教育支援協働学とは

教育支援協働学とは

教育支援協働学の構築に向けて

はじめに

 「連携」や「協働」という言葉が、近年の教育をめぐっては、盛んに取り上げられるようになった。もちろん、教育においては、これまでも例えば複数の教師がチームを組んで弾力的に指導にあたる「ティームティーチング(team teaching)」や、子どもたちがグループを組んで学習を行う「グループ学習(group study)」など、人と人との「つながり」を活かした取り組みが行われてきた。それに対して、近年の教育をめぐって「連携」や「協働」という言葉がよく使われるのは、「学校」と「地域」や、「教職」と「他の専門職」など、学校内部と学校外部の「つながり」を強調するためのものであることが特徴である。特にこうした傾向は、教育政策においてより顕著である。
 平成27年12月に、「新しい時代の教育や地方創生の実現に向けた学校と地域の連携・協働の在り方と今後の推進方策について」「チームとしての学校の在り方と今後の改善方策について」「これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について~学び合い、高め合う教員養成コミュニティの構築に向けて~」と題された3つの中央教育審議会答申がとりまとめられている。これらは、次世代を担う教育の基本的な方向として、学校と社会が一体となって教育が進められるように、地域と学校の関係や学校のあり方、さらにはこのような取り組みを進めるための教員のあり方について検討されたものである。また、この3つの答申内容を具体的に進めるために策定された「「次世代の学校・地域」創生プラン」(平成28年1月)では、次のようにその趣旨が述べられている。

 文部科学省は、一億総活躍社会の実現と地方創生の推進には、学校と地域が相互にかかわり合い、学校を核として地域社会が活性化していくことが必要不 可欠であるとの考えの下、上記三答申の内容を実現するため、学校・地域それぞれの視点に立ち、「次世代の学校・地域」両者一体となった体系的な取組を進めていく。
 その際、学校にかかる観点からは、「社会に開かれた教育課程」の実現や学校の指導体制の質・量両面での充実、「地域とともにある学校」への転換という方向を、地域にかかる観点からは、次代の郷土をつくる人材の育成、学校を核としたまちづくり、地域で家庭を支援し子育てできる環境づくり、学び合いを通じた社会的包摂という方向を目指して取組を進める。
(文部科学省、「次世代の学校・地域」創生プラン ~学校と地域の一体改革による地域創生~ 、2016)

 連携と協働をキーワードに、つながりの中で子どもたちを社会全体で育てるとともに、地域の側も新たに再構築しようとする姿勢がここでは示されている。また、このような教育政策に連動する形で、「チーム学校」「地域学校協働本部」「訪問型家庭教育支援」といった具体的な施策も進みだしており、実践面や研究面でも、こうした政策動向に関連した取組が、今、確実に広がりを見せはじめている。
 しかし、そもそもどうしてこのような動きが、現在、生じているのであろうか。また、そもそも、それはいったい具体的には、これまでと比べて何が異なっており、何を目指そうとするものなのであろうか。また、もっとも大切なことは、そのような動きは、子どもを護り、子どもの成長と発達を促し、そして、子どもたちが担い手となる未来の社会を作る上で、どのような意味を持つのであろうか。
 ここで強調される連携や協働という教育をめぐる形態ないし作用は、一方で「教育支援」という共通の行為に基づいて成されるものでもある。連携や協働は、教育を営む主体の複数性を前提にした言葉であり、また、ある教育主体から見た場合には、それは当の教育主体が行おうとしている教育活動に対して、他の主体から「支援」を受けることに他ならないからである。そこでここでは、「教育支援」という補助線を引くことによって、連携や協働が課題として取り上げられる教育の動向についてより具体的に理解するとともに、そのことを通して「教育支援」という概念の持つ、これからの教育に対する可能性についても、いくつかの視点から考えてみたい。

概念としての「教育支援」

 そこで、まず「教育支援」という言葉を、以下のように定義して使ってみたい。

 教育支援とは、子どもを支援する場合と教育者を支援する場合の2つを含む、学びに関わる他者の行為への働きかけであり、その意図を理解しつつ、支えたり、連携したり、協働したりして、そこでの行為の質を維持・改善する一連の活動を指し、最終的には、学びということがらをなす、子どもの力をつけることである。
 
