学級内でのヒドゥン・カリキュラムの形成と学級適応について

畠山史子

学校教育 A97-2337



第一章 本研究の意義


 

第一節 はじめに


 今日、学校を取り巻く様々な問題がさかんに論じられている。いじめ、不登校などその問題の多くは大変深刻なものである。また、それらの問題が発生する現場として最も多いものが学級内である。今回学級という単位を取り上げたのは学級集団はその成員である生徒にとって一定時間以上出席することを強制される所属集団である(竹川 1995)ためである。そして、それぞれの学級には次第にその学級独自の雰囲気が形成されてくる。ある教師とはうまくいっていた児童も、クラスがかわり、別の教師が担任になった途端にそのクラスの雰囲気に馴染めなくなることがある。つまり、学級適応とそのクラスの醸し出す雰囲気には密接な関係があると考えられる。その学級における雰囲気形成を説明するのに最もふさわしい概念の一つとしてヒドゥン・カリキュラムが挙げられる。

 本研究では学級という単位の中でヒドゥン・カリキュラムがどのように形成さていくのか明らかにすることで、児童達がどのように学級に適応していくのか、また学級不適応になってしまう原因についても考察を加えていきたい。

 

第二節 ヒドゥン・カリキュラム(Hidden Curriculum)の定義



 ヒドゥン・カリキュラムという用語は、Jackson(1968)の『Life in classroom』という本の中で彼によって初めて使用された。ヒドゥン・カリキュラムとは教師(又は一般的に学校)によって意識されていないか、また意図されていても公然としたものとしてではなく学習者に認められているもの(Martin 1976)と定義できる(The International Encyclopedia of Education second edition volume5 1994より引用)。この定義からわかることとしてヒドゥン・カリキュラムは学校生活の様々な側面を含んでいる。また、ヒドゥン・カリキュラムが公のカリキュラムよりも影響力を持っていることに対してBloom(1972)は次のように述べている。「ヒドゥン・カリキュラムは多くの点において公のカリキュラムよりも効果的であると思われる。なぜならば、ヒドゥン・カリキュラムは学生が学校へ通っている長い年月を通して彼らに普及し、また矛盾がないのでヒドゥン・カリキュラムによって裏打ちされた授業は長い間記憶されているのである。そして、それらの授業は毎日経験され、学習される。(The International Encyclopedia of Education second edition volume5 1994より引用)」また、ヒドゥン・カリキュラムはその機能上の特性から結果(outcome)、環境(setting)、過程(process)の3つの要素に分類することができる。


1. 結果としてのヒドゥン・カリキュラム

 結果としてのヒドゥン・カリキュラムについて書かれたものの多くは、学生が自主的に経験的事実認識に基づいた主題を学習する価値(values)、傾向(dispositions)、規範(norms)、態度(attitudes)、技術(skills)と関連している。Snyder(1971)は成功した大学生はそのカリキュラムにおいて公に必要とされていることよりもむしろ実際に自分達に求められていることをヒドゥン・カリキュラムから読み取っているということを論じている(The International Encyclopedia of Education second edition volume5 1994より引用)。ヒドゥン・カリキュラムに対して、この観点から研究を進めている研究者達の共通の仮定は、ヒドゥン・カリキュラムの結果は学問的ではない学習によるというものである。


