▼ 朝鮮王妃(明成皇后)殺害事件を語る当時の英字新聞
(前略)
1.井上馨と三浦梧楼
日本が出兵の際に要求した朝鮮と清国の従属関係の破棄と内政改革を進展させるために伊藤博文首相は、当時の大鳥圭介公使を召還して内相であった井上馨を特命全権公使に任命した。性急で細かい性格の井上28)は朝鮮の政務改善を計るために日本から多くの顧問官を連れて朝鮮に行くのだが、井上の計画通りには行かず、日本に対立を見せる王室に対して井上は苛立ちを覚えるようになるのである29)。その様子は次の文章から察知することができる。
「井上が朝鮮に往ってから、王妃が政治に喙を容れることは善くない。大院君が政治に口を出すことも善くない。此二人共政治に関係してはならぬと云ふ厳命を下した。ソレで大院君は知らず識らずの間に孔徳里と云ふ所で、押込隠居同然の身となったが、王妃の方は中々引っ込んで居ない。此王妃は女性としては実に珍しい才のある豪らい人であった。(中略)国王に何角と指図をするので、事実上の朝鮮国王は此王妃だと謂っても好いのである。」30)
この内容からも推察できるように井上は、自分の朝鮮改革への計画に反対の姿勢を取る王妃に対して王妃の政治干渉を厳しく禁ずる動きを行ったが、政治的才能を有し、国家の動向に自らの意見を反映させようとする王妃の関与は井上の重荷になるばかりであった。もう一人の権力者であった大院君は隠退させることに成功したが、王妃の政治干渉は怯まなかった。その間、乙未改革を推進するようになったが、日清講和条約で遼東半島の割譲を要求した日本に対して独仏露は、日本にこれを廃棄するように勧告する三国干渉を起こしたのである。三国干渉によって日本の威信は失墜し、朝鮮での井上馨の改革も後退し、井上は王妃の存在について強い不満を抱きつつ、自分の代わりとして同じ山口出身であり、萩の明倫館の同門でもある軍人出身三浦梧楼の朝鮮行きを積極的に薦めるのである。確かに井上も1862年に高杉晋作と外国公使襲撃を計画したり、江戸品川御殿山のイギリス公使館を焼き討ちするなど過激な事を行ったが、その後は外交官としての道を歩んでいる。そのため、邪魔者を除去する方法を知りつつも直接の関与は避けたい立場からすると、誰よりも国家の名の下で働いてくれる性格を持つ三浦の方が適任だと判断するにはそう難しいことではなかったはずである。そのため、外交に経験も自信もないため自分は行きたくないと断る三浦31)を強く推薦し、山県を通して行かせる模索を行ったのである。外交手腕がない軍人として国の為なら過激な行動も辞さない人物、同郷同門として誰よりもその性格を知っていた井上からすると、帝国日本の大陸支配の邪魔者に対する対処方法を予測することは目に見えるものであった。後に同郷の伊藤博文が出獄後の三浦に田中(光顕)宮内大臣を使いに出しているが、伊藤の伝言に三浦の性格を表す言葉がよく表れている。その内容は次の通りである。
「今度の一件から、各政党が頻りに君を擔がうとして居る。君は例の気性だから、悪くすると此事に憤慨して、此れに身を投ずるかも知れぬ。此れはドウも三浦の為めに甚だ宜しくない。君は極く懇意だからドウか往って、此事を話して呉れと云ふことで、ソレで訪ねて来た。」32)
即ち、三浦の気性が激しいことを物語っている。その性格を知っているからこそ井上は熱海でこもろうとする三浦を強く朝鮮行きのシナリオに乗せるのである。井上はその後、三浦らによる王城襲撃及び王妃殺害事件の主犯として逮捕され、出獄された時、彼のために贅沢な馳走を用意するのであり、ひたすら気の毒だと彼を慰めるのである33)。一国の王妃殺害事件の主犯とされた三浦は特に尋問もなく、寛大な収監生活の後、多くの人に歓迎されて出獄した後、伊藤博文や山県有朋、井上馨らに気の毒な人物だとされ、慰められて一件が終わった。この事件には三浦を庇う山口出身の権力者が多く、事件の重大さとは相反する事件処理となっており、その点から日本政府の思惑による事件であった疑念を払拭することはできない。
