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クッキーのパッケージ。裏面にはロシア語、アゼルバイジャン語、ウズベキスタン語、カザフスタン語、アルメニア語、
グルジア語の合計5カ国語で商品説明がなされているが、モンゴル語はない。
表側のお日さまのイラストの下に見える“печенье”(ペチェヌ)という単語はロシア語で「クッキー」の意味。

 デザインとモンゴル

  モンゴルに来て長い間、考え続けていることがある。デザインのことだ。僕はいまこの国でデザイン教育に従事しているので、もちろん教育に関することがらも大切なのだけれど、もともとデザイン実務を本業にしてきたという僕の履歴が影響しているせいか、いつもデザインそれ自体の在り方について考える癖がある。街を歩いていても、店や学校やオフィスに入っても、いつもそうだ。

  モンゴルは、まだ自国での製造業がそれほど発達している訳ではない。そのために多くのモノが輸入されている。試みに、スーパーマーケットを訪れると、本当に驚く程の輸入品に出会う。モンゴルがソビエト連邦の影響を受けていたという歴史をいまもそのまま感じさせてくれるような、ロシアや東欧諸国の商品、近年の高度な経済発展を象徴するような近隣の韓国や中国、東南アジアの品々、そして日本や米国、ドイツといった経済発展を遂げた国の商品などで棚は埋め尽くされている。特にドイツは、旧東ドイツが旧共産主義圏にあった背景があり、輸入品としてのドイツ製品がモンゴルには多い。もちろんモンゴル国内で製造されたものも少ない訳ではない。けれど輸入品の割合は高い。このことは別段問題だとは思わない。外国から商品を購入することで生まれるビジネスもあるし、市民にも、モンゴル国内で手に入りにくいものへのアクセスが容易になる。他にも多くのメリットがあり、それをモンゴルの実業家たちが理解した上で輸入しているのだ。

  僕が考えているのは、例えば、それらのパッケージ・デザインのことだ。どのパッケージも正面に中身の写真が印刷されていてどのような内容物であるかはあらかた想像がつく。でも、理解が難しいのはその反対側のほうだ。パッケージの裏面には細かい説明がいろいろと書かれている。そこには僕の知る限り、大きく分けて二つの種類がある。ひとつは、世界のいくつかの言語で商品説明がなされているものだ。これらは恐ろしく細かい文字でスペースにぎっしりと情報が詰め込まれている。これを読むのは骨が折れる。骨が折れるばかりか、モンゴル語のような話者の少ない言語は掲載されていないことが多い(モンゴル国と内モンゴル地区を合わせても、話者は500万人を越える程度である)。モンゴルに輸出されることが念頭に置かれていない場合も多いのだろう。もうひとつは、原産国の言語のみで説明を表示しているものだ。これもモンゴルへの輸出を前提にしていないものだろう。いずれにしても、共通していることはモンゴル語での説明がないということだ。

  一方で、モンゴルで生活してみて分かることは、モンゴル人で外国語を習得している人は多数派とは言えないし、習得している人も、英語、ロシア語、日本語、韓国語などそれぞれで習得言語が多岐に渡っているということだ。だから、結局のところ、モンゴルで最も多数の人が同時に理解できる言語はモンゴル語以外にあり得ない。それにも関わらず、輸入品の表示にモンゴル語がない。このことは、パッケージの情報の理解できない人を多く生み出していることを示しているといってよいだろう。

  このことが、モンゴルでどのように受け止められているかは正確には分からないが、少なくとも僕のような外国人が、モンゴルで生活してみて商品情報を理解するのが難しいことを実感し、改めてモンゴル人の立場に立ってみると、やはり解決されることが望ましいと思ってしまう。どの国で生産され、どのような材料が入っているのか。あるいは、この食べ物の正確な調理方法はどのようなものなのか。製造年月日から換算して、消費期限はいつなのか……。僕はモンゴルに来た当初、モンゴル語や他の知らない国の言葉で書かれた商品パッケージを見て、そういった情報が理解できないことにわだかまりを感じていた。きっとモンゴルの人たちも、輸入品を見てそう思っているに違いないと感じたものだ。

  時間というのは恐ろしいもので、そうした不安や疑問も、2年間もモンゴルで買物をし続けていると薄らいでくる。正直にいうと、僕もパッケージの情報に無頓着になりつつある。以前試しに買ってみた物に問題がなければそれをもう一度買い求めるといった方法で凌げてしまう。でもそれでは、パッケージの本来の機能が活かされないし、情報をきちんと得るという消費者の権利も満たされないままだ。デザイナーの立場から誤解を恐れずに考えを書くならば、これは決して健全な在り方ではない。そして、このことの一部はデザインの力で克服され得るかもしれないと僕は最近感じるようになった。少なくとも、有力な手段のひとつなのではないか……。パッケージに限られることではない。多くの情報がより多くの人に伝達されることにデザインという手段が貢献する可能性は大きい。

  一方で、日本社会は日本語で埋め尽くされている。これは発想を変えれば日本で生活する外国人にとってみれば、非常に情報を得にくいということでもある。日本語を正確に読解できる人が全てではないからだ。おそらく彼らも今の僕と同じような気持ちで生活しているに違いない。

  つまり、モンゴルで起きている状況は日本でも同時に起きていて、それは同様に解決が求められているのではないかと僕は考えている。このことへの行動は、輸出者、輸入者、そして販売者のマーケティングにもよい影響を及ぼすことが期待できるかもしれない。今後の研究や実践が求められるが、もちろん、これらは「情報デザイン」という分野ですでに行われてもいる。ユニヴァーサル・デザインといった分野では情報デザイン研究によって育まれた学識がよい成果を出し始めているのだ。

  世界経済はますますグローバル化の流れにその身を任せつつある。

▼海外(国内も含まれますが)旅行に行くと、私も看板やパッケージに目がいきます。気候や街並もさることながら、その国の「らしさ」が色濃くあらわれていると思います。特に、視覚と味覚を刺激する飲食物のパッケージは。「デザイン」という言葉が一人歩きしてグローバルな扱いをされる一方で、「デザイン風土」なるローカリティな展開も何だか大切な気がしてきました。ところで、モンゴル通信も30回を達成!!お忙しい中、いつも興味深い通信をありがとうございます!何か記念イベントでもしたいところですね☆

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桐山 岳寛
Takehiro Kiriyama
1981年生まれ。03年に東京学芸大学卒業。会社勤務を経て2011年3月より国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊プログラムでモンゴルのウランバートルにグラフィックデザイン教員として派遣されている。期間は2年間。
なお、表題の“МОНГОЛ”は「モンゴル」と読む。モンゴルではこのキリル文字が公用文字。


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