2. 環境としてのヒドゥン・カリキュラム

 環境としてのヒドゥン・カリキュラムという考えは、ヒドゥン・カリキュラムを環境が意図せず不意に教える学習であり、明白な教室における学習とは無関係なものであると定義している。例えば、ある学級に所属する学生は類似した要求傾向を提示される。つまり、ある特定のカテゴリーに所属する大人達(教師)と学生達はある定義された方法で役割を演じることが教師と学生の両方に必要とされていることをヒドゥン・カリキュラムから学ぶ。Getzels(1974)は異なる種類の学校における教室の物理的な構造について述べ、そしてそれぞれの構造は学生に理想的な学習者の異なるイメージを提示していると論じている(The International Encyclopedia of Education second edition volume5 1994より引用)。しかし、上述の結果的なそして環境的なヒドゥン・カリキュラムへのアプローチが抱える問題として、ヒドゥン・カリキュラムの一部分であると思われるある特定の種類の認識学習を含んでいないということが挙げられる。Illich(1971)はヒドゥン・カリキュラムとは公のカリキュラムをある役立つものへと変形させることを教授するものであると考えている(The International Encyclopedia of Education second edition volume5 1994より引用)。このことは教室における学習の例であり、そして学問的な学習であるとも考えられる。このような例を処理するためにヒドゥン・カリキュラムの3番目の要素について言及する。


3. 過程としてのヒドゥン・カリキュラム

 過程としてのヒドゥン・カリキュラムの観点によるとヒドゥン・カリキュラムは伝達された教授という方法による明白なカリキュラムとは区別される。伝達の方法は暗黙か無意識的なものであり、メッセージはしばしばノン・バーバルなものであり、そして言語的なものであったとしても講話の「深い構造」にはめ込まれている。

 このようにヒドゥン・カリキュラムは教育現場における様々な場面で見られることができる。しかし、それは多くの場合無意識的に共有されているために、容易にそして明確な方法で測定することは難しいと考えられる。今回はヒドゥン・カリキュラムを「教師によって無意識的に提示されるか、また意図されていても公然としたものとしてではなく学習者に認められているもの(Martin 1976)」と定義し、学級における、その成立と適応に関して心理学的な側面からアプローチを行いたい。


第三節  本研究の目的



 本研究ではヒドゥン・カリキュラムが学級内でいかに形成され、学級成員によりその効力を保持しているのかを明らかにするとともに、その学級で形成されたヒドゥン・カリキュラムに適応できる児童とそうでない児童がいるということを明らかにしていきたい。




第二章

学級内において、ヒドゥン・カリキュラムがどのように成立し、それに対して児童がいかに
適応しているのかについての研究の概観



第一節 ヒドゥン・カリキュラムが成立する背景についての研究


第一項 「儀式化」(ritualization)(Erikson,1977) の観点から

 儀式化という概念をEriksonは次のように定義した。
儀式化とは日常的相互交渉の些細なパターンの定形化であり、この意味における儀式化は定形的行為と即興的行為の混合であり、時間的な押韻である。それは定期的な儀式としての儀式(rite)よりも日常的慣習としての慣例(ritus)に近い(Erikson,1977)。つまり、儀式化とは学級内において日々繰り返される出来事の経験を通して、この事態にはこの様に対処すれば良いとか、こういう場面ではこの様にふるまうべきであるということを学び、それをあたかも定形化された儀式のように受け入れていくということである。学級内において児童達は儀式化によって特定の人間的実存の形態に馴染まされ、ひとつの明確な集団形成的なアイデンティティ感覚を身につける。

 さらに詳しく儀式化の諸段階について見ていくと、儀式化は次の事柄を達成すると考えられる。

1. 目前の欲求の満足を共同的現実の文脈の中に置く。つまり本能性を昇華させるとともに、いまだ危弱な個人(自我)の中心性感覚を自分達が自然的精神的宇宙の中で中心的位置を占めるというその集団の観念にしっかりと結びつける。

2. 単純かつ日常的な事柄を行う公認の方法を教え込むことによって、幼児の自己万能感を明白な神意の存在という共同的感覚に変化させる。

3. 自己の無価値感情を自己の文化の内および外のアウトサイダー(その文化の中で正道とされるものを習得する過程から排除された人間、あるいはそれから自らを排除した人間)に転嫁させる。

