非行臨床の理論と課題

N97-6109 岡野晃二
(心理臨床;カウンセリング)





第一章 本研究の意義




第一節 本研究の目的


 少年非行問題が深刻化しているといわれ、最近は新しい非行の波が押し寄せているのではないかともいわれている。少年非行の現在に至る変遷は、戦後三つの大きな波があった。第一の波は、終戦直後の社会的混乱期を背景とする昭和26年、第二の波は、高度成長による都市化などの社会変動を背景とする昭和39年、第三の波は、経済的には豊かな社会の中での家庭や地域社会の機能低下などを背景とする昭和58年である。そして現在、戦後最悪であった昭和58年をピークにして、その後少年人口の減少に伴い、少年非行の総量も減少傾向にあったが、平成8年から増勢に転じている。また、人口比でも同様に昭和58年以降下降傾向を示していたものが、上昇に転じており、戦後第四の波が来るのではないかと懸念されている状況にある。

 少年非行は、常に時代を映す鏡であるといわれている。そのため、社会の変化に伴い、非行行動にも変化が見られる。万引きなどの窃盗は従来から多く見られるが、それに加え、「おやじ狩り」といわれるような少年による強盗・恐喝事件、女子高生による「援助交際」、また「キレる少年」による凶悪・特異な事件など、現在の社会の不安定さが感じられる。

 社会はこうした問題を放っておくわけにはいかないのである。それは、少年たちが違法行為だからというような法的な問題だけではなく、実際犯罪に巻き込まれ、被害を受ける人が多くいるからである。今後そうした被害者を増やさないよう、少年の更正・社会復帰させ、再犯の防止が求められるだろう。社会の少年への対処に関し、生島(1998)は、非行少年の処罰に関心が傾き、社会の受け入れに向けての努力を怠れば、非行問題が国の根幹を揺るがす深刻な社会問題となることは必至であると指摘している。

 そこで本研究では、非行に関するさまざまな視点から非行の理論をまとめ、非行少年への心理臨床的なアプローチの実践理論を概観することで、少年の立ち直りを目指した対応の実際や、今後の課題を検討することを目的とする。




第二節 非行の定義




 田川(1999)による定義では、非行とは、社会的な規範に反する行為を総称する概念であり、わが国では、juvenile delinquencyの訳語として使用され、少年法が制定された1948年以降、広く用いられるようになった。少年法は、少年の健全な育成を期するために、非行のある少年に対して保護処分を行うことを定めている。

 また、非行少年という言葉について、法律では以下の3つに類型を指す。@犯罪少年(14歳以上20歳未満の罪を犯した少年)、A触法少年(14歳に満たないで刑罰法令に触れる行為をした少年。14歳に達していないので刑事責任を問われないため、犯罪とはいわずに触法という)、B虞犯少年(性格、環境に照らして、将来、罪を犯し、または刑罰法令に触れる行為をするおそれのある少年で、具体的には、保護者の正当な監督に服しない性癖のあること、正当の理由がなく家庭に寄りつかないこと、犯罪性のある人もしくは不道徳な人と交際し、またはいかがわしい場所に出入りすること、自己または他人の徳性を害する行為をする性癖のあることなどがあげられる)、というような少年が家庭裁判所の審判に付すべき少年であるとされる。具体的には、刑法犯(窃盗、殺人や強盗等の凶悪犯、傷害や恐喝等の粗暴犯など)、特別法犯(毒物および劇物取締法違反、覚せい剤取締法違反など)、虞犯行為(家出、不純異性交遊など)がある。



第二章 非行の理論




第一節 精神分析理論



第一項 フロイトの理論


 フロイトは、みずから創始した精神分析によって、犯罪原因として無意識的罪悪感が存在すること、その動機として、幼児期におけるエディプス・コンプレックスや去勢不安などが重要であるとした。(石川,1985)。

 福島(1985)によれば、フロイトの考えた犯罪者の心理は、今日では「神経症的犯罪者」とよばれる、かなり特別なタイプの人々であるとし、彼らはエディプス期に抱いた罪悪感が未解決のまま大きくなったために、自ら処罰を求め、また自分が罪人であるという内面の意識を実現するために、無意識の力に駆られて罪を犯すのだという。

 フロイトはまた、人間の心に、超自我・自我・エスという三つの構造を仮定した。エスは本能的な欲動の源泉であり、快楽原則にしたがって人を欲望のままに行動させようとするが、自我はエスと外界との間の調整を行い、現実原則によって欲望を抑えたり、満足を先に延期させたりする役割があるとしている。この構造から福島(1985)は非行の発生を以下のように説明している。

 子どもは小さい時には是非善悪もわからないが、親が子どもの行動に対して叱ったり誉めたりすることによってしだいに社会のルールや道徳感情が芽生えてゆく。このようにして、親の規範意識や倫理が子どもの無意識の中に取り入れられ内面化したものが超自我である。これは大きくなってからも「内面の声」として、人間の行動をコントロールしていると考えられる。このことは校内暴力や、万引き・自転車盗など「初発型非行」の少年少女の親の養育態度を調べてみると、「放任」が多いということとも関係するだろう。

 超自我という言葉を使えば、さきの「神経症的犯罪者」は超自我が強すぎ、自分に過酷過ぎる人々である。しかし、実際の非行少年の中には、その反対に、超自我が十分に発達していないために良心や罪意識に欠陥があるものが多い。また、親が犯罪者などで、ゆがんだ超自我をもっていて、親の歪んだ超自我を子どもがそのまま内面化した場合にも超自我の欠陥は起こるであろう(福島,1985)。

 また、岡堂(1990)は精神分析理論について,臨床的研究の枠組みとして設定されたものであり、数量的データによって支持されている概念や仮説は少ないと指摘している。しかしながら、非行事例の臨床的な解析に役立つもので諸理論家に共通する概念がないわけでもない、と付け加えている。岡堂(1990)は精神分析理論について次のようにまとめている。一般に、子どもは無意識の原初的な衝動をもって生まれてくるが、この衝動には攻撃的破壊的な性質があり、非行行動に変形する可能性があるとしている。子どもが社会的な人間に育っていくには、両親と同一化することによって両親の道徳性を取り入れながら、倫理性を内面化することが大切である。この内面化の過程は、就学前期にあたたかい支援的な家族のなかでのみ進んでいく。つまり、人生初期の養育・家族関係が重視され、無意識の内的要因が中心概念である。また、反社会的行動は、パーソナリティの発達障害として生じる。さらに、非行事例の中には、反社会的行動が内的な神経症的葛藤の行動化とみなされるものがあり、無意識過程が精神活動を決定すると見るため、内的過程の反映としての象徴的意味を非行行為から読み取ることが できる、とする(岡堂,1990)。


