家族療法の物語論的転回

その社会学的含意について


1. はじめに:家族療法と社会学

【1】この論文において考察してみたい問題は、次のようなものだ。
 人間の心理的なトラブルを扱うサイコセラピーの中に「家族療法」と総称される技法がある。この技法およびそれを支える理論は、一般システム論をベースにしていることもあって、社会学(特にシステム論的なそれ)と多くの認識を共有してきた(1)。その家族療法の内部で近年「物語論的転回」とでもよぶべき過程が進行しているのであるが、家族療法と社会学とのこのような親近性を考慮すると、この変容は社会学に対して何らかの示唆を与えるのではないかと考えられる。いったい家族療法の物語論的転回は社会学に何を教えてくれるのだろうか、これが本論文の主題となる。
 家族療法と一口に言ってもさまざまなヴァリエーションがあるのだが、ここではふつう「システム論的」とよばれるようなアプローチ(構造派、MRI、ミラノ派など)に注目することにしよう。このアプローチはもともと次のような基本的アイディアを共有してきた。

(1)セラピストが治療の対象とするのは複数のコミュニケーション行為によって形成されるシステムである。クライエントが示す「病理」や「症状」はそのクライエント個人に帰属されるのではなく、あくまでも家族というシステムがもたらした効果として理解されなければならない。
(2)「客観的な」「ただ一つの」現実などというものはない。存在するのは、ただ各人がそれぞれのやり方で構成した現実だけである。したがって現実はその構成の仕方に応じて多元的に存在しており、クライエントを「問題行動」に向かわせている現実も可能な多くの現実の中の一つである。
(3)現実の構成はつねにコミュニケーション過程において行われる。したがってくり返し「問題行動」を再生産するシステムは、ある特定のコミュニケーションパタン(したがって特定の現実構成)にしばられたシステムであると考えられる。治療とはコミュニケーションに介入してこのパタンを変容させる試みなのである。

システム・現実構成・コミュニケーション、これがシステム論的アプローチのキーワードだ。
【2】この家族療法に近年物語論的転回とでもいうべき過程が進行しつつある(2)。
 例えば、イーロンとランドによれば、今日(90年代)家族療法を受けようとするクライエントは、70・80年代のクライエントとは異なったセラピー体験をするという。すなわち「セラピストは人々が自分の人生について語る物語や、その物語から新たな意味を発展させていくことの方により多くの興味を示す」のである(Eron,J.B./Lund,W.T.[1993;291])。
 またパリーも近年の家族療法について次のように報告している。
「家族療法において劇的な変容が進行中である。ホワイトとエプストン、アンダーソンとグーリシアンやホフマンをはじめ、その他ますます多くの療法家によって示される最近の物語の復権は、家族療法における階層構造の残滓に対する挑戦となっている。もし家族療法が徹底的に物語論的なパラダイムの内部で行われることにならば、セラピストはクライエントが記述するのと同じ水準で作用することになるだろう。」(Parry,A.[1991;40])
例えば、ホフマンは、過度に調和を強調していたかつての自分を批判しながら、それへのオールタナティヴとして次のように物語論的な方向性を示唆している。

「私の考えでは、セラピストが、人々の問題は彼らが自分自身に向かってすすんで語る物語なのだ、と考えることはとりわけ助けになる。『自己』でさえ物語であるかもしれないのだ。」(Hoffman,L.[1990;3])
 では物語に注目することで一体どのような癒しが可能になるのだろうか? 今度はホワイトとエプストンの言葉を引いてみよう。彼らの考えによると、人々が癒しを求めてセラピストのもとを訪れるのは、「彼らが自分たちの経験を『ストーリング』している物語と/または他者によって『ストーリーされて』いる彼らの物語が充分に彼らの生きられた経験を表していないときであり、そのような状況では、これらのドミナント(優勢な)・ストーリーと矛盾する彼らの生きられた経験の重要な側面が存在する」のである(White/Epston[1990=1992;34])。したがって治療とは「オルタナティブ(代わりの)・ストーリーの同定と誕生」を目指す試みであり、そのような方法によってセラピストは