4. 成長してきた認知パターンを共同体の共有する一般的ヴィジョンに適合させる。

5. 儀式化は連続的な各々の段階で、あらゆる儀式感覚の本質的諸側面の発展を助ける。


 以上のような段階を経て一般的に儀式化が進んでいくと考えられる。これをヒドゥン・カリキュラムの形成に当てはめてみると次のようになる。

1.学級が編成された当初は個々の児童の欲求は様々であり、自己の欲求を満たすことに重きを置いている。しかし、次第に学級で共通の目標を達成することへと意識が移っていく。この共通の目標には暗黙の内に提示されたヒドゥン・カリキュラムも含まれていると考えられる。この時期は集団との同一化の時期であるといえる。クレッチは同一化とは「個人が集団を自己自身の集団であると考え、集団の繁栄を自己のそれと感じ、集団の業績を自己の業績と等しくみなす。」傾向であると述べている。

2. 児童達の間で共有されたヒドゥン・カリキュラムはBloomが述べたように、児童達が学校へ通っている長い年月を通して彼らに普及し、またそれらの授業は毎日経験され、学習される。そして、儀式化の4番目の段階である「成長してきた認知パターンを共同体の共有する一般的ヴィジョンに適合させる。」という段階へと進んでいく。つまり、ヒドゥン・カリキュラムを通して形成されてきた認知パターンを学級内で共有されている目標、価値へと適合させていくと考えられる。
 ヒドゥン・カリキュラムの形成を儀式化という側面でとらえると以上のような過程をたどると考えられる。つまり、最初はどのように振る舞って良いのか曖昧だったものが、学級内で繰り返される日々のやり取りを通して、次第に定形化される。そして、児童達はその学級内で求められている「振る舞いの型」を段階を踏みながら、日常的慣習として無意識的に学んでいくと考えられる。


第二項 原因帰属という観点から



 次に、ヒドゥン・カリキュラムの形成を原因帰属の観点から見ていく。ダーレイとファツィオ(Darley&Fazio, 1980)は、原因帰属の枠組みから、次のような教師期待過程のモデルを提起している(『帰属過程の心理学』 1991より引用)。

第1段階 教師が児童・生徒の行動についてある期待を形成する。

第2段階 一人一人の児童・生徒について形成した期待に沿って教師が行動する。

第3段階 児童・生徒がそうした教師行動を解釈する。

第4段階 その解釈に沿って児童・生徒が反応する。

第5段階 教師が児童・生徒の反応を解釈する。

第6段階 児童・生徒が自分自身の行動を認知する。

 教師期待効果は、児童・生徒が教師期待効果をどのように認知し、解釈するのかによって大きく影響される。これはダーレイとファツィオの原因帰属による教師期待過程のモデルの第3、第4段階に対応する。また、ブラウン(Braun, 1976)による教師期待の児童・生徒による媒介仮説(student mediation hypothesis)によると(『帰属過程の心理学』 1991より引用)、

@ 児童・生徒は自分自身や他の児童・生徒に向けられている教師の言語的、非言語的行動を手がかりとして、教師期待行動の意味を認知し、解釈する。このとき児童・生徒がどのような感受能力を持っているのかによって、教師期待の受け取り方に違いが見られる。

A 児童・生徒は教師期待行動についての解釈から肯定的または否定的な自己イメージを形成し、それがパフォーマンスのための自己期待の発達を規定する。

B 児童・生徒の自己期待のあり方によって彼らの努力が規定される、というのである。

 また、ヴァインスタイン(Weinstein, 1985)は、ブラウンの考え方に沿って児童・生徒が教師期待に基づく差別的行動を受け、また他者が受けているのを観察することによって、自己能力についての情報を入手し、その情報に基づいて自己期待を修正し形成していくと考えている(『帰属過程の心理学』 1991より引用)。
ダーレイとファツィオの原因帰属モデルの第2,3,4