第二項 アタッチメント理論


 フロイト以後の精神分析学者たちは、師フロイトがエディプス期や父親との同一化、超自我の形成をもっぱら重視したのに対して、もっと原初的な母子関係にさかのぼって問題の根を探ろうとした。乳児院・養護施設などで育った子ども、小さいころに母親の暖かい愛情やスキンシップに恵まれずに人となった子供の中には、非行に走ったり、人間的な感情に乏しい独特のパーソナリティを示すものが多い。この根源的な体験の欠損は、口唇期的欲求の異常な亢進を招いて窃盗累犯などをもたらすこともあるし、またやり場のない怒り・恨みが、攻撃性の無差別な発散として表現されることもある。甘えの欲求は満たされることがないままにされると、容易に恨みや怒りや攻撃性に転化するものであって、福島はこれを「甘えと攻撃」という理論にまとめている(福島,1985)。

 石川(1985)は、レーヴィスや、デュルンセン、ボウルビィらの乳幼児養育施設で親から離れて育てられている乳幼児を「直接経過観察」した研究を引用し、性格形成と少年非行についてまとめている。それによれば、親から離れて育てられた乳幼児は、知能や学問的知識において著しく遅滞し、永続的な努力をする能力を欠き、反抗的で冷たく感受性が鈍く、非社交的で孤立的な人格に成長したのである。つまり、後年の性格形成や社会適応を決定する因子として母子関係の重要性が確認されたのである(石川,1985)

 父親との関係から、もっと古い母親への関係へと精神分析学者の関心がさかのぼるにしたがって、個々の人間の心理的過程の中心となる「自我」の重要性が注目されるようになってきた。情動をコントロールするのも自我であるし、心理療法やカウンセリングがそれに働きかけ、変化させることができる対象も自我である。治療も単に幼児体験の欠陥や歪みを解決し、その修正や追体験をさせるだけでなく、現在ある少年少女の自我を強化し成熟させていくことが大切だろう(福島,1985)。



第三項 アドラーの個性心理学理論


 石川(1985)はアドラーの理論を引用し、以下のようにまとめている。アドラーは、神経症や非行の原動力を劣等感と心理学的保証作用にあると考えた。彼の説くところによれば、虚弱もしくは不完全な期間を有する子ども、厳格にあるいは愛情も何もなしに養育される子ども、あまりに甘やかされる子どもが特に重視され、これら三つの情況は子どもに不足と劣等の感情を作り出し、その反動として人間力を越えた野望を抱かせる。この劣等感と優越力(権力欲)とは、常に人間生活における同一の根本的事実の二つの側面であり、不可分のものである。人間性というものは、永遠の屈従に耐えることができず、己の神を廃棄することさえ辞さない。不確実と劣等の気持ちは、常にその補償と完全とを獲得するために、より高い水準に到達せんとする欲望を引き起こす。

 個性心理学は、非行を次のように説明する。すなわち、家庭や学校で子どもが失敗し、自信を失いはじめると、その子どもは社会的に認められている有益な道や仕事で努力したり戦ったりすることを避けてしまう。そして自分の敗北を己の無力や劣性を裏書するもののように思い定め、苦労せずにつかめる成功への道を求めはじめる。彼は無断欠席し、嘘をつき、金を盗み、逃避し、あるいは不良の仲間に入り、性的堕落を学び、常に自分を目立った存在にし、さらに自分がすっかり大人になったつもりになる。このような安易な道において、彼は一種の優越感に到達し、それによって自分の劣性に対する補償作用を完成する。こうして彼は非行生活に浸りつづけ、哀史を洗おうとしない。というのも彼はこのほかの方向では決して成功できないと信じているからである。したがって非行少年というものは、表面はいかにも無分別で勇敢であるかのように見えるが、その心底には常に臆病や劣等感が潜んでいる。彼はいつも必ず成功するに決まっている事柄をなし、それでもって己の弱さを隠蔽し、優越性を見せびらかそうと試みているのである。

 アドラーの個性心理学は、フロイトの性的リビドーに優越欲を持っておきかえ、第二の原動力として社会文化的感情を重視した。アドラーの劣等感の概念と、過剰補償についての学説は、常識的、実用的であり、医学的にも教育学的にも有益な影響を及ぼしてきた。非行少年には強い劣等感をもつ者が少なくないだけに、今後もこの学説に基づく治療ないし教育法が適用されるであろう。

 アドラーは、親や教育者や治療者に対して、決してみずからをへこたれさせたり、絶望させたりしてはならないと強く忠告する。当の子どもがいかに大きい問題を示していても、その子どもを環境における種々の要素に関連させて観察し理解したうえでなおかつ失敗を予想してはならず、もっと勇気づけ、もっと自信を与え、困難とはぶつかって征服すべき問題であることを教え導くべきである、と強調する。


第二節 情動障害の理論



 石川(1985)や、福島(1985)から引用すれば、ヒーリーはmental analysisという多因子分析法に加えて、精神分析理論、個性心理学や深層心理学の考え方を取り入れ、人間関係の障害によって生ずる情動生涯を非行の根本原因とみなしている。

 ヒーリーらは、同じ家族の中で同胞として育ちながら非行に陥った少年と非行に陥らなかった少年105組を対にして、遺伝、家庭環境、身体的特性、精神的特性、情動障害、適応性などについて、多角的かつ力動的な観点に基づいて、徹底的な事例研究を長年行った。この結果、非行少年では何らかの外傷的情動体験が91%にみられたのに対し、非行のない少年では13%に過ぎなかった。