2. 乙未事変と周辺動向
日本は朝鮮政府に対する過度の干渉と独占的利権獲得に対する、米・英・露・独の列国の異議申し立てを行った。日本政府は有効な方策を見いだせないまま、朝鮮への積極的干渉政策を中止しなければならなかった。そのような状況下、井上馨公使と三浦梧楼公使との交代によって日本が退却すると思っていた朝鮮宮廷は、ロシアに接近して内閣から日本派を追放し、親日派の武力となっていた朝鮮兵士の精鋭部隊「訓練隊」を解散させて「内政改革」を清算しようとした。それが実現されると日本勢力の基盤を失うと見なした三浦梧楼公使は、杉村濬書記官、軍部兼宮内府顧問官の岡本柳之助、『漢城新報』の社長である安達謙蔵らとクーデターを共謀した34)。その際、壮士と呼ばれる日本人刺客らは排日親露派の王妃であった閔妃を殺害(韓国では「乙未事変」、日本では「王城事件」と称)したのである。このような閔妃殺害計画を主導したのが、三浦朝鮮公使であった事実が三浦の行跡を述べた『観樹将軍豪快録』(1918)、『観樹将軍英雄論』(1920)、『観樹将軍縦横談』(1924)、『観樹将軍回顧録』(1925)などに詳しく記述されている。中でも当時の事件に関する一部を以下に述べておく。
「俺(筆者注:三浦梧楼)が杉村をエライと思つたのは其夜の事さ。其前から世間を装ふために、公使館では天長節の用意といふ事に託して、人の出入の目立たぬやうにしてあつたが、誰が何といつたものか、其晩方に某々二國(筆者注:露と米)の公使が突然やつて来て、何か嗅ぎ出した様な語氣がある。丁度其晩日本領事の祝宴會があつたので、俺は之からそこへ行く處だ。どうだ御一緒に參らうかといふと、二人共安心の體で歸つて行つた。俺は宴會の席で態と夜を更かし、歸つて杉村の部屋に行くと、杉村は今しも獨り机に對して、静かに手習をして居る「マダ少し時間がありますから、お休みになつたらどうです。其時にはお知らせします」と平然として居る。其内細君が子を産むといふ騒ぎがあつて、俺は室に引取つたが、今將に一大事を擧げんとする其時に、悠然として手習をして居つた彼の態度を見た時は、俺は以て大事を托するに足ると、大に意を強うした、不幸今や此人亡し。」35)
この朝鮮王妃殺害事件は当時、外務省次官で勤めていた10月8日付の『原敬日記』には次の通り書いている。
「京城に於て軍練隊は大院君を擁して王宮に入り待衞兵と少しく爭ひたるも、我守備隊の保護にて左までの事なし、三浦公使國王の招にて朝六時參内せり、王妃は行衞不明、一説には殺害せられたりと云ふとの電報、公使館附我海陸武官よりの電報早く參報本部に達したるも、三浦公使よりは十一時發にて午後に着電せしも甚だ要領を得ず。」36)
また、京城特派員であるコロネル・コッコリル(Colonel Cockerill)は事件から1週間後の10月15日にパリ発行の『ニューヨーク・ヘラルド』(The New York Herald)37)の「ヘラルドがニュースを提供した」という欄で「朝鮮の大臣と対談をする」という副題をつけて朝鮮の王妃が殺害されたことを大きく報じて、欧米社会に知らせた。
10月16日付の『ニューヨーク・ウィークリー・トリビューン』は「朝鮮の王妃の殺害者が確認された。王(高宗)は囚人、独裁者である王の父は親日政府に就任したと10月13日付のパリの新聞から引用して報道した。そして、王妃(閔妃)は日本軍隊が城門を守っていた時、殺害された。日本の大臣がその殺害陰謀を知っていたという内容は見あたらなかった。王は今囚人で、反対派リーダーであるお父さんの大院君は新内閣を親日勢力で構成するだろう。王妃の側近は逃亡した。壮士という日本人が王妃の殺害犯として逮捕された」38)と比較的詳細に報じている。この日付以前にアメリカで朝鮮王妃殺害事件を報じた資料が見当たらないため、おそらくこの新聞がアメリカにおいては初のニュースであったと推察することができる。