 段階が具体的にはヒドゥン・カリキュラムの形成期であると考えられる。そして、第5,6段階を通してヒドゥン・カリキュラムはより安定したものとなり、また効果を発揮してくる。児童達は教師側から「こうあるべき自己像」を提示される。それに合わせて自己の行動を変容させていく。また、この時、教師からの一方的な提示というよりはむしろヴァインスタインも述べているように、他の児童がどのように教師に扱われているのかを観察することによって「こうあるべき自己像」に対して修正を加えていく。また,教師側から提示される「こうあるべき自己像」とはなにも言語的な情報だけによるものではない。ブラウンによる教師期待の児童・生徒による媒介仮説によると、「児童・生徒は自分自身や他の児童・生徒に向けられている教師の言語的、非言語的行動を手がかり(表情・語調・児童がとった行動への賞罰など)として、教師期待行動の意味を認知し、解釈する。」とある。児童達は教師側から発せられる様々な手がかりや教師―児童間、児童間のやり取りを通してヒドゥン・カリキュラムを学級内で形成していくと考えられる。


第二節 ヒドゥン・カリキュラムへの適応についての研究


第一項 適合―不適合関係(マッチング)の観点から

 近藤(1997)は学級における適合―不適合関係を以下の6つの関係で論じている。

@ 教師の教育目標が提示する「あるべき人間の姿」と子どもが家族における儀式化の中で学んできたそれとのマッチング。

A 教師の教授スタイルと子どもの学習スタイルとのマッチング。

B 教師が適応指導の中で求める行動様式と子どもがこれまで身につけてきたそれとのマッチング。

C 教師の対人関係の様式そのものと、子どもがこれまで馴染んできたそれとのマッチング

D 学級集団がその規範と構造を通して求める行動様式と子どもの行動様式とのマッチング。

E 学級集団の構造と子どもが馴染んできた家族集団のそれとのマッチング。

 以上の6つの関係で考えるとヒドゥン・カリキュラムへの適合―不適合関係において重要な要素として家族、教師、学級集団が挙げられる。

 ヒドゥン・カリキュラムへの適合に関しては家庭環境というものが大きく関係している。児童は学校で一日の半分を過ごすなら、残りの時間は家を中心として過ごすといっても過言ではない。もしも家庭の雰囲気が自由なものであったならば、学級のヒドゥン・カリキュラムによって求められていることが規律を守り整然と行動するというものである場合、そのヒドゥン・カリキュラムを息苦しいものと思うかもしれない。多くの児童はこのような事態に陥った時、学校での自分の行動を変容させる方向に持っていくことができるが、そうすることのできない児童がヒドゥン・カリキュラムへ不適合になってしまうと考えられる。

 学級の雰囲気を左右するものには、広義の文化型(これに家族が含まれる。)によるものや教師の教科教育技術の巧拙が挙げられる。しかし、最も重要な要素としてリーダーシップが挙げられる。レヴィン(Lewin,K)一派によって行われた児童集団指導のタイプと、それによってかもしだされる集団的雰囲気が児童集団の成員の相互活動のパターンを著しく規定したことはよく知られている。故にヒドゥン・カリキュラムを形成する際に教師のリーダーシップの型が影響を及ぼしていると考えられる。そして、そのヒドゥン・カリキュラムに対してうまくマッチングできる児童は学級に適合していくことができるが、そうでない児童は不適合になってしまう。

 ヒドゥン・カリキュラムはいうなれば学級の成員によって保持されている無意識的な、暗黙のカリキュラムである。よって、そのヒドゥン・カリキュラムに対して共鳴できない児童はどうしても学級に適合しにくい。共鳴とは無意図的、無選択的な模倣であるが、他者との共鳴は単に行為面に留まらない。そして、認識面での共鳴現象は人々が親密な間柄にある場合とくに顕著に見られる(Kerckhoff&Back)(『社会心理学』1985より引用)。よってヒドゥン・カリキュラムへの適合は学級内の人間関係によって左右されると考えられる。児童達同士の関係が密であればあるほどヒドゥン・カリキュラムは準拠する価値を帯びてくる。ヒドゥン・カリキュラムへ従わないことは学級からはみ出してしまうことを意味している。故に児童達はなんとか自分をヒドゥン・カリキュラムへ適応させていこうと考える。