 ヒーリーらは、「非行は個人の生命活動の全体の流れの中の一小部分であって、他の行動と同様、内的および外的圧力に対する感応形式であり、自己表現の一変形である」とみなす。この内的および外的圧力とは、少年非行の場合、特に幼少時における深刻な情動障害である。少年は情動障害を代償するような満足を求める衝動から、非行という表現をとって反応する。非行とは、少年にとって不快な情況に対する一種の適応である、とされる(石川,1985)。

 また、福島(1985)は同様に、非行は、他のあらゆる適応行動や不適応行動と同じように、内的ないし外的な圧力に対する子どもの反応パターンの一つであり、ポジティブに見れば変わった形の自己表現ともいえる、としている。

 たとえば、不快な情況を逃避によって免れようとする試みで、家出、怠学、不良グループへの加入などがある。また傷つけられた自我を「男性的抗議」によって強化し支持しようとする試みがある。これは男らしくないと思われている少年が、故意に暴力的な行動に出て自分の強さを確かめたり、非難に対して抗議しようとするもので、暴行、恐喝、スピード違反などに多い。このようにして発現した非行は、反復され、習慣化する傾向が強い。

 ヒーリーの研究方法は、きわめて実証的、多面的、力動的かつ縦断的であり、非行と人格の力動的理解に関し、優れた成果を生み出したのである。現在でも非行少年の診断や治療に適用されている(石川,1985)



第三節 行動科学の理論



 アイゼンクは「学習」ないし「条件づけ」のメカニズムによって非行を理解しようとした。人間も動物である以上、食物を見ると唾液の分泌が高まる。明るいところでは瞳孔が小さくなる。こうした生理的な反射を無条件反射という。また、パブロフの犬の実験でよく知られているように、食物を与えると同時にベルの音を聞かせるなど、もともと無関係な二つの刺激をいつも一緒に与えていると、その犬にはベルの音を聞いただけで唾液が出てくるようになる。これを「条件反射」といい、この「条件反射」を作る過程が「条件づけ」である。条件づけでは、条件刺激を繰り返すことで「強化」することができ、また逆にベル音だけを聞かせて食物を与えないなどの操作によって「消去」することもできる。

 行動科学では、人間の思想や感情よりも、客観的に観察ないし測定しうる人間行動を重視する立場である。したがって、心理学実験室内における特定の状況や刺激に対する測定可能な反応にしたがって、人間行動を正確に量的に研究し、統計的に充分検討したうえで理論をつくり、一般化しようとする。こうして生まれた理論のみが科学的であり、人間の行動を理解するばかりでなく、人間の行動を変化させるためにもっとも有用な接近法を提示するものとされている(石川,1985)。

 学習心理学者たちは人間の複雑な行動も、このような「条件反射」と本質的に同一の現象だとしている。たとえば、子どもの躾について、良いとされることをした時には、誉めたりご褒美を与えるなどの快刺激を与えれば、条件付けによって社会的に好ましい行動が強化され、良いことをするような習慣がつく。反対に悪いことをしたときに、叱ったりして罰を与えれば、負の条件づけがなされ、悪い行動を抑制する習慣がつく。倫理学で「良心」、精神分析学で「超自我」と呼ばれているものは、この条件づけの結果である、と学習心理学者たちはいう。

 人間のパーソナリティには多くの類型・分類があるが、アイゼンクによると独立した因子であることが実験的に確かめられている二つの軸がある。それは、「外向性―内向性」の軸と、「神経症的傾向」の軸とに整理できる。これは、ほぼ遺伝的・体質的な素質というべき生理学的な特性であるという。アイゼンクは、この人格理論に基づいて、MPI(モーズレイ人格検査)という性格検査をつくり、その結果、人間の性格は前述の二つの軸が直行してできる四つの領域のどこかに位置付けられることになる(福島,1985)。

 アイゼンクによると、犯罪者・非行少年には、外向性が強く神経症的尺度も高いパーソナリティの人が多い。それは、外向性が強い人は内向的な人と比較して、条件づけがおこりにくいからである。したがって、兄弟の中で同じような躾のもとで育てられたとしても、一方が非行に走り、他方が良い子に育ったりすることがあるのは、同じ刺激に対しても、条件づけられる能力が違うためである、と福島は考えている。また、条件づけられやすい、「内向性―非神経症的」な子どもに、適切な条件刺激が与えられなかったりすれば、非行に陥りやすくなる。不道徳家庭や、親が放任・甘やかしなどに傾く家の子どもに非行が多いのはそのためであると考えられる(福島,1985)。

 このように、アイゼンクの行動主義心理学では、これまで漠然と「遺伝」と「環境」と考えられていたものの一部を、測定可能な量に置き換えたことが注目される、と福島は指摘している。また、石川(1985)も同様に、アイゼンクの主張の要点は、先天的に条件づけられにくく、外向型であるために、道徳的および社会的に充分条件づけられなかった人が非行少年になりやすい、とはまとめている。個人の行動は、遺伝と環境の作用によって、完全に決定されるという決定論的見地に立つ。この理由から、彼は非行少年はその反社会的行為に対して、責任を負うべきか否かを疑問視する。かといって、治療的懐疑主義に陥るのではなく、かえって人間の行為は決定されるものであるがゆえに、その仕組みを科学的に究明することができ、その仕組みを変える適当な方法を開発することが出来ると考えている。

 また福島は、この理論は非行少年の治療に関して、新しい方向を示唆するとしている。行動主義心理学では、測定可能な罰や報酬というような条件刺激を与えることで行動の変化を起こさせる。これを行動療法といい、学習心理学の理論によれば、法律を犯すことによって得られる報酬(快感、利益、自尊心の満足、仲間からの尊敬など)は非行を習慣化させるが、非行に対して与えられる罰(逮捕、勾留、裁判、社会的非難、施設収容など)はこの習慣を消去させる力をもつことになる。

 しかし、単に刑罰を厳しくすればするほど、非行の再発防止に有効だというわけではない。人間の心理や行動は、複雑でダイナミックであり、古典的な条件反射の実
験から得られた理論では説明するには限界がある。一方、学習心理学者たちは、報酬や罰に関する理論をさらに発展させ、オペラント条件付けなどの理論を構築したり、より複雑な実験手続きによって得られた知見をもとに、有効な行動療法の技法を考案している(福島,1985)。

