教育方法学会第35回大会 1999.9.29. 於.金沢大学
課題研究II あらためて道徳教育を問う:「幼児期からの心の教育」と家庭の役割を含めて

「心の教育」の抑圧性について(抜粋)



はじめに

 提案者は「心の教育」を、提唱者たちの善意にもかかわらず、子どもに対して大人への絶対的服従を強いる抑圧的営みであると考えている。そしてそのような性格を、教育の場に広く深く影響を及ぼしているいくつかの通念に由来するものであると考えている。

1 「心の教育」の前提となるいくつかの通念

(1)合意形成への期待

 「心の教育」は子どもに対して以下のように(多くの場合暗黙裡に)要求する。「ナイフを携帯したいと(今後永久に)思うな」と。ここでは、ナイフ携帯の是非に関する子どもと大人の判断が一致することの可能性と妥当性が素朴に前提されている。つまり、子どものナイフ携帯は誰が見ても悪いことであるとあらかじめ断定されている。したがって「ナイフの携帯は正当である」と主張する子どもには、その主張がどれほどの熟考を経たものであっても、「改心」以外の可能性は原理上認められていない。

(2)身体の意図的制御への期待

 「ナイフを携帯したいと思うな」という要求は、「ナイフ携帯の意思なくしてナイフの携帯はない」ことを前提としている。逸脱行動は明確な意思に基づく身体制御の所産であり、「よい意思」から逸脱行動は生じない、と信じられているのである。

 しかし、人間の活動の大半が、意図的制御よりはむしろ習慣に従って行われていること、その習慣的行動がしばしば個々の場面における意図的な身体制御に優先されることは経験的に明らかである。身体の意図的制御を万能視する「心の教育」によって、現実に起こる心身の矛盾に適切に対処できるとは考えにくい。むしろ「心の教育」自体が以下に示すようなトラブルを引き起こす可能性さえある。

  • 1)大人の期待どおりに「改心」した子どもが再び「過ちを犯し」、約束(決意)に背いたことで自己嫌悪を深める。
  • 2)自覚的な判断とは無関係に強迫的にナイフを携帯している子どもが、すでにナイフ携帯を欲していない以上実現不可能な「改心」を求められたり、「本人が自覚していない心の傷がナイフ携帯の原因である」等の大人が立てた仮説への同意を求められたりして孤立感を深める。 (3)不可逆的進歩への期待

     実践上の問題の解決(ナイフによる殺傷事件の抑止)のためなら、子どもの同意(改心)を要しない手段(ナイフ携帯者の摘発と処罰)を「心の教育」と併用することも可能である。しかしこのような主張に対して、「心の教育」の提唱者からすぐさま以下のように反論されることが予想される。「力による押さえつけの効果は一時的なものに過ぎず、その反動は別の(しばしばより深刻な)逸脱行動として現れる」と。この反論の奇妙な点は、適切な教育的働きかけさえすれば、わずか数週間から長くても数年程度で逸脱行動をその後の人生から永久に除去できると考えていることである。つまりこの反論は人間の不可逆的加工(進歩)が可能であると信じていなければ発し得ないものである。

    2 「心を不問にする教育」の可能性

     提案者の考えでは、「心の教育」の問題点は、それが子どもに「改心」を迫ること自体ではない。問題は、大人がその抑圧性を自覚しないことであり、子どもの「確信犯」的不服従や面従腹背を許容しないことである。従って提案者は、「心の教育の抑圧性の克服」とは、抑圧的でない教育を構想することによってではなく、抑圧性を低減し、子どもが大人に全面的に服従しない(「心までは売らない」)ですむ状況を整えることによって実現されるものであると考える。このように考えるときに即座に思いつく大人の対応は、当面期待どおりの行動が得られている限り本心は不問にすることである。

    (1)「心」とはある種の行動の総称である

     我々は「心」そのものを見ることはできない。ある種の表情や仕草や言葉を、怒りや喜びや悲しみの表現として、つまり「心」として見ているに過ぎない。

    (2)「心を介して行動を変える」という迂回路

     「心の教育」においては、近代的な教育の例にもれず、行動の変容を意思の変容(子どもの同意)によって実現するという、いわば「民主的」な迂回路が採用されている。しかし、この迂回路は、これまで信じられてきたほど効果的なものなのだろうか。

    おわりに

     「心の教育」の奇妙さは、それが近代的な「パストラール権力」の一典型であるにもかかわらず、二十一世紀の教育のキーワードの一つになるほど斬新なものとして語られている点にある。提案者は、このような奇妙さを放置すること、言い換えれば「心の教育」の抑圧性に関する大人の無自覚を放置することで、以下のような事態が生起することを危惧している。子どもたちがどこまでも大人に服従しようとしてその思考・行動様式を画一化させてゆくか、あるいは逆に大人に服従するふりをして、実は大人の関与を絶対に許さない自分(たち)だけの世界に閉じこもってゆくか、大人とのかかわりにおいて子どもにその二つの選択肢しか残されない、という事態である。それは、言い換えれば大人と子どもが相互に相手を他者と認識しながら接する可能性が失われてゆく事態である。

    ※なお後日、複数の現職教員の方から、児童生徒の実態をふまえれば後者(児童生徒の面従腹背)の可能性は皆無に近い、とご指摘を受けた。この指摘やその後の「学級崩壊」の経緯をふまえるならば、むしろ憂慮すべきは、内面を変えようとする教師の抑圧的な振る舞いに児童生徒が反発し、形式的な服従を求める指示にさえ服従しなくなる事態である。

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