集団成員の行動の性質はしばしばお互い同士の相互作用によって影響を受ける。どんな集団の規範であれ、それが成員の行動に影響を及ぼす限りは、実際、相互的影響が作用しているのである。行動の内容あるいは性質に及ぼすこのような効果は集団的強化に帰せられる。集団的強化とは集団成員としての人々の間で規範が発達し、共有され内面化され、そして再び活気づけられる相互作用過程を指す。そして、集団的強化の第二の必要条件は暗に合意を意味するコミュニケーションである。つまり、ヒドゥン・カリキュラムは集団的強化を通して形成される。よって、集団の力が大きく働いている。つまり、学級集団に適合できていない児童は、その適合できない学級集団が作り上げたヒドゥン・カリキュラムに自分を適合させることは自ずと難しいことである。Dで挙げられている、「学級集団がその規範と構造を通して求める行動様式」というのがヒドゥン・カリキュラムであり、それに対する児童の行動様式が不適合であれば、児童はそのような集団に所属することを息苦しく感じるのではないだろうか。次に、ヒドゥン・カリキュラムへの適応を状況察知能力の観点から考えていきたい。


第二項 状況察知能力の観点から



 生まれてからずっと過ごしてきた家庭を出て、幼稚園や小学校へ行くようになったりすると適応を気遣う相手も様々となり、行為の取捨もそれまでのように簡単にはいかなくなる。つまり多くの他人について、どんな事態でのいかなる行為が受容・拒否されるかの基準を予測的に理解しなくてはならない。自分がどのように振る舞えば周囲の人達に受け入れられるのかを理解した上で行動しなくてはならなくなる。この第二項では、状況察知能力を「どのような事態でのいかなる行為が他者に受容・拒否されるのか予測的に理解する能力」と定義する。集団にはそれぞれの位置に対応して一定の役割が期待されているが、この役割期待(role expectation)は他者が自分に期待しているものであると共に自分もまた他者に期待しているものである。従って、役割期待の前提には位置と役割との対応に関する知識がなくてはならない。役割を取得する(role taking)学習としては以下の2種が考えられる。

@ 他者からの賞罰のもとで体得して行く学習。

A しばしば接触する機会がある他者の言葉使い・行為・服装・姿勢などを見習う偶然的学習。

 これを学級におけるヒドゥン・カリキュラムに置き換えて考えてみると、@の学習は主に教師とのやり取りを通してなされるものである。教科指導、生活指導などを通して教師は児童にヒドゥン・カリキュラムに基づき、「こうあるべき姿」を提示する。それは明確に言語化されたものではなく、ある行為を児童がとった時になされる教師の賞罰の対応により、児童の中で「こうしたら受け入れられる。」「こうしたら叱られる。」というような基準ができあがっていくと考えられる。しかし、状況察知能力の発達が十分でない児童は往々にしてどうして自分が教師によって賞罰を与えられているのか理解しにくいと考えられる。よって教師側から提示されるヒドゥン・カリキュラムへ適応しにくいと考えられる。

 Aの学習は主に児童同士のやり取りをを通してなされると考えられる。児童達は授業、遊びなどを通して絶えずお互いに交流している。集団としての活動の決定は概ね集団内の勢力関係のもとで裁量される(March&Simon,1958) (『社会心理学』1985より引用)。このような活動に馴染めるかどうかによっても自分に求められている役割を取得できるかどうかが変わってくる。教師から提示され、それに基づき児童集団の中でも「こうふるまうべきである」というような基準ができあがってくる。つまり、児童間で形成されたヒドゥン・カリキュラムによって求められている活動にそって行動することができない児童は集団に適応することができにくい。