なお、同紙の10月30日付には「朝鮮の王妃の死体が発見された」という題名で、10月16日横浜発記事を引用し、「王の父(大院君)と彼の追従者(followers)によって、最近攻撃を受けて死んだ王妃の死体が発見された。(日本政府は)小村(寿太郎)朝鮮公使に万一日本人たちが王妃を殺害したのが証明されたら殺害犯を処罰せよと命令した」39)と報道されている。当時日本では『読売新聞』や横浜の『毎日新聞』などが事件翌日からこの事件を大々的に報じており40)、それらの情報の引用か、関連者からの提供を受けたと考えられる。ただ、これらのニュースも最初は日本関与の否定が多く、政府の見解を伝えるに止まっているのが窺える。
一方、10月17日に閔妃殺害の主犯格である三浦公使は解任・召還されて、翌18日に三浦、安達を含む約50人の在留日本人の退去命令が下された。三浦を含む関連者らは広島地方裁判所に起訴された41)。1896年1月、三浦は広島で収監されて裁判を受けたが、軍法会議は証拠不充分で無罪を宣告した。また広島地方裁判の予審でも全員免訴で釈放されるようになった。監獄から出た日、三浦は「アノ邊の有志者の歡迎會に招かれた。それから汽車で歸つたが、沿道至る處、多人數群集して、萬歳々々の聲を浴せ掛けるやうな事であつた」42)と回顧録に記録していることから推測すると、彼自身の犯罪意識はなかったことが見受けられる。以前から仏教に没頭し、出家入道の道を歩んでいた人物としては恐ろしい罪を犯したにも関わらず殺生の罪意識は微塵も感じられないばかりか、むしろ自らを英雄として考えているのが伺える43)。もちろん、彼自身が陸軍中将出身として国家の為の絶対的忠誠心を持っていただけに、国家の為だったという理由が強く支配したことは否定できない。それについては、山県有朋の死の二日前に見舞いに行った時を回想する次の文章からも読み取ることができる。
「我輩に後事を委託する積りと見えて、我輩を病床に延くのみならず、手を出して、シッカリ握りながら、後を頼むと言ったものだ、我輩が老躯を提げて国家に盡さんと欲するものも、亦た故人の遺嘱に答ふる所以の道である。」44)
この内容からすると、国家主義に徹する軍人の姿が描かれており、山県との強い絆を窺うことができる。因みに山県とは8歳違いではあるものの、同じ山口の萩出身の幼なじみだけではなく、井上馨の代わりに朝鮮行きを進められた三浦が断った時も説得し、朝鮮行きに止めを刺したのが山県であった。そのため、三浦の性格などを知り尽くしている人物であり、王妃事件にも深く関わっていた推測さえ排除できないのが山県である。その山県の最後の頼みが死後の日本だとすれば、国家を絶対的に考える三浦を如何に高く評価しているかは簡単に推察することができよう。
さて、この事件発生と同時に、1895年10月8日に日本守備隊の護衛のもとに大院君をかつぎ出して親日開化派の第4次金弘集内閣が成立した。日本のこれらの陰謀と本格的な朝鮮の植民地化が露骨に行われ、朝鮮民衆の反日義兵活動も広がった。最初の抗日義兵は、日本によって計画された王妃殺害事件や親日内閣が強行した「断髪令」を契機に全国各地で起きた。「断髪令」は王妃の殺害事件後、金弘集内閣が開化政策の一環として全国民に断髪を宣布した。断髪は民族の伝統である礼節を否定することであった。地方では官吏らの強圧的な断髪に民衆の反発が高まり、伝統的な慣習を否定する意味のこの措置に対し、儒生らを中心に全国各地で義兵闘争が展開されたのである。