 この定義は、その多くを実は「支援」という言葉の定義によっている。教育支援という言葉は、教育と支援という2つの部分から成っているが、そもそも「支援」という言葉自体も、日常生活ではよく使われるものの、学際性に富む、大いに多義的な言葉である。
 「支援とは、何らかの意図を持った他者の行為に対する働きかけであり、その意図を理解しつつ、行為の質を維持・改善する一連のアクションのことをいい、最終的には他者のエンパワーメントをはかる(ことがらをなす力をつける)ことである」(支援学、2000)。
 これは、1993年に組織された「支援基礎論研究会」が編纂した「支援学」という著作に示された「支援」に対する概念定義である。別なところで支援をめぐる問題状況を掘り下げようとする脇田は、「支援」という言葉の本質を理解するためには、「配慮」とエンバワーメントが「支援」概念に決定的に重要であることを含むここでの定義に強く同意するとともに、以下のようにさらに補足している。支援という行為は、「支援する人」と「支援を受ける人」のセットで成り立つが、「支援を受ける人」の意図を理解し支援を受ける人の主体性に寄り添うことが求められる。「支援する人」は、支援したことがどのように相手に受け止められているのか、このことを「自らかえりみて振り返りつつ」自分を変化させていかなければならない。その意味では、「支援すること」あるいは「助けたい」ということが、自己目的化することなく、相手の立場に立って自分を変えること、つまり配慮と「支援を受ける人」が力をつけることが、「支援」という行為を成り立たせている本質なのである、と指摘するのである(脇田、2003、P.28)。
 教育支援という言葉を、このような意味の中にある「支援」という言葉の土俵に立ってまず考えることは重要である。しかし、そもそも「教育」という言葉も、「学ぶ」「育つ」といった子どもの行為を「支援」する営みであるから、配慮とエンパワーメントの重要性や、最終的には、それが子どもの力をつけることに向かうものであることは、教育という言葉からも二重の意味で大切にされる必要があるところだろう。
 一方で、教育という営みは、「学び」という営みをめぐって、「教える人」と「学ぶ人」がセットで成り立つ一連の行為である。このことから、教育支援という言葉を使ったときに、それは「教育という支援」であるとともに「教育の支援」でもあるという面が生じる。つまり教育支援は、「支援を受ける人」が、子どもの場合と、教育の主体者、つまり「子どもに教育を行う人」の場合があるわけである。ただ、「子どもに教育を行う人」を支援することには、いくつかのパターンが存在する。例えば、学校の先生を支援する場合、学校の環境整備や子どもの登下校の安全管理を「補助」する場合もあれば、社会教育施設と学校で情報を取り合い、それぞれで行うワークショップや授業を「連携」させることから子どもの学びを促進しようとすることも考えられる。さらには、スクールソーシャルワーカーが学校の先生とお互いに協力し合い「協働」して、困難を抱える子どもや家庭を支えるといった場合もある。
 ただ少なくとも、それらはすべて、単に学校の先生個人を支えるのではなく、そうした支援や連携や協働を通して、最終的には、子どもを支援することに向かっている。その意味では、単なる文字通りの「支援」ではなく、「子どもに教育を行う人」を支援することが、「子どもに教育を行う人」と「支援する人」が補助や連携や協働を進め、より豊かな子どもへの支援につながってこそ、教育支援と呼ぶにふさわしい営みと呼んでよい。つまり、「子どもに教育を行う人」と「支援する人」がセットになることによって、それが「子どもを支援すること」に対する「補助」や「連携」や「協働」に発展し、そうした「補助」や「連携」や「協働」の中でこそ、子どもはよりよく力をつけてくれることに向かうことを指す言葉として、この「教育支援」を考える必要があるのではないかということである。
 この意味で教育支援とは、「子どもを支援する場合と教育者を支援する場合の2つを含む、学びに関わる他者の行為への働きかけ」ではあるが、最終的にはその両者がともに、「学びということがらをなす、子どもの力をつけること」に向かうことを指すことは重要である。このように、理念性や方向性を含んだ概念として、教育支援という言葉を捉える必要があることを、ここでは強調しておこう。