 石川(1985)は、アイゼンクの行動科学的非行理論に関して、追試に価するテーマであるが、証明は不十分といわざるを得ない点が多いと指摘している。特に、人間に適用された条件づけの方法はまだ不完全で、結果は非常に動揺する。条件刺激の強さ、無条件刺激の強さ、両者間の時間間隔などの変数は極めて複雑だからである。また条件付けと犯罪との関係の究明が浅く、犯罪における社会的・経済的諸要因の役割が軽視されているなど複雑な犯罪現象をあまりにも単純化しすぎるように思われる、としている。


第四節 危機理論



 日本の犯罪心理学者、森武夫(1985)は、非行の「原因」ないし「反応の一つとして非行の原因となりうる要因」としての「危機」に注目し、これを、「@基本的危機、A個人的危機、B思春期危機」の三つに分けるところから理論を作った。

 第一の「基本的危機」とは、資質・人格・環境・文化的な偏りによって、社会生活において正常な適応ができないようなパーソナリティを作るもの、である。これには、古典的な犯罪学が飯院生素質や犯因性人格環境として数え上げたような、多次元の因子が含まれる。

 第二の「個人的危機」とは、日常生活の場面で、偶発的・突発的に出会う危機である。思春期の少年少女の場合には、失恋、風食・進学の失敗、環境変化、友人の問題、欲求不満、葛藤、情動、大人に怒られる恐れなど、「状況に伴う危機」がこれにあたる。

 第三の危機は、人生の発達のうえで必然的に迎える危機で、「古い秩序と新しい秩序の間における危機」、一般的には「成熟危機」といわれるものである。人生には「中年の危機」とか、「更年期の危機」など多くの危機があるが、少年非行に関係するのは「思春期危機」である。これは時代や文化によって異なったようそうを示し、変動が著しい社会ほど深刻である。もちろん、成熟や発達が危機であるという意味は、不安・絶望・同様などを体験しやすいということではあるが、その危機の時期は、同時に新たな生成・展開に向かう可能性をはらんでいる。分かれ道または決断の時といってもよい。

 福島(1985)は、森の「危機理論」について、思春期という発達の危機を重視していることが注目されている、と指摘している。思春期の少年少女は、すでに子どもではないが、まだ大人でもない「周辺人」であり、これから大人にならなければならない存在である。大人になるための副課題とその心理社会的課題の発達がはらむ困難として、@性役割の確立と両性的拡散、A親離れと分離不安、B仲間入りと逸脱集団、C生き方の方向付けと目標の拡散・同一性拡散、の四つを挙げている。

 福島はこれについて、思春期に達成しなければならないこれらの具体的な課題は、時代や国によって大きく異なり、その難しさも変わってくる、と考察する。たとえば、@の性役割について、男女の性役割が固定的で、性のモラルがきちんとしていた時代もあったが、一方、若者向けの性情報が氾濫しているものの、社会や家庭の「建前」としては結婚前の性交に批判的な、二十拘束的な時代もあった。このような問題が四つの副課題について起こり、それはすべて日本をはじめとする先進諸国が今現在抱えている深刻な問題の一つであり、これが、現代の思春期を以前の時代よりもいっそう危機的にしている要因なのである、と指摘している。福島はさらに、現代は、「基本的危機による非行(伝統型非行少年)」などの特異なケースとともに、深刻化した「思春期危機」に直面している多くの少年少女が示す、一般的な「現代型非行」にも目を向け、時代や社会変容とのかかわりの中で非行現象を見つめていかなければならない時代なのである、と指摘している。




第三章 非行臨床の理論




第一節 非行臨床におけるアプローチの方法




 非行臨床のアプローチの方法として、発達、家族システム、精神分析の各視点から非行へのアプローチの方法について、アセスメントや、非行少年の理解を中心にまとめていくことにする。

村松(1998)は、非行臨床におけるアセスメントについて、重要性をまとめている。非行臨床におけるアセスメントとは、少年やその家族の援助のために、彼らから情報を得ることであり、非行性が深化しているとか反社会的であるといった一方向的な評価ではなく、彼らの本来持っている解決能力や自己治癒力の査定である。つまり、非行臨床でのアセスメントにおいて大切なのは、原因探索的ではなく、解決探索的に行うことである。こうした視点をもとに村松は以下に挙げる、発達の視点と、家族システムの視点からのアプローチをまとめている。


第一項 精神分析の視点から

 精神分析といっても、その学派により視点はさまざまである。その中で、須藤が実際の臨床の場で重要視している点を中心にまとめることにする。須藤(1998)は以下の四点を臨床では大切にしている。

1.構造論的認識の必要性

 小此木は、治療関係が営まれる組織や機構が治療者・患者双方に影響を及ぼす点を指摘し、それを克服するためには治療構造論的な認識が必要と述べている。
 須藤の例では、彼は家庭裁判所の調査官という立場にあり、その家庭裁判所という権威を背負っているため、それが少年に及ぼす影響を考慮しなければならない。調査官に処罰的な父親像を投影してくることも考えられる、と須藤は考えている。また、須藤ら調査官は、少年のよき理解者であり、更正のための援助者でありながらも、それが司法的な適正手続きの機能の一翼を担うスタッフであるとの認識をもたねばならない。したがって、調査官と少年との面接関係は、このような構造論的なダイナミックスを視野に入れることが大切になる(須藤,1998)。

2.ホールディング(holding)

 須藤はウィニコットの言葉を引用し、ほどよい母親(good enough mother)による抱っこが乳児にとって発達促進的な環境になる、というのがもともとの意味だが、相手を支えるとか、ともに生きるといった距離と空間のある概念である。非行臨床においては、少年の持っている健康な自我(自己)をしっかり支えていくという視点になるであろう。そのためには、面接の頻度や時間を設定するといった関わりの構造化も必要になってくる。

 少年の行動化(再犯など)を防ぐのはなかなか困難であるが、懲罰的な禁止よりもいかにホールディングできるかが鍵となる。不良交友を断ち切るための天候など環境側の調整も、この視点から考えていくようにしている(須藤,1998)

3.治療者が上手に利用されること

 ウィニコットの移行対象論から援用し、少年たちが治療者との出会いを上手に利用し、必要がなくなったら捨て去るようなイメージである。つまり、"先生のおかげで立ち直りました"ではなく、あくまで治療者は陰にいる支え役であり、少年が自分の力で立ち直ったと思って治療関係が終わっていく、というような関わりを須藤は考えている。自己心理学をミックスして言えば、"少年が次の段階に進むために治療者を移行的自己対象として利用していく"となるだろう、と須藤はさらに付け加えている。