「人々が新しい意味を上演することを可能にし、望ましい可能性、すなわち、人々がもっと役に立ち、満足のいく、幅広い解釈を許すものと経験するであろう新しい意味をもたらすことを可能にするのである。」(White/Epston[1990=1992;34])
 つまり簡単に言えば、家族療法のセラピストたちは家族成員の語る物語に注目し、これを望ましい形で語り直すことによって、問題を再生産するシステムを変容させようと試みるのである。それでは、なにゆえ近年にいたってこのような転回がシステム論的アプローチに生じたのであろうか?
【3】以下の節でこの問いを考えていくのであるが、その前にこの考察が取ることになる屈折した立場について触れておく必要がある。
 実は社会学においても今日「物語」は重要なトピックとなりつつあるのであるが、その際、物語に対するスタンスの取り方には二種類のものがあるように思われる。ひとつは、物語行為による現実構成が人間にとって普遍的な現象なのだと考える立場であり、それに対応して、物語論とはあらゆる現実構成を捉えるための方法であると理解する立場である。例えば、構成主義を標榜し、それの展開形態として物語論を位置づけるK・J・ジャージェンなどはそのような立場をとっていると考えられる(Gergen,K.J./M.M.Gergen[1983][1988])(3)。
 それに対してもう一つの立場は、物語による現実構成を歴史特殊的なものと考えるそれであり、それに対応して物語論もまたそのような特殊な歴史状況の中でのみ妥当性を有すると考える立場である。例えば三上剛史の議論をこの立場に属するものと考えることができる。というのも、彼は、ポストモダン社会において物語が様々な困難に逢着することを指摘した上で、このような困難を物語の語りなおしによって乗り切ろうとする理論を過渡期の(したがって特殊現代的な)理論として位置づけているからだ(三上剛史[1993])。
 本論が立つのはこの二つの立場のいずれでもない。あるいはそのいずれともなりうるようなそういう立場であるといってもよい。すなわち、一方で、現実構成はどのような社会においてもやはり物語行為を通じて行われるであろうし、その意味で物語論はそれを捉えるための普遍的な方法論であると考えられる。したがって家族療法の物語論から社会学は多くのことを学ぶことができるだろう。しかしながら他方で、そのような遍在する物語というテーマが明示的に理論の内部にあふれ出してきたのはごく近年のことであり、したがって、物語論というのは(そしてそのような「論」を誘発する諸物語もまた)歴史特殊的な現象であると見ることができる。そしてむしろこのような物語論の隆盛それ自体が、物語論の対象とすべき現象であるということができるのではないだろうか。
 本論もまた物語論的スタンスを取るのであるが、それは、このような物語論自体の歴史特殊性を理解するための方法論としても有用であるかぎりにおいてなのである。それゆえ本論は物語(論)についてのいわばメタローグとなるであろう。


2. 家族療法の物語論へのシフト

【1】物語論的家族療法がそれ以前の家族療法とどのように異なっているのか、それをまず見ていこう。それによって、家族療法に生じつつある変容がどのようなものであるのかを理解することができるだろう。
 第一の特徴としてあげられるのは、それが言語を最も基本的なカテゴリーと考えている点である。はじめに確認しておいたようにシステム論的アプローチは、システムを介入の対象と考えそれを変容させようとする試みであり、物語論的家族療法もまたこのアイディアを共有している。だが同じくシステム論的アプローチの立場を標榜していても、物語論的家族療法の方はシステムに対して言語の方がさらに基底的であると考える。例えば、物語論へのシフトに大きな影響を与えたマニフェスト的論文の中でアンダーソンとグーリシアンは次のように言っている。

「問題の領域にある言語がシステムを区別する。システムが問題を区別するのではなく、問題について言葉を取り交わすことがシステムを造り出すのだ。」(Anderson,H./Goolishian,H.A.[1988;379]) 
つまり「システムは言語的相互作用の中に存在し、また、われわれの理論の・レトリックとメタフォリカルな物語・のうちに存在する」のである(Anderson/Goolishian[1988;379])。
 これは、神経系や細胞の代謝をモデルとして構想されていたそれ以前のシステム論とは本質的に異なっている(4)。例えば、ホフマンは、はじめはマトゥラーナやヴァレラなどを代表者とする従来の構成主義と「社会的」構成主義とが同じだと考えていたのであるが、やがて

