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要はカリキュラムマネジメント

要はカリキュラム・マネジメント

附属小金井小国語科 大塚健太郎教諭に聞く[2]

 
━━━個人的なことを言うと、作文って好きだったんです。筒井康隆とか大好きで、それに倣いながらちょっと面白い文章を書くと、友達から「おまえの作文、いいね」って言われたり、先生から「個性的だ」って褒められたりする。それが快感だったわけですが、これが大学、大学院と進学していくと途端に「お前の文章は俗っぽい」とか言われる。「え!」と思って、慌てて『理科系の作文技術』なんかを読んで論文を書く時の文章の書き方を学んだりすると「あれ、これって自分がこれまで学校で習ってきた作文と全然、違うじゃないか」と思ったわけです。結果、今も自分の中で文章を書くという行為はハッキリ分かれていますね。論文を書く時はこっち、Facebookに書く時はこっち、というように。これからの子どもたちにどちらが必要かと言ったら、もちろん両方必要だと思うのですが、では、それを発達段階に応じてどう伸ばしていけばよいかということになると、まだ見えていないというのが実感なんです。
 

    • それはプログラミング教育の枠じゃないけれど、日本の教育って内容は指導要領に書いてあるけれど、カリキュラムとしては書いていない。カリキュラムをどうするか、どういう教育をするか、というところが弱い。こういう人材を育成するんだ、というのが無い。かつては富国強兵で大量生産に耐えられる人材を育成すればよかった。だから50人1クラスでやっていれば良かったわけだけれど、世界が変わってきた今、そこを考える素地が日本にない。だからおかしくなっている。10年後にこういう世の中だからこういう力をつけたいから国語はこうした方がいい、プログラミング教育はこうした方がいい、とならなければならないのに、ただ「算数はこれを教えます」「国語はこれを教えます」というのが先に立っているのが状況を難しくしていますね。大きなビジョンはないけれど、細かい葉っぱだけはある。

 
 
━━━プログラミング教育は、そういう意味では志は高いように思います。これからの時代はAIもますます発展してコンピュータと無縁に生きていくことは考えられない、だからプログラミング教育でもってコンピュータは何がどうして動いているのかを体験をもって知らせることは大切だ、という流れです。そこで大切にされているのが「プログラミング的思考」なわけですが、これを子どもたちに身に着けさせるということについてどう考えられますか?
 

    • 今の日本の枠組みだと教科セクトがあるからすごく難しい気がします。中途半端になってしまうか、技能主義になってしまうか。そうならなければいいのですが。

 
 
━━━中途半端とはどういうことですか?
 

    • 結局、総合的学習の時間みたいなフィールドがあまりない。それがたっぷり取れればいいのですが、今のままだと「算数で少しやります」「理科で少しやります」「音楽でちょっとやります」みたいなことになりそうですよね。それを共有した思想化するのが担任なり学校長ならいいけれど、担当者がそれぞれあちこちで少しずつやるようなことになってしまうと厳しい。それを統合できる子どもならいいけれど、統合できない子にとっては厳しいでしょうね。

 
 
━━━断片的だと確かに辛いでしょうね。
 

    • 例えば、自動販売機ってどうなっているのだろうとみんなで探求するような学習ってどこでできるでしょう? その学びには、プログラミング教育もあるかもしれないし、なんでこんなものが生まれたのかを考えるのは歴史かもしれないし、工場でインタビューしようとなれば国語の力が必要だし、統計資料を駆使してとなれば算数だし、機械としてのメカニズムを見るなら理科かもしれないし、そういうのをひっくるめて楽しめるプロジェクトというか空間があれば子どもの学びは豊かになると思いますけどね。と言うか、そういうところで発生する学びが本当の学びだろうと思うのですよ。プログラミング教育もそういう中で捉えられるべきではないかと。

 
 
━━━なるほど。
 

    • 最初に「国語では、と言われても難しい」と言ったのは、国語でだけではそんなものは育てられないです。もちろん、国語も使いながら、となればいいけれど、もっと色々なものをひっくるめた学びをカリキュラム・マネジメントによって発生させるのが必要ではないかと思います。そういう考えだから、自分では自分のことを「国語の教師」ではなくて、あくまで「小学校の教師」と思っています。

 
 
━━━カリキュラム・マネジメントが必須であることは学習指導要領解説編にもありました。
 

    • そうです。でも、本気でそれをやるとなると大変でしょうね。教科書はあるし、順番はあるし、親も子どもも「教科書は順番にやるものだ」と思っているようなところがあるし、下巻は9月にならないと来ないし(笑)。

 
 
━━━障害は多いですね。
 

    • 確かに色々やっていいと書いてあるかもしれないけれど、じゃあ「隣のクラスと違うことやっていいですか」と校長に聞くとダメって言われるわけですよ。それは、その説明責任を担任が果たせていないというのもあるかもしれないけれど、世の中の「教育観」がそれを認めていないようなところもまだまだあるわけですよ。

 
 
━━━「教育観」もそうですが、「子ども観」も固定化されている面があると思います。
 

    • そう、子どもの見方だってそうです。色々な子がいて、様々な学びのタイプがあるわけですよ。例えば、ある子は教室でちゃんと座っていなくて、這いつくばっていたり寝転がっていたりするのだけれど、頭は猛烈に回転している。そういう状態を「良し」とするような人がもっと増えてこないと事態は動かせないですよね。

 
 
━━━そこの壁は大きいかもしれません。でも、大塚さんとしては…。
 

    • そちらの方が本当の学びだと思っています。

 
 
━━━プログラミング教育を含めた大きな教育改革を成し遂げるためには、どうしたってカリキュラム・マネジメントが必要になるのはご指摘の通りだと思います。実現のための鍵はどこにありますか?
 

    • 学校の文化だったり、行政だったりしますよね。隣の先生とも闘う必要があるかもしれない。いや、闘うわけじゃないのだけれど、今までは「書かれていること」をやっていれば良かったけれど、これからは自分で説明責任を果たして自分で立っていかなくちゃいけない。自分で作っていかなくちゃいけないわけですからね。

 

━━━責任が増しますね。
 

    • そうした教師の姿勢が周りから認められるかどうかも大きい。保護者から「えー、そんなことをするのですか?」という声が上がる中ではできないでしょうしね。

 
 
━━━プログラミング教育はすごく大きなカリキュラム・マネジメントを必要とすると思います。1年生の時はここの教科のこの単元とここの教科のこの単元を組み合せて、3年生の時は、6年生の時は…というように。でも、これは担任一人では無理ですよね。
 

    • 無理ですね。教育委員会から「こうしなさい」と言われれば動くかもしれないけれど、でもそうなった時の教員の動きは今まで話していたこととは逆のものになりますよね。上から降りてきたものだと、どうしても「そのままやればいい」となってしまって考えなくなってしまう。

 
 
━━━それでは意味がないですね。
 

    • 校長レベルの人たちが新指導要領を読んで、本気で「自分たちでやっていいのだな」「考えていいのだな」と捉えて「よし、自分の学校はこうするぞ!」となってくれたらいい。減点法で見るのではなく、加点法で見るような発想で教員を見てくれないと進まないですよね。

 
 
━━━プログラミング教育の場合、現状、それを必死にやろうとする人は「尖っている」と思います。それをまずは校長が認めてくれないと難しいでしょうね。
 

    • そうでしょう。校長によって校風は変わりますからね。情報教育の校長がバンバン登場してきてくれないと。

⇒国語[3] 教科の中のプログラミング教育