禁じられた「故郷」(2)

そもそも「語ることを許されぬ「故郷」」について書こうと思ったのは、以前お世話になった方の思い出の地をめぐる顛末がきっかけでした。

大阪在住時にお世話になったその方は、戦前戦中に関東地方にあるとある旧陸軍の施設に勤務したことがあるとのことで、関東地方出身の私に、繰り返しその施設に勤務していたころの話をしてくださいました。

その後私は関東に異動し、相前後してその方は体調を崩され、車椅子の生活に入られました。お見舞いに伺うたびにその方は、件の旧陸軍施設の話をされ、「今の地図でいったらどのへんなのだろう」「今は何が建っているのだろう」と独り言のように繰り返されるのでした。

時は、『棄景』を嚆矢とする丸田祥三氏の一連の写真集によって、近代日本が造っては打ち捨ててきた廃墟への関心が高まり、ちょっとした「廃墟ブーム」を迎えていました。軍事施設跡地はしばしば典型的な廃墟と化しており、とある雑誌に件の旧陸軍施設の写真と所在地が掲載されているのを、私は偶然目にしました。それは、現在の自宅から自転車で15分ほどの場所で、跡地の一部は緑地公園になっているようでした。

ちょうど桜の季節だったので、緑地公園の桜を撮影しに行くことにしました。一帯は、広大な緑地公園、劇場や博物館などの文教施設、自衛隊の基地、フェンスで囲われた広大な空き地(在日米軍が使用していたことを示す英語の看板が立っている)が隣接する、見る人が見れば一目でそれとわかる、典型的な軍事施設跡地でした。

桜の写真をとるついでに敷地内を可能な限り歩き回ってみましたが、この土地がかつて何に使用されていたのかを示す碑のようなものは一切見つかりませんでした。仕方がないので、旧陸軍施設に特徴的な、分厚いセメントで固めた給水塔(見張り台兼用)の写真を撮って旧軍施設跡地であることの証明にしました。この給水塔は、同じように旧軍施設であった我らが東京学芸大学キャンパスの近所にも一基残されており、見覚えがあったのが幸いしました。

旧軍の愚行はそれとして語り継ぐべきことでしょうが、そして軍隊時代の思い出などは老人達とその家族が私的に語っていればよいことなのでしょうが、その私的な語り継ぎのよすがとなる記録さえ残さずに、軍事施設跡地は「平和利用」されてゆきます

当事者たちの思い出に対するその容赦なさは、旧軍の愚行を糊塗しようとする人々の姑息さと表裏一体をなしているかのようです。彼らはいずれも、物事には光と影の両面があるということ(ここでは、愚行を重ねた旧軍ゆかりの施設が、ある人にとっては大切な思い出の土地であること)に耐えられないのでしょう。

桜の写真はさっそく現像してお送りしました。奥様から丁重な礼状が届き、毎日のようにその写真を取り出しては眺めていると書かれていました。

私にも似たような「故郷」があります。もう三十年も近寄っておらず、時々サッカーの試合でテレビに映るのを見るだけの「故郷」です。まるで、故郷を離れた松井さんだけが、故郷を離れた動物たちに出会うことができるように、いくつかの偶然によって、自分と似た境遇の方に「故郷」の便りを送る機会を得ることができました。前項「禁じられた「故郷」」をしたためた所以です。

追記(03.1.14.)

二度目の「故郷の便り」を待たずに、その方は亡くなりました。最初の便りが間に合ってよかったと、つくづく思います。私を件の旧軍施設近郊に呼び寄せてくれた東京学芸大学スタッフのみなさんや、旧軍施設が雑誌に取り上げられるような「廃墟ブーム」の先駆けとなってくれた丸田祥三さん、その雑誌を作ってくれたみなさん、その他この件にかかわるすべての方々、本当にありがとうございました。


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