4.侵入的にならないこと

 思春期の少年たちは、自立と依存の交錯する時期にあるため、内面に深く入り込みすぎることを嫌う。少年の心情を理解できたからといって、早急な解釈をすると時には外傷的に働いてしまうことがある、と須藤は指摘している。ウィニコットの臨床は、"抱っこ"や"あやす"といった育児理論に基づいて構成されているが、少年たちと接する上でこの感覚は必要だ、と須藤は考えている。程よい距離とほどよい共感(調律)をもって接するように努めている、と須藤はしている。

 以上のように、須藤は実際の家庭裁判所調査官として、精神分析的な視点から非行少年へのアプローチをまとめている。精神分析的な視点は、非行臨床の理論的柱の一つとして発展していく可能性があり、自己心理学的なアプローチは、自己愛的な少年が増えたといわれる今日では有効なパラダイムになり得る。しかし、非行臨床において、ある一つの枠組みだけでは対応しきれないのが現実であるため、制止分析の適用についても、多面的な視点から研究していくことが必要である、と須藤は今後の非行臨床の課題も指摘している。



第二項 発達の視点から

 村松(1998)はサリバンの対人関係論が非行臨床に多くの示唆を与えてくれるとして、サリバンの研究を非行臨床のアセスメントに生かしている。サリバンは精神分裂病者(青年男性患者)精神療法を通じ、患者に親友が存在していたかどうかがその後の経過と深く関わりのあることに注目し、男性の看護士が患者と親密な関係を持ち、治療的に関われるように教育した。これは、サリバン自身が親友の影響を受け、精神的にも支えられてきたという経験に基づくものであるようだ。

 村松(1998)は、非行臨床においても、異性との親密な関係に至る前に同性と親密な関係を持ちえたかどうか、親友を持ちえたかどうかは発達の査定のうえで重要な分岐点となるとしている。それは。非行を学習していく方向に影響を与えることも当然あるが、非行親和的な生活から脱却する際の力にもなりうるからである。

 非行臨床で今日多くみられるのは、同性との一対一の親密な関係を経験する以前に異性との性的関係を早く持ってしまう少年が多いことである。彼らは異性に対して本来親(母)に求めるような依存欲求を満足させようとするために、関係は長続きせず、かえって自分の要求を満たしてくれない相手を恨む場合が少なくない。

 男女の比較で言うと、女子少年の方が異性との一対一の関係を強く求めるのに対し、男子の場合、異性との一対一の緊張関係に耐えられず、同性の仲間集団に親密性を求めるものが多い。彼らは同性の仲間集団と一諸の方が気楽だという。

 親密性の発達は、同性の仲間集団への加入から、同性、同年齢との一対一の親密な関係の体験を経て、異性へと進むのである。サリバンの対人関係論(対人関係の発達)は男性をモデルにしているが、女子の場合にもこの発展図式は経験上、当てはまることが多い、と村松は指摘し、同性の親友の存在の大きさを主張している。

 親密性の発達という観点から見れば、共犯関係や不良交友を立つ方向のみの介入は、少年をただ単に孤立化させるだけとなってしまう。同性との親密さへの希求が背後にあるならば、健全な方向に進む力をどうしたら伸ばせるのか、そのために面接での「問い」の工夫が必要であると村松は指摘する。

 村松はこの工夫について、少年の交友相手について長所を聞いた後、短所も聞き、さらに、少年について同じ質問をその友人にしたらどう答えるか、というような友人を通した自己像を語らせるといった介入を提案している。これは、少年がどの程度自分自身を客観視できるかその能力を測る問いになるという。

 偏差値偏重の競争関係において、親密性の発達が阻害されやすい。人と関係を持つことから撤退すると、偏った情報のみを選択する。それゆえ、その偏りを修正する機会を失ってしまうのである。



第三項 家族システムの視点から


 村松(1998)は、非行が早期から始まり、非行を繰り返す少年への援助には、その家族についての情報を的確に把握することが重要になる、と指摘し、、特に保護者である父母がどのような家族(原家族)に育ったかという情報の重要性を強調している。そのために松村は、家族とのジェノグラム(家系図)インタビューを実施し、少なくとも3世代(少年の祖父母の代まで)の情報を収集していくといった、ジェノグラムの作成によってアセスメントを行っている。

 ジェノグラムの作成は、面接室にホワイトボードを用意し、家族と一緒に作成していく共同作業である。ジェノグラム作成の際に、辛かった体験や悲しい離別などが想起されることが少なくないため、情報入手の際に決して家族に無理強いをするようなことはしてはならない。

 バーガーは、ジェノグラムはアセスメントと治療の両面から有用であるとしている。ジェノグラムをとる過程で、ラポートの形成が進み、ジェノグラムに表されるような情報に加えて、家族が実際どのように機能しているかの情報を得ることが重要なのである。

 具体的には、次のような項目について聴取する。@年齢、性別、職業、出身地(何歳まですごしたか)、転居、転職といった外的事実について、A父母の結婚のいきさつについて(周囲の賛成を得られたものか、結婚式を挙げたか、など)、B親の兄弟関係について(親しい人や疎遠な人について)、C親自身の親との関係について(親自身が虐待された経験の有無、親との仲、など)、D死亡の原因について(関係者の死が病死か、事故死か、他殺・自殺か)、E子の出生について(望んでいたものか、名付け親、など)、F薬物依存者の有無について、というような項目を中心に聞いていく。

 このような情報収集の過程で世代を超えて持ち越された未解決の問題が浮かび上がってきて、現在の家族の機能について理解することが可能になるのである。
 ジェノグラム作成の効果は、ホワイトボード上に図示された家族関係を客観的に見ることが可能になり、面接者、被面接者、ホワイトボードといった三角形構造が心理的な安心感を与えてくれる。さらに、面接中はホワイトボードを見つめながら話を進め、情報を付け加えていくため、そこには、対面法による緊張感はなく、一緒に何かを発見しようといった雰囲気が漂うのがこの面接の利点であると村松は述べている。

