モンゴルプロジェクトフェーズ2/Mongolia Watching/モンゴルだよりVol.2

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Mongolia Watching/モンゴルだより インデクス

モンゴルだよりVol.2
モンゴル国立大学名誉教授Doyod先生の講演

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 Doyod先生は、モンゴル国立大学で長年、数学と数学教育の分野でお仕事をなさって来られました。現在81歳。先生はフェーズ1の時から、このプロジェクトに関わってこられ、若いカウンターパートたちを指導されてきました。フェーズ2でもプロフェッショナルチームの一員として加わっておられます。
今回先生は研修員ではありませんでしたが、10月4日から10月18日(日本研修は10月3日から10月16日)の間、大学での教え子であるヒシグさんと日本に滞在され、日本研修にオブザーバーとして参加されるとともに、10月15日(金)には当大学で“モンゴルの教育の歴史のレビュー”と題するご講演をして下さいました。その梗概を以下に示します。この梗概は先生からモンゴル語で渡されたものを翻訳したものです。

モンゴルの教育の歴史のレビュー
(Doyod教授の講演概要)

1.大昔から13世紀まで
 これは、長い間モンゴル人が、世界の存在している規則に沿って環境に適応しながら、正しく存在し、正しく生活し、正しく発展し、正しく修復し、正しく興隆する完全な知識を構築して、それを発展の法則として従うことにより、人類の発展を導いてきた歴史である

 世界には人類の構築した三つの大きな学問がある。もっとも低いレベルの学問が科学、中レベルの学問が哲学、高いレベルの学問がFUC学である。モンゴル人以外の多くの民族は、科学、哲学二つを作ってもFUC学を作ることはできなかった。モンゴル人は、科学は作らないけれども哲学、FUC学を作った。FUC学は感じること(to feel)、理解すること(to understand)、作ること(to craft)の言葉を短縮したものである。(これら三つの単語のモンゴル語をキリル文字で表現した場合の頭文字を並べるとcyyとなる。「学」に相当する単語はyxaaHである。カタカナで発音すると“ソーオハーン”となる。訳者注)

 FUC学は、人々がこの世界に正しく存在し、正しく生活し、正しく発展し、正しく修復し、正しく興隆するための完全な知識である。この知識は発展の正しい道を教える理論となっている。

 紀元前1000年から13世紀までの長い期間に発展してきたモンゴルの教育は世界の革命の法則に沿って環境に適応していく際に、なによりもまず応用的知識、教育学、倫理から構成された。モンゴルには、環境と大変正しく関係し、人と正しく関係し、人の作ったものと正しく関係し、伝統的な習慣を尊重する教育学の融通のきく方法を若い次の年代に次々と発展的に継承していくシステムがあった。若い年代を、幼い年齢の時には遊びで、青年のときは労働で、壮年期には生活で、家庭教育において経験を積み重ねさせて経験豊かにさせる伝統があった。

 昔の匈奴の遊牧民の文化教育がJoja トルコによって継承されて、その次にOIgar Khyadaanによって受け継がれて13世紀に至った歴史


 Xiongnuが統一した時代に、遊牧民の部族の中で古代文字を作って広めた歴史がある。その次に、トルコ、モンゴルの部族の作ったウィグル文字が広がった。その後ウィグル文字はモンゴル国の公式の文字となって残った。

 遊牧民であるモンゴル人はその国を興隆させて存在させながら学校教育の場所を作って、いろいろな形のコースを運営しながら、文字を書物の教育で学んでいた。

 こうして、モンゴル部族は精神的文化を構築して文字の特性を保ちつつ来たことを、日本のモンゴル学者であるOonuki Masao氏は“東アジアの国の国民はむかしから今までずっと中華民族の勢力の下にあった。ただモンゴル民族だけはその影響を受け入れず、他の民族とは違い、特殊な文化を創ってきた”と記述している。

2.13世紀から17世紀

 13世紀から14世紀に、英雄チンギスのモンゴル帝国が現れたことによって、モンゴル民族の国民意識が高揚して新しい意見が形成されて、言語文化が徐々に体系化され、法律の教育が発達した。英雄たちは教育の複雑な問題を利用して国を指導する役割を増加させ、国、従属国を教育分野で指導してコントロールするようになった。ボルティ将軍はチンギス・ハーンに進言して“ハーンよ、35人を一緒に教育して、国の法律で鋭く、力強く平等にして、全国の子どもたちを教育するとともに全ての国民を平和で安全にするように”と言った。チンギス・ハーンは国の指導者を教育する問題に多くの関心を持ってもらうためには“人はどれほど賢くても、学校から離れては賢くなれない。賢い指導者は国の宝である。どんな針子さんよりも教育のある人間のほうが一層重要である。たくさんの普通の人々より法律を知る人々は尊敬される。”と述べている。先進国の教育のシステムは、遊牧民の多くの士族の文化を輝かして、双方の文化には関連があるものとして発展させた。
 帝国の支配下にある地域ごとに、モンゴル・ゲルの学校、国の息子たちの学校、学術会議など多くの教育の場所を運営していた。モンゴル・ゲルの学校には国の、合法的な、軍部の多くの仕事が課せられていた。国の息子たちの学校によって国の新しい血統が提供されていた。これらの学校のプログラムは