「私は次のことを理解した。社会的構成主義者は、社会的解釈過程と言語・家族・文化の相互主観的影響力の方をより重視しており、神経システムがものを知覚するときのオペレーションについてはさほど重視していないのだ、と。」(Hoffman[1990;2])
そしてホフマンにとっては、個体に準拠するそれまでの構成主義よりも言語的相互作用に直接照準する社会的構成主義の方が人間のシステムを扱うためには適切であるように思われたのである(5)。
 リアルの整理を借用すれば、家族療法は初期の戦略的局面から情報ベースの局面を経て、今日、言語的相互行為に基礎をおく新しい局面にはいったと見ることができよう(Real,T.[1990;256])。
【2】さてこの言語的な営みに照準することを通じて、物語論的家族療法は、クライエントのライフ・ヒストリーを時間軸にそって再構造化し、いわば「新たな歴史を創り出そうとする」(Anderson/Goolishian[1988;381])。このような時間的構造化が第二の特徴としてあげられるべき点だ。
 例えば、イーロンとランドによると、物語論的視角の利点は人生のよい時期も悪い時期もあわせて考慮に入れることのできる点にあるという。すなわち「物語論的視角は、家族療法の理論と実践に歴史と時間の流れという次元を付加することによって、家族内での問題の進化についてより包括的な評価を可能にしたのである」(Eron/Lund[1993;298])。問題は、クライエントの過去から現在、そして未来へ向かうある時間的構造の中で進化していくものであり、この構造に介入し変容させることで問題は解消に向かう、と彼らは考えるのである。
 ホワイトとエプストンにとっても、物語と歴史との関連は本質的である。すなわち、

「この経験のストーリング storying の成功が、人々に人生における連続感と意味を与え、日常生活の秩序とさらなる経験の解釈の基盤となる。全てのストーリーには、始まり(または歴史)と中間部(または現在)、そして終わり(または未来)があるので、現在の出来事の解釈は、過去によって決定されているほどに未来を形作っていくものである。」(White/Epston[1990=1992;29])
そして時間軸にそって出来事をプロットしながら、それまで気づかなかった変化に目を向けさせ、固定した物語パタンを流動化し、新しい物語=歴史を創り出すようクライエントを援助していくことが、セラピストの役割となる、と彼らはいう。したがって「物語の概念の方が、時交差パターンにおける出来事の局在化を要求する点で、明らかに地図の概念より優位にある」のだ(White/Epston[1990=1992;21])。
 こうして、これまでは、システムの内部に生じた共時的な(したがって無時間的な)構造に注目してきた家族療法は、ホフマンのメタファーを借りれば、「無時間的循環にかわって、時間軸にそって流れていく川へとわれわれの注意を向けた」のである(Hoffman[1990;3])。
【3】時間軸にそって出来事をプロットするといってもそのやり方、すなわち物語り方にはいく通りものヴァリエーションがあり、同じ出来事についても異なった物語が可能となる。とすると、いくつかの可能な語り方の中からどれかひとつを特権的な「現実」として選び出す力がそこには作用しているはずだ。物語間に働くこの力への注目とその明示的な主題化が、物語論的家族療法の第三の特徴である(6)。
 シュニッツァーはこのような力を「優越する物語 dominant narrative」という形で理解している。彼の考えでは、「優越する物語は常識のようなものとして作用する。つまりわれわれは自明であるものには疑問をもたないし深く考えてみることもしない」(Schnitzer,P.K.[1993;454])。そして「優越する物語を受け入れることは現状を維持することになるのだ」(Schnitzer[1993;455])。
 このような自明性によって他の物語の可能性を奪う物語を、パリーは「神話」とよんでいる。彼はこういう。