教育支援の現在

 次に、とりわけ学校を中心とした教育支援の現状について少し検討してみたい。次の図は、現在の日本に見られる、学校を中心とした教育支援の現状についてまとめたものである。

教育支援の現状

 この図は、真ん中に子どもを置き、左に学校教育、上に社会教育、右に家庭教育、そして下に健康、社会福祉という、子どもへの働きかけの「機能」を配置し、そこで教育と支援を行う人、ならびにその関係性を矢印等の記号で表したものである。
 まず、図の左側の学校教育の枠の中には、主に「教科指導」「生活指導」「課外指導」という学校での教育行為を、教職員(教諭と事務職員等)が担っていることが示されている。ここに、社会教育の側から「補助的支援」の矢印が向けられている。これは、子どもの登下校の安全管理や、学校内外の環境整備(植栽・芝生の手入れ、修繕等)、行事等の手助けなど、教員の補助を行う教育支援活動を表すものである。こうした活動は近年、特に「学校地域支援本部」という名称で、社会教育の一つの活用のあり方の工夫と位置付けられ教育政策としても広げられてきた。もっともプリミティブな意味合いで、「学校を支援しよう」という取り組みである。
 次に、同じく社会教育の側から、「協働的支援」の矢印が向けられている。これは、社会教育の主体者である地域住民や企業などが、学校教育を担うスタッフの一員として、教員と協働する教育支援活動を指すものである。例えば、学校運営協議会を構成し、地域住民が学校の教育課程を共に考えたり、学校運営について共に考えたりするコミュニティースクールは、学校教育における地域参画型の協働的な教育のあり方の一つと言える。また、地域からゲストティーチャーを招く総合的な学習の時間や、その他の教科の授業などでも、それが単なるゲストティーチャーとして終わるのではなく、教員と外部者がともに授業づくりを行うといった協働的な教科の学習指導を行うこともあろう。さらには、部活動等の課外活動における、地域住民や地域のクラブ指導者などによる外部指導者の活動も、先の「補助的支援」にとどまらない「協働的支援」となって広がっている実態もよく見受けられるところである。今後、「社会に開かれた教育課程」が学習指導要領の編成においても目指されるものとなり、「21世紀型学力」が問題となる学校教育においても、また、情報、環境、科学、芸術、スポーツ、保健、国際、ダイバーシティ(多様性)など、学校教育に求められる広範な教育課題を見渡してみても、こうした学校と地域が協働して教育を進めることは益々、求められるところとなってくることが予想されるところである。
 一方で、健康や社会福祉の側からも、「協働的支援」の矢印が向けられている。これは、子どもの問題が複雑化、多様化するなかで、カウンセラーやソーシャルワーカーなどの専門職支援者が、教員を支え、教員と協働して子どもや家庭の支援にあたっていることを表している。近年、学習障害や発達障害を含んだ、子どもの様々な心理的、身体的状況が多様化、複雑化し、その教育的対応や支援方策が学校において個別に求められている。また、いじめや不登校といった問題、また虐待や貧困といった問題など困難を抱える子どもや家庭の状況も広がるなかで、教員の職能のみでは対応に不十分な課題も多くなっているのが現状である。そうしたなかで、教員とこれら専門職支援者が協働する教育支援活動の重要性は、今後もますます高まるのではないかと思われる。
 ここで、これまでに述べた学校教育と社会教育の協働的支援や、学校教育と健康、社会福祉との協働的支援と子どもを囲う内側の楕円が図には描かれている。これは、近年、議論の進む「チーム学校」という取り組みの中にある教育支援ならびにそれを担う人材の範囲を表すものである。平成27年6月に示された「チームとしての学校の在り方と今後の改善方策について」(文部科学省、中央教育審議会、初等中等教育分科会、チームとしての学校・教職員の在り方に関する作業部会)では、今後の日本の学校の在り方として、専門性に基づくチーム教職員、スクールカウンセラー、スクールソーシャルワーカー、部活動支援員等を学校スタッフとして法令で位置付けるとともに、学校内に地域連携担当を担う窓口を設け、「多様な専門スタッフが子供への指導に関わることで、教員のみが子供の指導に関わる現在の学校文化を転換」することが目指されている。