 家族への具体的な介入として、フィッシュらは家族内の悪循環に注目し、問題は悪循環であると言い切っている。問題行動とそれに対する誤った解決行動(偽解決行動)との悪循環こそが問題を持続させているといった彼らの理論から学ぶことは多いだろう。

 また生島(1998)は、非行臨床へのシステム論にもとづいた家族療法の導入の有益性について述べている。家族療法とは、具体的な介入方法を見出す際に、本人の問題行動を、個人の特性や社会のファクターではなく、仮に家族関係や家族状況の側面、つまり家族の脈絡で考えてみる方策を戦略的に採ろうとするアプローチである。

 システム論の有益性を生島は以下の3点にまとめている。

 第1に、システム間の相互作用は、ネガティブ・ポジティブいずれかのフィードバックのループによって調節されており、原因と結果が直線的ではなく、円環的に連鎖しているとみなす。そうすることで、ある特定の原因から一つの結果が生じると仮定するのが従来の科学で用いられてきた「直線的因果律」である。しかし、原因→結果という一方向の認識だけではなく、結果→といったフィードバックの連鎖が生じていることもあり、原因と結果が円環連鎖し、悪循環に陥っていることも多い。こうした認識は、非行の原因追求によって処遇方針を立てるよりも臨床的なアプローチには有用である。それは、円環的理解によって「悪者さがし」から逃れられるという意味でも処遇者に大きな影響を与えているのである。

 第2に、開放されたシステムでは、外部環境との間に無限に事物を交換し合うシステムであるため、等結果性(異なった初期条件と方法からでも同じ最終状態に達する)が機能しているという認識である。これにより、個人・家族・社会のどのレベルのシステムに介入しても、その介入効果は他の二つのシステムに波及し同一目標に達する、というシステム論的理解が可能になる。臨床家にとって重要なことは、どのシステムに介入しても最終的な状態は同じであることから、どのシステムに問題があるか、という視点によらず、最もアプローチが容易であり、効果が期待できるシステムに介入することを任意的に選択できるという方法論であるということである。

 第3に、あるシステムは、さらにある特質によって分かれるシステムのサブシステムから成り立っていると同時に、自分より大きい階層システムのサブシステムであるという認識である。よって、個人の心理的力動は、より大きな階層システムである家族内の力動と連鎖して循環しており、家族員の行動は、家族を一つのサブシステムとする地域社会などの社会システムともダイナミック関係で結ばれているのである。そこで家族療法では、個人の精神内界に関する知識・技術を生かした個々の家族員への心理療法の知識・技術と共に、家族という特殊な対人関係への介入技術、そして、合同家族面接などではグループワークの手法が必要不可欠であり、各種の技法を統合して活用することが必然的に求められる臨床実践の場となる。又、社会的存在であり、オープンシステムである家族に介入するには、ソーシャルワークやコミュニティ心理学のアプローチを援用することも当然である。

 ここで、一人の家族員の問題性、家族病理的認識にとらわれることのないよう、「家族システム」に変化を引き起こすことによって、非行などの問題行動の改善を図る方策を生み出そうとするものが、わが国に導入されたころの家族療法の基本的な考え方であった。

 以上のような有用性を指摘し、非行臨床の場にシステム論的な家族療法のアプローチを提案している。



第二節 非行臨床における心理的援助の方法




 第一項 クライエント中心療法

 藤森(1990)は、クライエント中心療法による援助について、クライエント中心療法とは、クライエントに意図的な働きかけをするのではなく、クライエントが自由に語り、自己を見つめることのできる場、つまり人間関係を提供することであるとしている。さらに藤森は、クライエント中心療法の問題点を以下のような3点にまとめている。

 1.「抵抗」の克服

 非行少年の問題のほとんどが、幼少時代に親の愛情に満たされなかった、その結果であるといってもいいすぎではない。したがって、彼らは多くの場合、保護者的もしくは権威的立場にある人と良好な人間関係がもてない。彼らは無理解な愛情に欠ける親に対する感情、つまり敵意や恐怖をそうした立場にある人に向ける。つまり、陰性転移を起こすこととなり、それらは面接場面における「抵抗」として現れる。この抵抗を克服せずに援助関係を築くことは難しく、どう抵抗を克服するかが援助における最大の問題である。それには、援助者がどこまでクライエントを受容し、共感的に理解できるかが鍵となってくる。クライエントの抵抗への対抗として、威圧的、叱責的、説示的態度によるアプローチは、抵抗を強化し、援助とはならない。

 2.援助者の問題

 クライエント中心療法では、単にクライエントの話を受動的に聞いていればよいのではない。これは、クライエント中心療法を表面的に捕らえた為に起こる誤解であり、こうした作為的な態度はいずれ相手に悟られてしまう。面接は本来、全人的なふれあいであり、クライエントの理解とは、知的な理解ではなく、あるがままの人間と人間とのぶつかり合いで援助者はクライエントを全身で受け止め共感するものである。その意味で、クライエント中心療法とは、技法ではなく、援助者のあり方そのものとも言える。

 では、よい援助者に必要なものとは何か。それは、人間援助に関する基本的な知見に加え、援助者自身がより統合されたパーソナリティの持ち主であることである。また、援助者は、自己探求に心がけ、自己に対する洞察を深めることが大切である。それは、援助者のものの見方、感じ方にひずみがあれば、それだけ事実をあるがままに見ることができず、相手を誤って理解することになってしまうからである。

 3.援助とは

 人間は皆他人から理解されたがっている。非行少年においては、それは渇望にも似ている。非行少年は反抗的な構え、孤立や無関心を装う態度を通し、誰かが自分を理解してくれることを求めている。こうした態度からは世間では、彼らに対するあたたかい関心や愛情は与えられず、そうなるとさらに彼らは自暴自棄になり、自己破壊へと進むことになる。この悪循環の中で、誰かが彼に対し、彼のやりきれない怒り、悲しみ、敵意といったものをあるがままに受け入れ、真に共感的理解を示すならば、彼の中で変化が起こる。それは、彼が自分自身を見つめ、自己を探求するようになり、さらにそれは、自己洞察・自己受容へと結びつき、人格の変化が起こるのである。このプロセスがクライエント中心療法なのである。