 集団が成立するためには、その状況での自己と他者の関係性の理解と、かかる状況での他者との協力が集団的状況でのいかなる結果を招来するかの理解についてきわめて概念的水準での高次の機能を必要とする。ほぼ小学4年生ごろになると学級での集団的場面が個人に対して要請するいろいろな役割を理解し得るようになる。個人が学級で適応をはかることは単に自己志向的欲求の直接的満足をはかることではなく、集団の一成員としての承認を受けることが自己のいろいろな欲求を間接的に満たすことでもあるという学級内での自己と他者との関係性を理解するようになる。つまり、集団志向的欲求(group oriented need)に強く方向づけられるようになる。ヒドゥン・カリキュラムにおける学級適応を状況察知能力の観点から考えた時に、状況察知能力の十分でない児童は自己志向的欲求が強く、集団志向的欲求に高めていくことができにくいのではないだろうか。つまり、ヒドゥン・カリキュラムに基づき、集団によって求められている振る舞いと自己のとりたい行動を比較した時に自分のとりたい行動を優先させてしまうために、どうしても集団に馴染むことができにくくなってしまう。または、ヒドゥン・カリキュラムに基づき、集団によって求められている振る舞い、または自分に求められている役割を予測的に理解することができないために、学級に適応できなくなってしまうとも考えられる。




第三章 まとめと全体的考察


 

第一節 ヒドゥン・カリキュラムに関する研究の成果について


 学級におけるヒドゥン・カリキュラムの形成と適応についていろいろな側面からみてきたが、まず言えることとしてはヒドゥン・カリキュラムは集団が作り上げるものである。また、ヒドゥン・カリキュラムはある日突然、教師から児童に提示されるものではなく、教師と児童とが共に学校生活を送りながら徐々に形成されていくものである。

 ヒドゥン・カリキュラムの形成を儀式化という考えに基づいて考えると、ヒドゥン・カリキュラムは日々の学級内で繰り返される教師と児童のやり取りを通して、次第に定形化される。ヒドゥン・カリキュラムを原因帰属の観点から考えてみると、ヒドゥン・カリキュラムは教師から児童に向けられる期待により形成されていると考えられる。

 また、ヒドゥン・カリキュラムは学級における日常のあらゆる場面で教師から児童に向かって提示されるために、両者ともに明確に意識していないことが多い。故に、どのようにしてヒドゥン・カリキュラムへ適応していけば良いのかも曖昧である。ヒドゥン・カリキュラムへ適応するには他者によって求められている自己の役割の理解が前提となってくる。そして、ヒドゥン・カリキュラムはそこに教師側の価値観が反映されていると考えられる。よって、教師がいかなる価値観を持つかによって児童がヒドゥン・カリキュラムに適応できるかどうかも変化してくると考えられる。

 適合―不適合関係で考えた時、教師の提示するヒドゥン・カリキュラムと児童のいままでの生育暦の中で培われてきた価値観との間に、いくらかの葛藤が生じると考えられる。児童がいままで保持してきた価値観と教師のそれとが比較的類似したものである時、児童はそのヒドゥン・カリキュラムを抵抗なく受け入れることができると考えられる。しかし、そうではない時、児童の中にはかなりの抵抗感が生まれるのではないだろうか。

 本研究ではヒドゥン・カリキュラムの形成と適応について考察を行ってきたが、ヒドゥン・カリキュラムの根本にあるものは教師と児童の人間関係である。学級といういわば強制的に編成された単位の中で両者が日々のやり取りを通して形作っていくものである。学級内で不適応児を作らないためにも、教師の側に多様な個性を認める能力が求められる。単一の価値観が基となったヒドゥン・カリキュラムが提示される学級は凝集性が高い分、そのヒドゥン・カリキュラムに適応できない児童が排斥される傾向にあることは否めない。教師には多様な価値観を認めることができる学級経営が求められている。


