「学習者であること」を学ぶ:授業成立の前提条件として


1 問題意識と課題
 本稿は、教師と児童・生徒の間の教育的関係、つまり、教師が教える(指導・支援する)立場であり、児童・生徒が学ぶ立場である、という対応関係が、実は児童・生徒によって学習されるべき内容の一つであることを指摘するものである。これは、「教える−学ぶ」という関係を十分な検討を経ずに自明視してきた従来の教育言説の盲点を補完する試みである。

2 学習者としての自己規制
 たとえ画一的な行動様式を排除し、既成のカリキュラム内容にも固執しない臨機的な教授行動によって「創造的」な授業を行うとしても、その授業の過程において教師は、学校に特有の思考・行動様式を暗黙の前提として児童・生徒に期待している。その思考・行動様式とは、自分が教師の指導(支援)のもとで教師の判断(要求)に従って学習しなければならない存在であることを認めて自己規制することである。
 
3 校外生活からの飛躍
 校外生活と学習者であることの間の葛藤を低減することは可能であっても、消費者(被養育者)としての行動と学習者としての行動が二律背反するとき、児童・生徒が学習者として振る舞ってくれなければ、授業は成り立たない。例えば、いくら教師が市場原理に配慮して「漫画や雑談より楽しい授業」を標榜していても、児童・生徒の「授業より楽しいから漫画や雑談に興じる」「授業より有意義だと思うので「内職」に励む」という消費者として当然の選択を公然と追認することは困難である。教師は授業過程の要所要所で、児童・生徒に対して、消費者(要求する立場)や被養育者であることを一時やめて、学習者(要求される立場)へ飛躍するように要求せざるをえない。

4 興味・関心は自己規制を促すか
 児童・生徒は、教師の承認が得られなければ、授業中に各自の関心事に取り組むことを自制しなければならない。いいかえれば、児童・生徒は、授業過程において何を教材とすべきかを最終的に決定するのは教師であることを承認しなければならない。教師が児童・生徒の興味・関心に配慮しているとしても、児童・生徒が各自の関心事に取り組んでよいのは、教師がその関心事を教材として承認するか、または教師が「今は(この児童・生徒が欲することなら)何をやってもよい」と判断した場合に限られる。教師の承認なしに各自の関心事に取り組むことは「内職(逸脱)」と見なされるリスクを冒すことである。

5 結語:学習者であることをいかにして学ぶか
 児童・生徒が学習者としての自己規制を学ばなければ、いかにカリキュラム内容に工夫を凝らしても、それらが児童・生徒によって学習されることは期待し難い。今後は、学習者としての自己規制を学校教育成立の前提条件として明確に位置づけ、児童・生徒がそれを学ぶ機会を意図的に設けてゆくことも、教育改革の一環として検討に値する課題なのではないだろうか。

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