「神話は可能なものの限界を定義する力をそなえている。・・・自明の現実を創り出すその力能のおかげで神話は、なんらかの挑戦を受けないかぎり、個々人の体験を押さえ込み、無効にする力をもつことになる。」(Parry[1991;48])
神話は自分を可能な唯一の物語として、したがって他ではあり得ない特権的な現実として、疑問をさしはさむ余地のない自明で自然な説明として提示する。したがって治療とは優越する物語や、家族神話を相対化し、それとは異なった、より苦痛の少ない物語をクライエントが語れるように支援するという作業として理解されるのである。
 ベイトソンの影響を強く受けてきたために、これまでの家族療法は、現実がいまあるようになっていることを「力」に基づくモデルで説明することを極力避け、すべてを諸要素の相互作用として(したがってどの要素も現実に対して責任の一端を有すると)理解しようとしてきた。だが家族内部での女性・子どもへの暴力という現実を背景に、この種の、責任の所在を曖昧にするような、あるいは「被害者」にも責任の一端があるのだというような議論の組み立て方は(特にフェミニズムの陣営から)次第に批判を受けるようになってきた(Flaskas,C./Humphreys,C.[1993])。
 家族療法の物語論的転回は、物語間に作用する「力」というアイディアを導入している点で、上の批判に対するひとつの回答になっていると考えられよう。例えばホフマンは、自分が物語論的立場へシフトしていくきっかけとなった三つの理論的運動をあげて、そのひとつはフェミニズム(からミラノ学派へ向けられた批判)であったと回想している(ちなみにあとの二つは上でふれた「社会的構成主義」と、次に説明する「セカンド・オーダー・サイバネティクス」である)。また、フラスカスとハンフリース、ホワイトとエプストンなどはシステム論と両立する「権力論」のモデルとしてフーコーに強い関心を示しているのだが(Flaskas/Humphreys[1993]White/Epston[1990=1992;48-])、これも「権力」をディスコースにおいて、あるいはディスコースの展開される社会的なネットワーク上において作用する力として把握しようとしているからである。
【4】このような「神話」や「優越する物語」が相対的な(したがって他でもあり得る)ものであることを示し、別の物語を語り得るようにクライエントを支援しようとするならば、必然的にその営みは、セラピスト自身の言葉をも相対化しクライエントの物語と同権的な位置に置くことになるだろう。つまりセラピストはクライエントと同じ水準に立っており、同じ語りのシステム(すなわち同じ問題を語り合うシステム)にクライエントと同じ資格で内属しているのである。このセラピスト/クライエントのシステム共内属性を明確に認識している点が、物語論的家族療法の第四の特徴だ。
 従来の家族療法は、しばしば無自覚のうちにセラピストをシステム外部の、システムをトータルに見ることのできる位置においてしまっていた。そのためクライエントが予期されたような変容を遂げない場合それは、その家族システムが強固なホメオスタシスをそなえているから、あるいは治療に抵抗しているからであると説明され、セラピスト自身はなんらの変化をも被ることなくシステムの外部にとどまり続けていた(Dell,P.F.[1982])。言い換えると、当該問題に関するセラピストの語りは特権的なものとみなされ、クライエントのそれに対して優越する位置に置かれていたのである。
 物語論の導入は、このようなシステムの「外部」(特権的な語りの審級)を棄却する試みであり、したがってセラピスト/クライエントの関係を脱ヒエラルキー化しようとする試みだ。たとえセラピストといえども(あるいはだからこそ)、いったんシステムに関わりをもったならばクライエントとともにそのシステムの一部となるのであり、決してシステムをトータルに観察したり、自らを変容させることなくそのシステムに介入し得る地点になどありはしないのだ。理論は「観察対象としてのシステムから観察者システムへ」と焦点をシフトさせていかねばならないのである(Real[1990;257])。
 一般システム論のタームを用いれば、物語論的家族療法は、セラピスト/クライエント関係をいわば「セカンド・オーダー・システム」として理解すべきだと考えているのだということもできよう。すなわち「セカンド・オーダーな見方とは、セラピストが変化を必要としているもののうちに自分自身をも含んでいるということを意味しているのであり、彼らは外部に立っているのではない」ということだ(Hoffman[1990;5])。その結果、これまでの治療方法に比較して「問題と変容に対する物語論的なアプローチの特徴は、共働的で非指示的な治療スタンスである」ということになる(Eron/Lund[1993;292])。そしてそれに対応して、治療的会話の目的は「ほんとうの事実」なるものの探求ではなく(それは特権的視点を前提にしている)、合意できる物語を創出することへと移行するのである(Smith,Th.E.[1991;219])。


