ディクショナリー・オブ・コンテンポラリー・イングリッシュという辞書にもそれはなかった。どうやら英単語として辞書には認定されていないものらしい。なんだ!出てないじゃないか、それならば知らなくて当然だ、などと、まるで辞書を全部読み終えて威張り散らさんとする表情を浮かべても、しかし、空しいだけだ。
こんなふうに路頭に迷ったときは、以前お世話になったイギリス人英語講師Cさんの言葉を、いつも思い出す。彼の口癖はこうだった。「辞書は見てはいけない。意味を類推するんだ」。かのブルース・リーの名台詞にあるのは「考えるな、感じろ」だったはずだが、Cさんの言葉はこのように改めて文字にして書いてみると随分男臭い雰囲気を醸し出しているのに気づく。そして、ものすごく極端に乱暴にまとめるならば、これらはだいたい同じようなものである。
Cさんの信条に従うならば、ウェイファインディングは「道を見つけること」だとぼんやり想像することができなくはない。すると、アウトラインが少し見えてくる。これはつまりこういうことなのだ。駅などで見かける、「3番線はこちら」とか「鎌倉方面はこちら」といった道案内がある。これらに関する機能全般を「ウェイファインディング」という。私の解釈ではこのようなところだ。業界の一線にいる学者や研究者の方々に言わせればもちろん不十分かもしれないが、そういう人が説明を始めたら、定義を聞くだけで一晩以上かかってしまう心配がある。このような不躾なことを書いておきながら、もう少し増長するのを私に許してもらえるのなら、今ふと勝手に思いついたことなのだが、「道案内」は日本語訳として利用価値があるのかもしれない、と思う。他の人がもっと適切な訳語をずっと以前からあてているのかもしれないが、なにしろ今の私は知らない。ところで、Wayfindingという言葉をカタカナで書くと、「ノ」のような形状が文字上に頻繁に出てきていささか面食らう。読んでいて心地よくない。書いてみてそう感じる。その意味からも、ウェイファインディングにはよい日本語訳があればそれに越したことはない。「ウェイファインディング」。そう思いませんか?

ところで、少し前に、大学の課題に、ウェイファインディングのデザインを検討するというものがあった。課題を進めるための方向性をいくつか示され、そこから選び、私が独自に設定した具体的な課題は以下のようなものであった。最寄りの駅から学生寮までの道に関して、外国人留学生にも分かりやすい案内を設計する。意外に思われるかもしれないが、留学生がはるばる祖国から、イギリスにやってきて最初に訪れるのは予約してあるはずの住まいなのである。大学キャンパスではないのだ。留学生は言葉の問題を抱えている場合もあれば、文化や習慣の相違点を知らない場合もある。バスの乗車方法を取り上げただけでも、イギリスの事情と日本の事情は異なる。ちなみにモンゴルのバスも悉く異なっている。こういったことに関して、より分かりやすい案内があれば、不慣れな場所に心細い留学生がひとり静かにパニックに陥ってしまう可能性を、少しは軽減できるのではないか、などと、たかが大学の課題ひとつに、あれこれと、自らの記憶や友人、知人の話を総動員しながら、私らしからぬ深い自問自答を繰り返したのだった。
大勢の人が一斉に同じ時期に同じ場所に集まるにも拘らず、デザインのシステムが最適には機能しておらず、方々から、不満の声を耳にしていた自らの経験から、このテーマに絞ったことは、私にとって、それなりに有意義なものであった。多くのフィードバックを担当講師から与えられながら、デザインを作り上げていく。まず、ファースト・グレート・ウエスターンという鉄道にある「レディング」という駅にたどり着く。バス・ターミナルで大学を経由するバスに乗る。大学近くのバス停で下車する。それから徒歩で大学の寮までたどり着く。理想的には迷わずに寮のレセプションに到着したい。タクシーでアプローチする方法もあるのだから、タクシー乗り場の説明も必要である。何人かの学生に、実際に空港から寮まで辿り着くのにどのような方法をとったのかをインタビューした。そうすると、自分では想像もしない方法で、彼らが最初の到着を迎えていることに気づく。このように、具体的な調査に基づきながら、いくつかの可能性を想定してデザインを組み立てていく。User journey といった言葉で、想定した利用者の旅程を表現するのだが、利用者をどのように目的地へナビゲートするか、といったことを考えるのは、途方もなく厄介な仕事のように見えるものの、スタートしてみると次第に興味深くなってくる。実際に私がイギリスにやってきた際には、こんなことがあった。私の乗っていた航空機はロンドンはガトウィック空港に到着予定だった。しかしながら、前日の経由地の大嵐の影響で、到着先が変更となり、ヒースロー空港に降り立った。予定していたルートでは効率が悪くなることが分かり、空港からは、鉄道ではなく長距離バスで移動することに急遽変更した。これは、実際には大学のウェブサイトを見ることで分かったことなのである。こういったことも、想定しておくことができるのなら、そうしたほうが親切と言える。なにしろ、重い荷物をもっているのだから、移動の負担は軽い方がよいのである。
私が行ったこのプロジェクトは、たかが大学の課題のひとつに過ぎず、実際には社会に対して何のインパクトも持たないが、それでも、以前のデザイナーとしての経験を振り返ってみれば、こうしたデザイン・プロジェクトへのアプローチ方法は有効な手段の一つであることが、私にはぼんやりと感ぜられた。何しろ、このプロジェクトの最終報告として、分厚いレポートを提出することが求められているのである。成果物よりもむしろ、どのように課題にアプローチし分析したかを議論するのである。こうした方法でデザインを制作するのは私は初めてです、と先日、担当講師に話をしてみると、まあ、これはこの大学のやり方で、イギリスのすべての大学が同じことをやっている訳ではないのよ」と随分と謙遜した様子で答えてくれた。
どのような方法であれ、それが、社会に貢献する可能性を高めるのであれば、試してみる価値はある。少なくともそれを知らないよりはずっとよい。知識はときに実践に影響を与えるものでもある。弛まむことのない姿勢が必要なのだと、今更ながら強く感じることがある。
グラフィック・デザイナーとは、運命的に、体力で乗り切る場面が多いのは事実である。そして、体力が何よりも大切なものであることにかわりはないのだが、ときとして、デザイナー自身が、デザインに対するアプローチ方法に楔を打ち込むことは、それ自体が、いくらかの、若しくは大きな価値を生み出すかもしれない。自動的にデザインを制作してくれる機能の提供が(しばしば無償で)行われる時代にあって、デザイナーの在り方は変わりつつあるし、それはもう避けようのない事実であることも、私の心のどこかでいつも危機感を煽っているのは確かである。

▼グラフィック・デザイナーのあり方や今後の役割とは何か?大変重要な問いですよね。それは社会が何を彼らに求めているのかを考えることかも知れません。如何でしょうか?

bo_pagetop.pngbo_pagetop.png

vol_020.pngvol_020.png

vol_019.pngvol_019.png

vol_018.pngvol_018.png

vol_017.pngvol_017.png

vol_016.pngvol_016.png

vol_015.pngvol_015.png

vol_014.pngvol_014.png

vol_013.pngvol_013.png

vol_012.pngvol_012.png

vol_011.pngvol_011.png

vol_001-010.pngvol_001-010.png

vol_index.pngvol_index.png

portrait.png

桐山 岳寛
Takehiro Kiriyama
1981年生まれ。2003年に東京学芸大学卒業。会社勤務の後、11年よりモンゴル・ウランバートルにてグラフィックデザイン教師として活動。13年からは英国の大学院でデザインを学んでいる。

mogal_barbo.pngmogal_barbo.png