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モンゴル国立歌劇バレエ劇場。この日はバレエのポスターが掲げてあった。

 どんな音楽が絵を描くときに最適か

 ヨハン・セバスティアン・バッハが書いた「羊たちは安らかに草を食み(Sheep may safely graze)、BWV208」という曲を初めて聞いたのは僕が高校生だった頃のことだ。リコーダーの柔らかな音色が印象的だった。とても優しい音楽だなとその頃は思っていた。けれど、それがどんな楽団によっていつ演奏されたものなのか、僕は今でも知らない。とにかく朝、FMラジオから流れていたという記憶があるだけだ。当時はよく早朝にラジオを流しながら過ごしていたのだが、そのときに偶然耳にしたのだと思う。その頃の習慣のようなものが今になっても抜けないらしい。早朝に仕事で机に向かうときは、いつもバロック音楽に耳を傾けながらやっている。モンゴルに住むようになって、羊という単語にとりわけ敏感になってしまったので、この「羊たちは安らかに草を食み」という曲の名前を先日ふと思い出したのは、あながち偶然ではないかもしれない。
 大学生の頃になると僕はポップスやロックに熱中していてクラシック音楽を聞かなくなった。音楽サークルがときおり奏でるベートーヴェンやブラームスもどことなく退屈だった。母校には音楽専攻というコースがあって、当時はこそこそと一人でその関連の講義に潜り込んでいたが、それも「現代音楽概論」といった授業名で主に抽象音楽を扱っていた。ひたすらドラムの音が聞こえるミニマル・ミュージックを延々と試聴するような不思議な講義だった。大人になってからは、友人に勧められて再びクラシック音楽を聞くようになった。高校生の頃はモーツァルトなどの明るい曲調に興味を覚えていたが、二十代の後半にもなると、例えばチェンバロ奏者であるスコット・ロス(Scott.S.Ross)が残したドメニコ・スカルラッティの録音などを好んで繰り返し聞いていたような気がする。その頃の僕には、そういった感覚的で深遠な空気が必要だったのかもしれない。とはいえ、僕にはクラシック愛好家と言える程の知識もレコードコレクションもないし、高価なオーディオ・セットを所有している訳でもない。コンサート・ホールの会員登録もしていない。つまり、個別の曲について、あるいはオーケストラや指揮者やその録音について、たいした意見を持ち合わせているわけでもない。例えば、これを執筆している今はMacBookのごく小さなスピーカーを通して、 ーしかも近所迷惑にならないように、最小限に抑えたボリュームでー アントニオ・ヴィバルディが書いた協奏曲をこっそりと聞いているのに過ぎない。

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制作実習に取り組む学生たち。のどかな風景に見えるのだが、背景にはヒップ・ホップ・ミュージックが大音量で流れている。

 ところで、ウランバートルにもオペラやバレエ、オーケストラ演奏などのクラシック音楽を楽しむ施設がいくつかある。例えば最も大きなものはモンゴル国立歌劇バレエ劇場(Mongolian State Academic Theatre of Opera & Ballet)で、ソヴィエト連邦の影響を強く受けていた時代に発達したクラシック音楽文化の成果ともいえるだろう。モンゴルの伝統音楽には馬頭琴の演奏やホーミー、オルティーン・ドーといった歌唱方法が存在し、それはそれで非常に人気のあるものだが、ソヴィエトという巨大音楽国家のもとにあって、クラシック音楽の発達はもはや宿命のようなものだった。その劇場では9月から6月までの間、毎週末に公演が開かれているようだ。寒くなる前に一度訪れたいと思っていたが、もうすでに最高気温がマイナス10度という季節である。外出自体が億劫になる頃をいよいよ迎えようとしている。
 一方で、学校で学生たちが聞いているのは専らポップスである。モンゴル版の演歌のような渋い調子の音楽も根強い人気を誇るが、ヒップ・ホップ・ミュージックは男の子に人気だし、アメリカン・ポップスを聞いている者も多い。もちろんオーソドックスな甘いポップスもたくさんある。デッサンなどの制作の授業で、ふと担当教師が所用で教室の外に出たかと思うと、その隙をみて、携帯電話のスピーカーを使い、ヒップ・ホップを大音量で流す者がいる。その小さな質の悪いスピーカーから鳴り響く、割れたような音を聞くと僕はいつもやりきれない気分になってしまうのだが、それでもモンゴルのティーン・エイジャーが熱心に聞いている曲がどのようなものであるかを知る上では興味深い。僕は授業であっても演習中なら音楽を流すことを禁止していない。制作活動に音楽がどれほど役立つか。それは実際に制作活動に携わったことのある人にしか分からないかもしれないけれど、とにかくそれを禁止する理由など、特に見当たらないので、自由にさせている。だが、あまりに聞くに堪えない騒々しいものが流れてきたら、その学生にお願いをして演奏を止めてもらっている。音楽の趣味は実に多様で、例えばすべての学生がモンゴリアン・ヒップ・ホップを好んでいる訳ではないし、第一、ずっと同じ音楽を聞かされていると、僕も飽きてしまう。とても身勝手な話だけれど。ちなみに、彼らの携帯電話のスピーカーから「羊たちは安らかに草を食み」が流れてきたことは一度もない。よく考えてみると、彼らはちょうど僕がそれを初めて聞いた頃の年齢である。音楽の趣味は多様だ。そういえば、以前、ある学生が紹介してくれた「ザ・レモンズ」というモンゴル人ポップ・グループの曲は親しみの持てるものだった。

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桐山 岳寛
Takehiro Kiriyama
1981年生まれ。03年に東京学芸大学卒業。会社勤務を経て2011年3月より国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊プログラムでモンゴルのウランバートルにグラフィックデザイン教員として派遣されている。期間は2年間。
なお、表題の“МОНГОЛ”は「モンゴル」と読む。モンゴルではこのキリル文字が公用文字。


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