3. 変容するリアリティ

【1】前節で物語論へと志向する家族療法が四つの特徴をそなえていることを見てきた。それらは一見するとランダムに並べられたもののように見えるかもしれないが、実は相互に関連しあいながら、現代社会全域において進行中のリアリティ変容の過程を反映しているのである。
 あらかじめ注意しておけば、家族療法の物語論へのシフトは決して理論内在的なロジックにのみしたがって生じたものではない。例えばホワイトとエプストンは、理論においてどのようなアナロジーが優越するかは「イデオロジカルな因子とか流行している文化的実践などを含む多くの決定因子の積み重ねの結果」であるという(White/Epston[1990=1992;25])。実際物語メタファーならば、システム論の祖ともいうべきベイトソンがすでに用いていたのだ(Bateson,G.[1979=1982;17-19])。それが近年にいたって急に多用されるようになったとすれば、そこには何らかの理論外在的な理由があるのではないかと考えてみるのが自然であろう。もっとも、上のような指摘をしているホワイトたちも、なにゆえテクスト・アナロジーが現代社会において優勢になったのかについてはなんら明白な答えを与えていないのであるが。
 それでは物語論的シフトの背後にあるリアリティの変容とはどのようなものなのだろうか?
【2】現実を構成するという営みは、ごく形式的に表現すれば、一定の規則に従って情報を選択する操作を意味している。この世界はひとりの個人が扱うためにはあまりにも過剰な情報に満ちあふれており、その中を生きていくためには一定の基準=規範に従って情報を選び出し、それらの間に脈絡を創り出すことによって、世界を意味的に対処可能なものとする必要がある。例えば、目の前にいる人間の表情において観察される膨大な情報から一定の情報だけを選び出すことによって、その人物が怒っているのか、喜んでいるのか、悲しんでいるのか、好意を示しているのか、退屈しているのか、といった現実が構成され、しかるべき対応が取られることになる。もしあらゆる情報が等価に考慮されたならば、相手の表情は対処不可能な全き混沌として現れるであろう。このような選択の操作が現実構成の本態なのであり、したがって現実は、そのような選択が準拠している規範に相関してさまざまな現れ方をすることになる。規範が異なれば、現れてくる世界も異なるわけだ。
 ところで、近代社会とはあらゆるルールを他であり得るものと見なそうとする衝動に駆動される社会だ(7)。この衝動に憑かれた社会においては、どの規範も、それである必然性はなくたまたまそうなっているだけ、したがって原理的には変更可能であるという相で現れることになる。そもそも規範とはその規範が従われないことがあり得るがゆえにこそ「規範」という形で定立される意味があるのであって、だれもが例外なく必ず従うような規範はそれを規範として定立する必要がない(例えば「生きているかぎり心臓を動かさなければならない」などという規範は端的に無意味である)。それゆえ、どのような規範であれ、規範であるということ自体において、それは他でもあり得るものなのであり、つまりは「必然的でない」「偶有的な」ものと見なされる可能性を持っている。近代とは、この可能性を徹底的に追求しようとする運動なのだ。
 かくして、近代化の進行は規範の偶有化を推進し、それにともなってさまざまな現実の相対性をあらわにしていくことになる。どのような現実も、他の現実に比べて、特権的に正しいということはないし、誰かにそれを強要することもできない。例えば双子を二人の人間であると見なす現実が、双子を鳥であると見なす(ヌアー族の)現実と比較して、より正しかったりするわけではないということだ。
【3】近代化の推進にともなう現実の多元化・相対化をおおよそ三つの段階に分けて考えることができる。
 第一の時期は、規範の帰属される超越的な審級(具体的には神)が信憑されていた段階である。一方で「神」という超越的なそれゆえ徹底して抽象的な審級に照らして見ることによって、此岸に属するあらゆる規範は相対化されることになるのだが、他方でそのような相対性・多元性は最終的に「神」という超越的な同一性の内部に回収され包摂されていた。神はすべての現実を見渡し、評価し得る「外部」を構成していたのである。第二の時期は、ポスト「神の死」のそれだ。超越的な外部への信憑が崩れ、人々は多元的な現実を、それが最終的な同一性に包摂されるという信仰なしに生き始める。この時期、現実の多元性・相対性は、認識の機能に特化した「学」のシステムにおいてまずは主題化される(ニーチェ、現象学、言語ゲーム論などを想起せよ)。第三の時期は、現実の多元性・相対性が、学のシステムの外部でも広範に共有されるようになる段階だ。それまで相互に隔離されていた各人の現実が次第に交錯し始め、諸現実相互間の関係のあり方が主題化され始める。
