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二重ドアのある玄関。日本のように靴を脱ぐような場所はない。ダワーと名乗る男はこの廊下をゆっくりと突き進んできた。

 恐怖体験。不法侵入者、来る。

 モンゴルのアパートの多くは二重ドアになっている。防犯のためだ。一枚の薄いドアだと何らかの道具を使うことで簡単に開けられ、侵入を許してしまう。僕たちのような外国人は言葉も十分にできないし、近隣のネットワークだって脆弱だ。社会的な弱者なのである。だから、今、住んでいる部屋に引っ越してくるときにも二重ドアの設置を強く勧められ、オーナーに依頼してドアをひとつ増やしてもらった。ウランバートル市の治安は日本ほど良い訳ではない。過去に何人かの日本人が殺害されているという報告もある。犯人が犯行におよぶ動機というのは、たいてい金銭強奪だという。スリに遭う程度なら日常的なことのようで、多くの友人が犠牲となっている。僕は好運なことにまだ被害に遭ったことはないが、携帯電話や財布を盗まれた被害者に話を聞くと、相当に気分が沈むそうだ。そして、この国の全部が嫌いになってしまうほどだという。しかし、スリのような軽犯罪だけならば、事態はそれほど深刻ではない考えるべきかもしれない。現実はそれだけに止まらないからだ。

 ある日曜日の朝、僕のアパートの玄関の戸を叩く人がいた。呼び出しベルも鳴らしている。僕は原則として急な来訪に対してはドアを開けないと決めていて、ほとんど無視を決め込んでいる。しつこく戸を叩く者もいるが、5分もすれば、どこかへ行ってしまうか、隣の戸を叩き始める。いったい、僕にどんな用事があるのか分からないが、戸を叩く人は頻繁に訪れる。しかも日本人の叩き方と違って、ドンドンドンと強く、早く叩く。回数も多い。こればっかりは習慣のようなものだから、どうしようもないのだけれど、日本人の僕にはちょっとびっくりしてしまうほどだ。
 その日はある知人が僕の家を訪れる約束があって、僕もその時間を待っていた。約束よりかなり早い時間に戸が叩かれたので、おかしいなあと思いながら、ドアを見に行った。一枚目のドアを開けると、小さな覗き窓がある。僕はそこから用心深く外の様子を眺めた。しかし、誰も見当たらない。誰もいないのだろうかと思っていると、もう一度戸が叩く音が聞こえた。ひょっとすると彼が約束の時間を間違えて来たのかもしれないと思った。ドアの前に立っていても覗き窓から見えないことはよくあることだ。僕はそっとドアを開けることにした。

 そこには見知らぬ男が立っていた。彼の背は僕と同じくらい低かったが、だらしなく太っていた。髪は短く、みかけでは35歳くらいに見えた。アイロンのかかったブルーのシャツを着て、白のコットンパンツと茶色のローファーのようなものをはいていた。服装は清潔そうに見えた。頬を膨らませ、僕の目を覗き込んでいる。目は充血していて覇気がなく、顔が赤らんでいた。あからさまに酒気を帯びている様子だった。僕はひどく狼狽した。見たこともない酒に酔った男が目の前に立っていて、その背後には開け放たれた僕のアパートが控えているのである。これは恐ろしいことになるかもしれないと、僕は唾を飲み込んだ。
 彼は何も言わずにゆっくりと侵入してきた。僕は後ずさりした。血の気の引く思いがした。彼は黙ったまま、つかつかとリビングルームの辺りまで入ってきた。ふと下を見ると彼が靴のまま入ってきているのが気になった。そして、僕は思わず、とりあえず靴を脱いで下さい、と言ってしまった。頭が混乱していると、どうでもいいことを口走ってしまうものだ。彼は「必要ない」と太い声でぶっきらぼうに言った。「あなた、いったい誰ですか」。僕はようやくまっとうな質問をした。「ダワーだ」と彼は名乗った。それはモンゴル人のごく一般的な名前だった。一応、まともな会話が成立したようだった。ダワーと名乗る男はキッチンまで来ると、顔をしかめながら「水はあるか?」と言った。「あ、あります」。そのとき僕に課せられた唯一の任務は、可能な限り穏便にことを進めることのように思えた。僕は冷蔵庫にあった「ヴォヤージュ」という銘柄のミネラルウォーターをグラスに注ぎ、手渡した。ひとまずディナーテーブルにかけるよう促そうかとふと思ったが、そんなことをしては長居されてしまうかもしれなかった。彼はミネラルウォーターを立ったまま一気に飲み干した。僕は心配になった。彼の立っていた目の前のキッチンの引出しには、どっさりと包丁が入っていることを思い出したのだ。彼がそこに手をつけないよう祈った。グラスを僕に返し、ダワーはしばらく沈黙した。一瞬、無表情になり、今度はキッチンの上に設置してあった棚の扉を片っ端から開け始めた。じっくりと左から右へ目線をずらしていき、特にめぼしい物がないことに気づくと、こちらを見た。いかにもウォッカの瓶を探しているような目だった。モンゴルの酔った男が探し物をしているとしたら、それはまずウォッカを探していると断言できる。それはこのモンゴルで、唯一、僕が確信を持って言えることである。僕は怯えながらも、彼に同情するような表情を装って見つめ返した。しかし、次に彼が何をするのか、全く検討がつかなかった。

 突然、「帰るぜ、俺は。」とダワーが言い放った。僕は一瞬、あっけにとられたが、そんな酩酊状態の言葉を簡単に信じてはいけないと思い、彼が再びゆっくりと歩き始めるのを待たず、少し背中を押しながら、玄関まで連れて行った。彼がだらだらと歩くので少しいらいらした。ようやく玄関辺りまで来て、僕にも幾分心に余裕ができた。「あなたの名前をもう一度教えてもらえませんか。」僕はダワーという彼の名をもちろん忘れてはいなかったが、試みにもう一度尋ねてみた。すると彼はやはり頬を膨らませ、顔をしかめ、いじけたように言った。「言わねえよ。」 僕は「ダワーさんでしたね?」と返してやった。彼は僕に対して敵対心や不満を抱いてはいないようだったが、表情一つ変えず黙ってドアを出て行った。辺りには、酒の刺すような臭気が漂っていた。

 彼の突然の訪問から学ばなければならないのは、いくら立派な二重ドアを設置していたとしても、このようにあっさりと家に入ってくる手強い奴がいるということだ。僕はどちらかと言うと用心深い人間だと自負していたのだが、それは、この瞬間にがらがらと崩れ去ることになった。そして、もう一つ偉大な教訓があるとすれば、このような場合に靴を脱いで下さいとお願いしても無駄だと言うことである。

おわり

【口コミ情報】桐山さんの故郷は岐阜。その地元新聞に寄稿した記事が掲載されたらしいよ!そちらもご覧下さいね。岐阜新聞:ふるさとへの便り

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桐山 岳寛
Takehiro Kiriyama
1981年生まれ。03年に東京学芸大学卒業。会社勤務を経て2011年3月より国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊プログラムでモンゴルのウランバートルにグラフィックデザイン教員として派遣されている。期間は2年間。
なお、表題の“МОНГОЛ”は「モンゴル」と読む。モンゴルではこのキリル文字が公用文字。


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