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モンゴル国立大学とチョイバルサン像。同大学は国内最高ランキングを誇る。
チョイバルサンは20世紀前半に活躍したモンゴル人革命家。

 もっとも合理的な勉強方法について

 学校で僕らが学ぶもっとも重要なことは、「もっとも重要なことは学校では学べない」という真理である。と書いたのは作家の村上春樹である。

 世界に名を馳せる先進工業国が決めた指標によるとモンゴルは発展途上国というカテゴリーに入る国の一つである。それはGDPの数値や、国民の生活レベルを計算するなどして決められている。先進工業国の一つである日本に生まれた僕たちは幼い頃からテレビや新聞などを通じて発展途上国の厳しい生活環境とその中でたくましく生き抜こうとする人々の姿を見聞きし、彼らを励まさなくてはならないと教えられてきた。子供たちは懸命に親の手伝いをしながら、学校に通って勉強がしたいと目を輝かせて語る。その美しい瞳に心を動かされ、こうした子供たちが貧困から救われるように協力しながら生きていかなければならない、と心の片隅に感じ続けてきたのである。そして、事実、世界各国の国際協力機関が発展途上国に資金や物資の援助を行い、ボランティアチームを派遣している。例えば、アメリカのThe Peace Corps(PC)、ドイツのDeutsche Gesellschaft für Internationale Zusammenarbeit(GIZ)、韓国のKorea International Cooperation Agency(KOICA)、日本ではJapan International Cooperation Agency(JICA)という組織がそうした活動の主体となっている。そして僕はJICAのボランティアチームの一人として、首都にある専門学校でグラフィックデザインを教えている。
 本格的に教壇に立って指導するという活動が始まって3ヶ月半が過ぎようとしている。季節は夏から冬になった。異国でものを教えるというのがそう簡単ではないこともよく分かったし、それでも何とか意義のある働き方ができればと思いながら仕事をしてきた。時間はあっという間に過ぎ去ったように感じる。いくらかの貴重な学びも得た。しかし僕は思う。幼い頃にテレビで目撃した、目を輝かせながら「学校に通って勉強がしたい」というのは、まだ学校に通うことができない子供の思いであり、実際に通うことができている子供は「今日も学校で勉強か、かったるいな」と思っているのではないかと。それが発展途上国であろうとなかろうと。このような気持ちになるのは日本人も同じだろうし、モンゴルの子供たちにも少なからず当てはまると思う。それは仕方のないことだ。学校でものを学ぶことには、それなりの忍耐を必要とするし、思い通りの成果を出し続けることが自由にできる訳でもない。勉強することの意味やその先の未来について深く考えるにはまだ若すぎるとも言えるだろう。もちろんそうした未来への片鱗を「感じとる」ことはできるだろうけれど、全ての子供が学校の勉強に熱心に取り組み、それを将来に役立てようと考えているなどとは想像できない。そんな状況はむしろ不気味だとさえ思う。

 しばらく前のことである。9人の学生が集まる講義でのことだ。あるデザインコースの教師が学生に宿題を出してみてはどうかと勧めてきた。そこで、その教師と相談しながら宿題の内容を決め、そして講義のおわりに僕はモンゴルに来て初めて宿題の内容を発表した。学生たちは声を揃えて笑顔で言った。「提出は来週ですね。しっかりとやってきます」。その不気味なほどに快い返事に耳を疑ったが、彼らの熱心な姿の発露だと受け取ることにした。
 翌週、僕はいささかの期待を胸に教壇に立って話した。宿題をみせてくれるかな。するとその瞬間、教室の空気が静まり返った。鞄を広げて宿題を取り出そうとする学生が一人もいない。誰もやってきていないのかと尋ねると、出席した学生全員が苦笑いをしながら「やってきていません」と正直に言う。僕はこの事実には少しばかり衝撃を受けた。提出者がゼロだったのだ。理由を問いただすことは意味のないことのように思われた。では期限を来週に延期するので次回の講義には必ず提出するようにと話した。しかし、翌週も翌々週も提出者はいなかった。毎回、宿題に関して分からないことがないかを確認してきたし、彼らは次回は提出しますと判で押したように答えていたのだった。彼らは何を考えているのだろう?僕には理解できなかった。三週間、提出を待っていたが宿題をやって来る者はとうとういなかったので、僕は次の行動に出ることにした。次回提出しなければ僕は講義を打ち切ると宣言したのだ。これは駆け引きというよりも遊びのようなものだったが。するとその翌週、僅か2名の学生が提出した。何やら満たされない気分を胸に感じながら僕はその日の講義を終えた。そして、その次の宿題を課したが、予想通りこれもその後全く提出されなかった。僕は宿題を課すことを止めることにした。

 これらの一連のいきさつには教訓のようなものを感じない訳にはいかなかった。彼らは宿題を重要なものとは考えていないという事実。そして、それ対して僕が気を揉むことの不毛さについて。考えてみれば学生たちはすでに大人といっていい年齢なのである。このようなことを今さら書くのは気が引けるが、僕はプロの教師ではない。日本で教師として働く方々が採点したら、僕の考え方に及第点は与えられないかもしれない。けれど、僕は強制的に何かをさせたり、させられたりするのがあまり好きではないし、そのことが発端で争うことは最も好まないことの一つだ。だから、講義より価値のあることがあれば堂々と講義を休んでも構わないと思う。できれば宿題ではなく自主的に課題を設けてそれに向かって努力してもらいたいとも思う。
 ところで、クラスの中に最近、背の高い1人の男子学生が僕の講義内容に興味を持ち始めた。ここ2、3週間のあいだにそのように感じるできごとがいくつかあった。個人的に作ったデザイン作品を僕に見せて講評を求めてくる。僕はそのような学生には手厚く対応したいと思った。こうした態度を見せる学生ならば宿題を提出しなくても構わないとも思った。宿題をするよりも遥かに得るものが多いはずだ。教師としての義務の放棄と思われるかもしれないが、この学校は義務教育の場ではないし、試みに少し頭を切り替えてみてもいいのではないか?そのような気持ちがふと心の中に浮かぶ。
 どのような国であれ、多くの子供は学校に通って勉強することに、ずっと喜びを感じ続けられるわけではない、と思う。書を捨てよ、町へ出よう、と言いたい訳ではないけれど、もしできることならば、学生たちが「重要なこと」を学ぶための手助けを僕はしたいなと思う。少なくともこの国で仕事をしている間は。(出欠確認と最終評価は業務上するけれど。)

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桐山 岳寛
Takehiro Kiriyama
1981年生まれ。03年に東京学芸大学卒業。会社勤務を経て2011年3月より国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊プログラムでモンゴルのウランバートルにグラフィックデザイン教員として派遣されている。期間は2年間。
なお、表題の“МОНГОЛ”は「モンゴル」と読む。モンゴルではこのキリル文字が公用文字。


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