 このように段階を分けてみたときに、家族療法の物語論的転回に対応するのは、第二の段階から第三のそれへの移行過程であると考えることができる。従来の家族療法は、セラピストだけが現実の多元性・相対性を認識しており、それを利用してクライエントに戦略的に介入していこうとする、いわば密教的な形態の知であったのだが、近代という運動の進展は、この認識を次第に社会のより広範な領域に押し広めていくことになった。むろんこれは学の啓蒙の成果などではまったくなく、単に、そのような認識を人々に強いる体験が社会の内部に多発するようになったことの結果である(例えば頻繁な異文化接触、急速に広がるジェネレーション・ギャップ、ライフ・スタイルの多様化、フェミニズムの隆盛等々)。それまで異なるリアリティは異なるエリアにすみ分けていたのであるが、それらが互いに交錯する機会が増え、それにつれて各人のリアリティはますます偶有的なものという色彩を強めていく。そしてこの偶有化の度合いが一定の臨界値を越えるとき、密教的な知の段階とは本質的に異なった次のような問題が生じ始めるのである。
【4】第一に、システム(あらゆるリアリティの輻輳する総体)を外部からトータルに把捉する超越的な視点を仮定できなくなるため、異なるリアリティ間のインターフェイスは次第に各人のコミュニケーション状況において個別的に処理されるべき課題となっていく。誰もが無条件に受け入れなくてはならない絶対的基準が解体しつつある以上、そのような基準に依存することなく他者と折り合いをつけていくための手続きが要請される。そこで、他者のリアリティに対して自分のそれを主題化し、両者の関係を首尾よく制御するトゥールとして言語行為があらためて浮上してくるのである。
 第二に、偶有化が進行するにつれて、リアリティ間インターフェイスの問題が生じる水準はあれこれの個別的な出来事の意味から、諸々の出来事の意味づけパタンへと深化していく。いわば出来事の構造化に対する需要が増大するわけだ。言語をトゥールとしてこの課題に対処しようとするとき最も扱いやすい方法は時間軸を導入して、その上に出来事を互いに関連させながらプロットしていくというものだ。物語という言説形態はこのようなプロッティングのための枠組みとして導入されるのである。
 第三に、このようなプロッティングが首尾よく行われたとしても、それはつねに暫定的なものにすぎず、たえず他のプロッティング(物語)との抗争にさらされている。最終的な訴求点を規範のうちにもたないこの争いは、したがって、ある種の権力作用によって決着させられるほかあるまい。そこで人々の間に権力作用への敏感さが高まり、彼(女)らは(権力的)物語に対する脱神話化のためのスキルを身につけ始める。
 第四に、これら諸過程を一望する外部の視点が失効するにつれて、人々は相互の現実に折り合いをつけながらも、自分たちがどこにいてなにをしているのかについてのはっきりした見通しを次第に失っていくことになる。このような見通しのなさに関しては、このシステムの内部にいるすべての人々が同列であり、リアリティ間インターフェイスの問題処理はつねに暫定的なものでしかないという感覚が浸透していく。
 容易に見て取れるように、ここにあげた四つの問題とそれに対する対処は、前節で確認した物語論的家族療法の特徴と重なっている。家族療法が臨床場面で採用する方法を変化させていくのは、そうしなければ人々の現実が実際に変化しないからであり、逆に言えば、家族療法の変容は以上のような現実構成過程の変容が進行していることのひとつの現れと考えられるのである。すなわち、もはや密教的な知の形態とそれを前提にした介入では以前ほどの治療効果を上げることができなくなって(あるいはそう信憑されて)おり、セラピストたちが物語論へとシフトしていかざるを得ないような形で現実構成過程の方が変容しつつあるということなのだ。