 藤森は以上のようにまとめているが、一方で羽間(1998)は、保護観察所の立場から非行臨床におけるクライエント中心療法についてまとめている。羽間は、陰性転移を克服し、その克服後に起こる治療者への陽性転移を軸に治療を展開するという従来の方法論における、危険性を指摘している。

 羽間は、非行少年の心理的特徴として、@対人不信感、特に大人・権力に対する不信感の強さ、A治療動機の乏しさ、Bフラストレーション耐性の乏しさ、行動化のしやすさ、を挙げている。非行少年には、対人信頼感が充分育っていないことが多く、これは同時に彼らの対象関係が不安定であること意味する。しかも非行行動に対しては、概して外から返ってくる反応は否定的な反応であり、対人不信感が緩和されることは少ないと同時に、その悪循環の中で、「Bad Me-Bad Object」の部分対象関係が優勢になる。羽間は保護観察という立場上、保護観察が不利益処分として科される以上、「Bad Me-Bad Object」の部分対象関係が前面に出てきて、治療者に陰性転移が向けられることは当然である、としている。

 さらに、非行臨床に限らず、一般に心理臨床の場で、クライエントの対象関係が分裂している場合、そのクライエントと共に居ようと模索する治療者なら、自らの中にもsplittingが生じることを必ず自覚するだろう。そして、クライエントと共に居ようとするならば、治療者は、自らの中に生じたsplittingをsplittingしたままに居るべきであるし、splittingしたどちらか一方に偏った動きをとることは、極めて限定的で、無条件とはいえない関心を示すことになる、と羽間は指摘している。

 したがって羽間は、非行少年への無条件の肯定的関心を高度に保つためには、治療者の中に当然起こるsplittingを治療者は保持せざるを得ない。彼らの対象関係が分裂し不安定であること、そして、陰性転移を治療者に向けることで、「これ以上傷つかない」ために自分を守ろうと彼らがしていることを無視せず、その防衛のありようを共感的に理解し、それをそのままに受容することが重要である。これが可能になるのは、治療者が自らのsplittingを充分に保持しえる「純粋性」を持ちつづけられた場合のみだと、羽間はいう。

 陰性転移を乗り越えなければ治療関係は作れないとし、彼らの「Bad Me-Bad Object」の陰に存在する「Good Me-Good Object」の方を喚起させ、陽性転移を起こさせて信頼関係を作ろうとする従来の方法論の危険性はここに在る、と羽間は指摘している。治療過程の初期に強い陽性転移が生じた場合、これは内なる対人不信感を過剰に保証するものであり、面接室ではまったく隠れたままの「Bad Me」が再飛行という形で現れ、治療者が裏切られたり、その後に強い陰性転移が生じて行動化などで、治療者を振り回しにかかったりして、彼らの「Bad Me」を面接室の中で扱うことがより困難になることが容易に予想できるからである(羽間)。

 保護観察が、クライエントにとっては自発的なものではなく、義務付けられた関係であるにしても、彼らが面接にやってくる以上、彼らの面接室でのありようがいかなるものであっても、彼らの中にそれまでとは違った、援助や対象を求めるといった何かが動いている。保護観察が権力を背景にした関係であることは間違いないが、権力を感じることでむしろクライエントは、彼らにとって優勢な防衛である、対人不信感などの否定的な感情を伴った「矮小化」などの陰性転移をあらわしやすくなるし、そして、それが彼らを保護するという積極的な役割を持っていることを無視してはならない、と羽間は指摘している。

 羽間は、非行少年の治療過程において、彼らの陰性転移は尊重させることが重要であるし、治療者には、自分の中でのsplittingが保持され、陰性転移が穏やかに持続している感じが持て、クライエントの方では、自分を守りながら治療者を確かめていく作業が持続できるような信頼関係が形成されていくことが大切なことだと考えている。



 第二項 家族療法

 高木(1990)は、家族療法の背景と特徴、留意点についてまとめている。非行少年の事例の中には、その子どもの非行が、両親もしくは家族全体の病理を代弁しているような場合、子どもの非行が、その家族の病態をいっそう破壊的なものとしないための道具、つまり一種の安全弁として機能させられている場合が多い。これらの非行少年の場合、少年個人のアプローチでは、何の効果がみられないことが少なくない。そこでは、子どもの非行行動は、家族成員間の相互作用、とりわけその病理的側面と深く絡まりあい、その影響を強く受けているとの仮説に立つことが必要とされる。この仮説のもとに考え出されたのが家族療法である。

 家族病理の結果として非行化している少年たちの治療にあたっては、従来の伝統的な個別処遇、つまり少年のみを治療活動の対象としていく技法だけでは、多くの効果は期待できない。伝統的な個別処遇の治療論は、少年のみが治療すべき対象であり、他の家族成員は正常であって、治療的働きかけがなくとも少年のためになるように変化しうるという、つまり問題があるとされた少年と、健全な単位としてのその家族成員という二つの単位が、同一家族の中に存在するという、いわば「分離主義」の立場にある。この分離主義の立場からの治療論に対し、個人の障害を、実態としての家族、その家族成員間の相互作用の中で取り扱おうとしたのがゴンバーグらである。ゴンバーグらは、診断と治療における全体としての家族の概念を重視し、家族診断治療の名のもとに、家族全体のダイナミックスの中でクライエントの問題行動を力動的にとらえようとした。その家族診断は、"クライエントとその家族"といった分離主義的な考え方から、"家族の中のクライエント"といった家族成員間の相互作用に方向付けられている。

 高木は現在の家族療法は前記したような考え方を受けたものであるとして、実際の治療に関する留意点を以下のように記している。
 (1)治療の基本は本人をめぐる家族全体の人間関係を調整し、家族内の健康的な力を回復あるいは形成して行くこと。
 (2)家族療法でもっとも困難なことは、家族成員の全員を参加させることである。
 (3)本人は家族病理の犠牲者という認識のもと、本人を力づけ、その成長のために持続的な支持を与え、傷口を大きくするような関与は避けるべきである。
 (4)非行少年の家族に対し、家族成員の相互作用モデルを提示することは有効である。
 (5)本人自身に対する心理学的な働きかけも軽視できない。