そのように政府の親日政策に対する反発が各地で反日・反改革の義兵運動を引き起こす契機となり、この騒ぎのさなか、1896年2月11日、案内を申し出た朝鮮人官吏に付き添われて、仁川に寄港中のロシアの軍艦から120名ほどの水兵が上陸し、王宮に入った。こうして「彼らは−高宗の手引きのおかげで−、日本人の鼻をあかしてまんまんと王を脱出させた。王と王世子は宮廷女性に変装し、外から見えないように閉めきった王室の女性用の輿でロシア公使館に身を避け、日本人の干渉から逃がれるという手筈だった」45)。その混乱の隙に親露派によって1896年2月に高宗はロシア公使館に避難した。所謂「俄館播遷」46)である。その後、金弘集内閣ら開化派内閣の閣僚に厳しい弾圧の鉄槌を下した。この事件で親日派の「金弘集、鄭秉夏、魚允中ら大臣が市民によって殺され、兪吉濬以下三〇余名は日本に亡命し、またも親露政府が樹立」47)されて、親日内閣の改革運動は一時的に中止となった。(後略)
28) 小谷保太郎編『観樹将軍回顧録』政教社、1925年、321頁参照。
29) 同上、322〜323頁参照。
30) 同上、324頁。
31) 同上、319頁参照。
32) 同上、347〜348頁。
33) 同上、350頁参照。
34) 前掲『日清戦争−東アジア近代史の転換点』192頁。
35) 三戸十三編『觀樹將軍豪快録』日本書院、1918年、76〜78頁。
36) 『原敬日記』乾元社、1950年、125頁、1895年10月8日付。
37) 『The New York Herald』、1895年10月15日付。
38) 『New York Weekly Tribune』、1895年10月16日付。
39) 『New York Weekly Tribune』、1895年10月30日付。
40) 『読売新聞』『毎日新聞』1895年10月8日〜11月10日参照。
41) 熊田宗次郎『觀樹將軍縦横談』實業之日本社、1924年、131頁参照。
42) 小谷保太郎編『觀樹將軍回顧録』政教社、1925年、344頁。
43) 『読売新聞』「出家入道の三浦将軍、極細字の経文1巻を写す」1892年5月24日朝刊参照。
44) 熊田宗次郎『観樹将軍縦横談』1924年、実業之日本社、53頁。
45) 前掲『現代朝鮮の歴史−世界のなかの朝鮮』188〜189頁。
46) 「俄館播遷」の「俄館」とはロシア公使館を縮めた名称で、「露館播遷」という.
1896年2月11日から約1年間にわたって高宗と皇太子が王宮を離れ、ロシア公館で政務を執った。この俄館播遷の1年間は内政においてもロシアが強い影響力を持ち、政府の各部門や士官が招鴨された。中央軍制はロシア式に改編され、財政もロシア人の財政顧問によって操られた。1897年2月20日、高宗は独立協会の要請と内外の勧告と圧力にしたがって1年間を過ごした。ロシア公使館から慶雲宮(現在の徳寿宮)に還宮せざるをえなかった高宗は、同年10月に皇帝即位式を行い、大韓帝国を国号とした。そして年号も光武と改めた。
47) 金達寿『朝鮮』岩波新書、1965年、111頁。
【出典】李修京他「朝鮮王妃殺害事件の再考」『東京学芸大学紀要 人文社会科学系』ISSN1880-4314、2007年1月、93〜105頁。
近代における不幸な歴史を如何に考えるか、それは未来に繰り返さないための指針そのものにあるといえる。近代日本の大陸経営への野心の現れの一つとして殺害された明成皇后(閔妃)の死は過去として考えるよりも、二度と生じてはならぬ歴史として現代に示唆するところが多い。その中に渦巻くでっち上げなど、立場を変えると決して理解できないはずの悲しい歴史物語。結局世界の世論が動く中で形式的な三浦と在朝日本人記者らの裁判は無罪判決になるなど、理不尽さが横行する近代史の中で我々はこういった自己主義的解釈が受け入れられる非民主性が許されない民主社会を構築し、維持していくべきだと再認識しなければならない。なお、下記の写真は当時の殺害事件を報じるNew York Weekly tribune、山口県にある主犯の三浦梧楼と井上馨の山口県にある生家跡(撮影:李修京)
(死体を探したことが1895年10月16日の横浜発記事として、New York Weekly Tribune)
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