  • ― モンゴル語、中国語のリテラシー
  • ― 哲学、歴史、国法
  • ― 物質の研究(たくさんの種類の薬と色料を混ぜ合わせる方法)
  • ― 美学、技術の知識
  •  など。

 学術会議は、学校の事項を扱い、道教、男女の儀式(結婚のこと?)、犠牲の儀式などの疑問に答えた。モンゴル文字と数学の学校は読み書きできる人々、天文学者、占星術師、数学者、土占い師などを輩出していた。


3.16世紀から18世紀(1690-1911)

 モンゴル国は清国の圧政のもと220年以上の間、経済・文化の全てにおいて発展の停滞の状態に置かれていたが、遊牧民の文化における伝統を愛して尊敬するモンゴル人の防御によって文化のいくらかの進歩は続いていた。
 政治的分野で使われる文字は多くの政府公官庁で必要であることから、公務員の家庭の子どもが学ぶ学校は好んでモンゴル満州文字、清国の法律などを教えていた。例えば、1767年にフォヴト市の20人の子どもの文字学習の教室に、西モンゴルのある地方の子どもが8人、Torgut(西モンゴルの別の地方)の子どもが2人、Uriangkhel(西、北西モンゴル、Tuvan)の子どもが4人、Ulet(西モンゴル)のこどもが 2人、Zakhchin(西モンゴル)の子どもが2人学んでいたと記録されている。
 1898年にウルガ(ウランバートルの昔の名称)政府のトップの清国は漢字の学校を建てた。ロシアの内閣はロシアの文字の学校を建てると主張したが、清国の人々は徹底的に抵抗したという文献がある。1776-1895年にはTusheetハーン、Tsetsenハーン、Zasagtハーンがアイマグ(県)でモンゴル満州文字の学校を立てて運営した。1895年には漢字の学校にいてもモンゴル文字を学習することを支援する学校を国の援助で建てた。この国のモンゴル文字の学校は増加していった。


4.19世紀から21世紀へ

A.モンゴルの自立の年代(1911-1920)
Bogdハーンたちがモンゴル国を治めていた年月に文化教育の多くの進歩があった。
― 747のソム(村)に180000人のラマ僧(知識人と考えられていた?)がいた。
― ロシアがモンゴル革命を認めた1913年に、ロシア人はモンゴル号という蒸気船を作ることになったモンゴル政府とアイマグとに電話で50本の祝賀を送った。
― ナライハムの石炭の採掘所、ウールを洗う場所で労働が始まった。
― ロシアはモンゴルの印刷所を開いて“国の知識”という新聞、“新しい鏡(辞書?)”という雑誌を印刷して出版した。
― 1912年ウルガ(昔のウランバートル)に国立の学校を開いた。Tusheetハーン、Tsetsenハーン、Sain Noenハーンたちはアイマグに最初の小学校を建てて、文字と科学のいくつかの授業を教えることになった。

B. 援助で存在したモンゴルの時代
 1921年の人民革命の勝利によって、ロシア(ソヴィエト)の援助で成立したモンゴルは、1924年に憲法を制定して共和国となったと宣言した。

 町および田舎の子どもや青年たちがモンゴル文字を学習するためにたくさんの教室を建てて、そこで教えることが必要になった。この必要に従って1921年には教員の学校が建てられた。現在この学校は90年の記念祝賀会を準備している。


 1921年に首都に最初の小学校が建てられた。1923年に最初の不完全な中学校が建てられた。1934年から夏の教育がおこなわれるようになった。1935年から社会全体として識字運動が展開された。1940年に普通教育を行う初めての完全な中学校が建てられた。その中等技術学校が獣医師、商売・金融の多くの中程度の知識を持った人を育てた。

 1942年にモンゴル国立大学が建てられて、専門的知識を持ったひとたちが教育に携わるようになったことは、社会が発展して文明化するのに大きな後押しとなった。


 1951年に国立の教員の研究所を4学部、8人の教員、212名の学生で組織して、1957年には国立の教員高等学校、1990年には国立の教員養成大学に格上げし、2009年からモンゴル国立教育大学となっている。


 社会の発展の基礎の力は、情報、研究、知識をそこに打ち立てて新しい技術となっている現代の状況におけるルールから教育を社会の先頭に立つ分野として発達させる目的を提示して動いている。


 今日、普通教育の800以上の学校において500000人以上の子ども学習しており、26000人の教員が働いている。


 特別に専門的な40もの学校において10000人の人が学んでいる。


 高等教育の考え方によって、国立が48、国立でないものが98、外国のものが5、合わせて151の高等教育の学校に61000人の学生が学んでいる。


 2006年から日本のJICAとモンゴルの教育文化省とが協力して“子どもの学習を支援する方法”プロジェクトを実践したことは、私の教育の方法を改善して発達させるのに非常に重要なことであった。いま、この仕事は、“指導の新しい方法を普及させるシステムを強化する”という名目で続いている。

(訳責 高畑)