 以上のような5つの点をあげているが、具体的には、問題を抱えている家族に対し悲観的になるよりも、それぞれの持つ健康的な力を無視すると、治療は前進しないものである。岡堂(1974)は、個人同様、全体としての家族も自然治癒力を持っており、その力を見出す援助が大切である、としている。また(2)に関して、現在まで形成してきた家族の秩序や安定性を修正したり、破壊しようとする働きかけは、その秩序がたとえ病的で歪んだものであっても、家族は強い抵抗と防衛の構えを示す。こうした家族に対しては、家族の気持ちをありのまま受容すると同時に、誠意ある態度で忍耐強くアプローチしていく必要がある。さらに(5)について、もしも、クライエントが問題のすべてを環境のせいにし、自分自身の現実や実存的な責任から逃避しているような場合に、そのあり方を容易に容認したり、助長したりしていたら、治療において前進は見られないだろう。そうした場合、クライエント自身の心のもち方や、外界の認知の仕方の修正、変更を強く働きかけていくことも必要になる。

 また早樫(1998)は、児童相談所という立場で家族療法を展開し、そこでの家族療法の技法を以下の3点にまとめている。

 (1)「マイナスの多重構造」から「プラス」に変えていく。

非行相談では、「マイナス」と受け止められる要素が多い。アプローチの力点は、いかに「プラス」に転じるか、いかに家族や本人のポジティブな面、健康な面を見出すかということにおかれる。そして、家族のあり方を本来的に本人や家族が望んでいる在り方に変化させていくことが目標になる。そのためには、できるだけ日常的に行われている家族間のコミュニケーションを見ようとし、家庭基盤の危うさの中で持続している問題行動を日常的コミュニケーションのサインの中に読み取ることである。

 (2)構造的家族療法と子おだて支援―境界線づくり

 非行相談でのアプローチの基本は、ばらばらな家族をつなぎ合わせることである。家族としての構造を作り直すということが構造的家族療法の考え方で、それでは特に「境界線」の概念が最も重要なものになる。境界線の視点から見ると、世代間・家族としての境界、個人としての境界もあいまいであることが多い。そこで、サブシステムを作ることで適度な境界線を作るのである。また、子育て支援の観点からは、親のサブシステム作りにつながり、これは、親のリーダーシップ(子育て力)の維持、回復となる。さらに、境界線は「区切る」、「線を引く」という役割を持ち、非行行動はその線引きがあいまいになっていると考えられるため、境界線を意識したアプローチは、社会的なルールや、自己行動のどこで「線を引くか」という自己統制力を育てることにもつながる。

 (3)残された課題―目標と上位システム

 非行相談の場合、在宅で関わるだけでなく、施設入所を前提としたものも多い。関係者が「さじを投げている状態」、「手に入れたいもの」、「目指す目標」が在宅の中での「家族」を視野に入れたものではない場合、指導は困難になる。そうなると、面接室での「・・・療法」だけでは間に合わないこともある。

 子どもたちの交友関係は広範囲に及んでいることも現実であり、非行行動を家族内システムにおいて理解するだけでなく、絶えず地域・学校などの上位システムとの
相互作用を意識しなければならないだろう。
 家族は変化していくため、アプローチにも構造的な考えを基本としながら、常に工夫と変化を怠らないことが必要とされる、と早樫はいう。





第四章 まとめと全体的考察




 非行少年の処遇は、法的専門機関で対応されるため、その実態はわからない。そのため、今日までの非行に関する研究は非行の原因論や、少年の類型論に止まり、臨床の実践理論や処遇技法についての研究は多くない。また、主に欧米で開発されたそのほとんどのアプローチが、非行臨床においても試行的に適用されてきたが、ある技法を適用しなかった対象群と比較して処遇効果を測定するといった調査研究はわが国ではほとんど行われていない。

 非行臨床での目的は、再犯防止ではなく、対象者の自己実現を目指し、表面的な行動レベルの修正に止まらず、パーソナリティの変容を図ること(井上,1983)とされているが、実際の問題として、自己実現などといった治療目標が、対象者やその家族のニーズに沿い、治療者と共有可能な目標となりうるか、また他の臨床に比較しても具体的なクライエントのニーズに的確に応えるサービス機関としての意識が希薄ということがあげられる。
また、加害者の少年の人権は守られ手厚く処遇されるが、被害者へのケアはないがしろではないだろうか。生島(1998)は、被害者への十分な援助を前提にしてはじめて、非行少年への公的な援助が成立する、と述べている。しかし、被害者への直接的な心理的援助を困難にしているのは、相対する加害者と被害者への援助を同一者が行うということだろう。
 
以上のように、非行に関する臨床活動というものは、一般の臨床活動に比べ、法的な規制が加わり、それがいっそう援助を難しくしていると思われる。




  

 【引用文献】


藤森晋一 1990 クライエント中心療法にもとづく援助 岡堂哲雄編 講座心理臨床の実際3 非行の心理臨床 福村出版

福島章 1985 非行心理学入門 中公新書

羽間京子 1998 クライエント中心療法 生島浩・村松励編 非行臨床の実践 金剛出版

早樫一男 1998 児童相談所における家族療法の活用 生島浩・村松励編 非行臨床の実践 金剛出版

石川義博 1985 非行の病理と治療 金剛出版

森武夫 1982 青年期危機からみた非行 森武夫・郷古英男編 日本型・少年非行 青年期の危機と成長 創元社

森武夫 1985 現代型非行 馬場健一ほか編 攻撃性の深層 日本人の深層分析 第4巻 有斐閣

村松励 1998 非行臨床の課題 生島浩・村松励編 非行臨床の実践 金剛出版

岡堂哲夫編 1990 講座心理臨床の実際3 非行の心理臨床 福村出版

生島浩 1998 生島浩・村松励編 非行臨床の実践 金剛出版

生島浩 1998 非行臨床における家族療法の展開 犯罪と非行,115,49−69

須藤明 1998 精神分析的アプローチ―自己心理学の視点からの非行理解と援助 生島浩・村松励編 非行臨床の実践 金剛出版

田川二照 1999 非行 中島義明他編 心理学辞典 有斐閣

高木俊彦 1990 非行少年の家族療法 岡堂哲雄編 講座心理臨床の実際3 非行の心理臨床 福村出版


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