4. 結:物語のゆくえ

【1】これまで物語はそれが物語であることを気づかれぬまま、すなわち別様でもあり得ることを気づかれぬまま語られていたのだが、近代化の進展は、複数のリアリティの関係を制御する手段として物語を主題化し始めている。現実はその物語性をあらわにし、物語という形式を通じて操作・制御される対象となる。かつてリオタールは、ポストモダン社会においては大きな物語が信憑性を失い、局域的に展開される無数の小さな物語が社会を覆っていくだろうと予測したが、その「小さな物語」は、このような間リアリティ問題処理トゥールとして機能しているのである。例えばギデンズは、欧米でベストセラーとなった何冊かの人生論をとりあげ、それらがどれもライフ・ストーリーの再構成を支援するマニュアルとして機能しているのではないかと指摘しているのだが(Giddens,A.[1991])、本論の文脈に即して言えば、それらはまさに「物語」を人生という複雑な現実に対処するためのトゥールとして商品化したものと考えられるのである。
 その一方で、言説の操作に特化したサブシステムである文学において、物語と現実とが相互に嵌入し始める(例えば岡嶋二人[1993]、柾悟郎[1992]、筒井康隆[1991]などを見よ)。物語は、見通しの立たなくなった世界の内部でその都度の構造化を行って暫定的に有意味な局域を作り出そうとする試みであるのだが、同時にそれは現実の仮構性をますますあらわにしていく過程でもあるのだ。物語の主題化は、それゆえますます現実を偶有化していくであろう。
【2】こうしてすべてが物語になるとき、最も重要な問題は、物語の外部に出ることではなく、有用なあるいは魅力的な物語を語ることとなるだろう。ここに見られるのは物語論的家族療法のコンセプトに同型のそれだ。すなわちどれだけたくみな物語を語れるか、これが重要なポイントなのである。

「たくみな物語を語ることによって、自分自身へまた他人へ向けてくり返された物語の引き起こす苦痛が減少し、また問題に焦点を合わせたシステムが解消するというのは適切なことであると思われる。」(Smith[1991;217])
倫理と認識の軸は現在大きくシフトしつつある。ますます偶有化していく現実に対処するために、より有用で魅力的な、より人を引きつけるような物語へと人々は向かっていくのである。
 物語論的家族療法は、現実が物語的に構成されているということ、そしてこの構成過程に現在変容が生じているということ、そういったことについてある洞察を与えてくれた。だがそれ以上に、どのような物語を語ることが人を癒すのか、あるいは生を豊かにするのか、そういったことについて家族療法の臨床的知見は今後さらに多くのことを教えてくれるであろう。


【注】

(1)例えば、その共有認識を抽出したものとして長谷正人[1991]をあげることができる。その中で長谷は、家族療法の扱うパラドクスを「行為の意図せざる結果」と、さらには、近代社会の基本的な構造と、相同的であることを示して見せた。また家族療法において展開されてきたコミュニケーション理論をよりマクロな社会体の類型へ転用したものとして、パースの試みがある(Pearce,W.B.[1989]、Cronen,V.E./Pearce,W.B./Tomm,K.[1985])。
(2)以下に紹介する論者たちは多くの場合物語(narrative, story)ということばを定義することなく用いているのであるが、そのこと自体、つまり明示的に定義しなくともその内容が伝わるだろうという信憑が共有されていること自体、社会学的には興味深い。
(3)ジャージェンの物語論については、浅野智彦[1993]を参照。
(4)あとでもう一度触れることになるが、ベイトソンがすでに物語メタファーを用いていた。しかし彼にとってはセコイアの森やイソギンチャクの精神も物語的に思考しているのである(Bateson,G.[1979=1982;17-19])。
(5)デルもまた家族システムは意味のシステムであり、生物や機械システムとは根本的に異なるのだと主張している(Dell,P.F.[1982])。
(6)構造派のモデルには一種の権力関係が含まれているが(例えばMinuchin,S.[1974=1984])、ここでの権力関係は言説空間の中で作用する点でそれとは異なっている。
(7)近代社会についてのこのような規定は多くの論者に共通するものであるが、とりあえずギデンズとパースを参照せよ(Giddens,A.[1991]、Pearce[1989])。


【引用文献】

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