目次

はじめに
 現在、学校教育の場においては、生徒(児童)やその保護者が自分(わが子)に対する不本意な処遇に対して強硬に反発する事態が頻発している。その反発の対象には、授業時間中の廊下の徘徊を注意された、暴力・恐喝事件への関与について追及された、などの、どちらかと言えば生徒(児童)の側に非がある行動への処遇も含まれている。この現象に象徴されるように、生徒(児童)や保護者の間に「学校は他の何をさしおいても私(わが子)にとって快適な場所であるべきだ」という考えが浸透して久しい。その上、現在の学校教育改革は、選択科目の拡充ややる気を出させる(むりに勉強させない)学習指導など、生徒(児童)がそこから「学校ではやりたいことだけやっていればよい」というメッセージを読み取る可能性が高いものになっている。このような状況下では、「個性を生かす教育」は事実上「生徒(児童)の要求を全面的に受け入れる教育」になりかねない。
 本稿ではこのような筆者の危機感を背景として以下の三点を追究する。(1)快適さの追求と同じでないならば、個性的に生きるとはどういうことか。(2)現在「個性を生かす教育」がことさら強調されている背景は何か。(3)生徒(児童)が個性的に生きることを支援する教育とはどのようなものか。

1 個性とは「逸脱でない異端」である

2 個性がもてはやされる社会とは

3 過酷な個性的人生の支援とは

おわりに
 多くの問題を抱えながらも先人が築いた安定と繁栄を背景として、生徒(児童)には私的欲望の充足を最優先する傾向が浸透している。学校教育関係者の間に見い出される個性的であることの過酷さの看過や、生徒(児童)の自己決定の多様性を過小評価した上での自己決定の推奨は、このような生徒(児童)の傾向と相まって「個性を生かす教育」の内実を生徒(児童)の欲望への迎合にしてしまう可能性をはらんでいる。筆者は、そのような迎合が以下のような事態を招くことを危惧する。正統的行動様式との関係で自分を位置づける機会を失ったまま欲望充足を志向し続ける結果、生徒(児童)たちの多くが、危機的状況で生き残って活躍するどころか、危機への対処を他人任せにして私的欲望の充足に専念し、自身の没落と社会の衰退が自分にも起因するとは考えもしない人間へ成長してゆく、という事態である。

キーワード 個性 正統的行動様式 消費社会 危機管理 近代的自我

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