第二節 今後の課題と将来的展望


 竹川(1995)は次のように述べている。「いじめ許容空間」を生み出す際の最も大きな要因となっているのは、学級集団を指導する先生の統制の強弱であろう。この「いじめ許容空間」とは、学級集団の雰囲気が一元的な空気に染まって、いじめを許容したり傍観したりする雰囲気に陥っている場合を指す。さらに、竹川は教師の統制の強弱と児童の〈いじめ−いじめられ〉の関係をもとに学級集団内で起きるいじめの型を4つに分類した。まず、制裁型いじめの特徴としては次のようなことが挙げられる。教師主導型の学級での荷物となっている児童や生徒に対して「おしおき」や「いましめ」の形で行われる。抑圧解消型いじめはなんらかの原因で生じた心理的ストレスを周囲に転嫁して、暴力的に発散させるために生じる。この2つのタイプは管理統制の強い学級内で現れ、比較的厳しく管理されているのにもかかわらず、その隙間をぬって、あるいは巧妙に偽装されていじめが実行される。排除型いじめは不潔であるとか、特異な身体的異和感を持っている者に対し、集合的に排除行動がとられていじめとなる。遊び型いじめ管理統制が弱いために、騒々しくなっている教室の中で相互攻撃的なふざけ行為 がゲーム的にやりとりされる中で、弱いものがからかいの標的とされていじめになる。この2つのタイプのいじめは教師の統制力が弱い時に起こりやすい。

 適合−不適合関係の部分で取り上げたように、児童集団指導のタイプは、それによってかもしだされる集団的雰囲気による児童集団の成員の相互活動のパターンを著しく規定する。つまり、ヒドゥン・カリキュラムの作り出す雰囲気は教師の指導の型によって決定される。ただ、ヒドゥン・カリキュラムは学級の雰囲気を形作るだけに留まらず、その学級で発生するいじめの型までも方向づけてしまう可能性は否めない。また、集団を構成する成員相互間の心理的結合が深まり、集団の心理的凝集性が大であれば、それだけ、逸脱者への集団圧力が大となる(田中 1983)。ヒドゥン・カリキュラムが準拠すべきものであり、その学級成員に対する影響力が大であればあるほど、逸脱者は他の成員から圧力をかけられる可能性が高くなる。つまり、ヒドゥン・カリキュラムへ適応できない児童は学級から排除され、いじめの対象になりやすい。

 本研究ではヒドゥン・カリキュラムの形成と適応について研究をすすめてきたが、学級内で形成されるヒドゥン・カリキュラムの型によりどのような問題が発生しやすいのかについてさらに検討していく必要があると思われる。今回の研究においては状況察知能力を取り上げたが、その能力がどのようにして発達していくものなのかについては言及することができなかった。この状況察知能力の発達についての研究は今後の課題として取り上げたい。さらに、教師の指導の型といじめのタイプの関連性について言及したが、この部分に関してはさらに詳しい調査が必要であると思われる。また、将来的にはいじめが発生しやすいヒドゥン・カリキュラムはどのような条件がそろった時に形成されるのかについて考察を加えていきたい。




引用文献


竹川郁雄 1995 「いじめと不登校の社会学」法律文化社

近藤邦夫 1997 「教師と子どもの関係づくり」東京大学出版会

E.H.エリクソン 近藤邦夫訳 1982 「玩具と理性」みすず書房

蘭千寿・外山みどり 1991 「帰属過程の心理学」ナカニシヤ出版

岩下豊彦 1985 「社会心理学」川島書店

Torsten Husen・T.Neville Postlethwaite 1994 The International Encyclopedia of Education second edition volume5 PERGAMON

田中熊次郎 1983 「新訂児童集団心理学」 明治図書


参考文献


古畑和孝 1983 「よりよい学級を目指して−学級心理学の基本問題」学芸図書

中村陽吉編 1990 「『自己過程』の社会心理学」東京大学出版会

波多野完治 1958 「現代教育心理学大系 学級社会の心理」中山書店



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