ゼロに戻す、ゼロを保つ


ある教育関連の国家公務員は、「豊かになった今こそ、戦後初期に標榜された教育の理想を追求できる」と語り、ある社会科学系の職業知識人は、青少年に蔓延している閉塞感をふまえて「終わりなき日常をまったりと生きよ」と呼びかけました。

こういう言葉を聞くと、彼らはつくづく私とは違う世界の住人なのだなあと思ってしまうのです。

 たちどころにこれくらいの疑問がわき上がってきて、一つ一つ言葉にすることさえもどかしく、うなり声のような音声を発しただけで黙ってしまうことになります。

 彼らが出発点(ゼロ)だと思っている水準は、先人が営々として築き、そして今なお多くの人々によって辛くも維持されているものだ、ということを、私は知っていて彼らは知らない、または、私は口に出してしまう性分で彼らは知らないフリのできる性分だ、ということでしょう。

 豊かな社会は、創造力や勤労意欲、時に犠牲的精神に満ちた人々によって築かれ、今もそうした人々によって支えられています。この豊かさを支える次の世代を育てなければ、十数年後に豊かさは昔話になります。

 「終わりなき日常」は、国内的には警察や消防などの組織による安全の確保によって、国外的には悪意ある武装勢力の跋扈を抑止する軍事力のバランスによって、辛うじて維持されています。

 教育についてもしかりで、「個性を生かす教育」というのは、日本人がおおむね同じ言葉を話し、おおむね同じ道徳に則って行動するようになって、個性にまかせてもとんでもないトラブルが生じない、という状況が維持されている限りにおいて有効なスローガンです。いわゆる「方言」の問題、たとえば「なおす」が近畿では「整理する」関東では「修理する」の意味で使われているとか、yesに相当する返事が「ない」である地方があるとかいった問題を考えてみれば、「話せば分かる」という日本人が大好きなスローガンが、「画一的な日本語」を前提としていることがわかるはずです。

「個性」というものは、壮大な画一性の上に薄っぺらく乗っかっている限りにおいて「個性」であって、社会通念上不可欠な画一性を無視した「個性」は「逸脱」と呼ばれます。教育というのは長くその壮大にして不可欠な画一性を築き上げてきたわけですが、今やその機能自体が悪し様に言われている有様です。

 そういえば、古い友人で、「パソコン」と「パリコレ」を書き分けられない人がいました。きっと「夕刊」と「タモリ」も書き分けられないだろうと思います。とても「個性的」な筆跡ですが、迷惑なだけです。(未完)



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