これは、社会の変化と学校を取り巻く状況の変化や、そもそも諸外国と比べても教員以外の専門スタッフの割合が少ない日本において、多様化・複雑化する子どもへの対応や、学校教育の質的充実に対する社会的要請の高まりに応えようとする取り組みである。またそのためには校長がリーダーシップをより強く発揮できる学校のマネージメント機能の強化や、教員一人一人が力を発揮できる環境の整備がうたわれている。つまり学校は、今後、教員と教育支援者(員)との協働によってその教育活動を行っていく場へと、大きなパラダイムシフトが図られようとしているのである。それは、言い方を変えれば、教育の「チームアプローチ化」が進むということでもあろう。
 さらに図の中には、その外側にもうひとつの楕円が描かれている。これは、こうした協働体制を基盤とする「チーム学校」という学校教育に対して、社会教育、家庭教育、健康・社会福祉に携わる人々が、学校を支援するだけでなく、学校からも支援を受け、子どもを守り育てていくことに社会総掛かりで取り組むとともに、合わせて学校をプラットホームとした「学び」のネットワークを形成し、地域コミュニティーまでをも再生、新たに構築する取り組みとしての教育支援ならびにそれを担う人材の範囲を表すものである。こうしたさらに大きな範囲でのチームアプローチ化を含む取り組みは、「地域学校協働」活動として中央教育審議会でも検討されており、今後、生涯学習社会を目指す教育政策の大きなビジョンとして、より取り組みが強まると予想されている。
 また、学校教育には、社会教育、家庭教育、健康、社会福祉のそれぞれから、「連携的支援」の矢印が向けられている。この「連携」と「協働」という言葉の違いは、「協働」が異なる複数の主体が、ひとつの目標を共有し力をあわせて活動することを指すのに対して、「連携」とは、それぞれの主体がそれぞれの活動に対して連絡を取り合い協力することにある。例えば、社会教育施設職員が、学校にゲストティーチャーとして授業づくりにも参加し教育支援を行うことは「学校教育における教員との協働」となるが、社会教育施設での行事を行うときに、学校の行事と連絡を取り合って協力し、それぞれでそれぞれの目的のもとに開催するときは「学校教育と社会教育の連携」であり、それは学校への教育支援でもあるが、逆に学校からの社会教育支援でもありうる。また、社会教育施設を使っての学習ではあっても、例えばそれが学校の教科の学習の一環であり、教室で行わず単に社会教育施設の場で教員と社会教育専門職員が子どもに働きかけている場合は、社会教育専門職員の教育支援による「学校教育における教員との協働」になる。それは、子どもへの社会教育という働きかけではないからである。つまり、「学校教育」「社会教育」「家庭教育」「健康、社会福祉」という子どもへの働きかけは、そもそも異なった目標を持つ「機能」であり、そうした機能に必要とされる子どもへの働きかけの専門性に応じて、「教員」「ソーシャルワーカー」「学芸員」等の職種が分かれている。そうした専門性を生かしつつ、職種が担う「機能」以外の「機能」に必要な働きかけに、当該の「機能」を受け持つ専門性を持つ職員と、その「機能」の持つ目標を共有して教育支援を行うことが、「協働」と呼ばれる活動になるということである。
 このことからすると「チーム学校」は、地域住民やソーシャルワーカーが、学校スタッフとして「学校教育における教員との協働」による教育支援を行うのであるが、地域学校協働活動は、逆に社会教育や家庭教育、さらには健康や社会福祉という働きかけに教職員が支援を受けるとともに支援するという双方向の活動でもあり、また、それぞれが連絡を取り合って協力しそれぞれの働きかけをよりよく充実させる並列的な活動でもある。そのうち後者の部分を、図では「連携的支援」という矢印で表しているということになる。
 そして最後に、もちろん家庭教育に対しても、保護者や家庭を対象とした社会教育、健康、社会福祉からの「協働的支援」が行われているとともに、このような教育支援をキーワードにした子どもを取り巻くネットワークを、一方では教育委員会が、他方では行政の福祉部局が、互いに連携しながら支えている。このような学校を中心とした教育支援の現状は、教育のネットワーク化として捉えられるとともに、今後より精緻に進んでいくのではないかと思われる。学校教育はこの意味で、すでに新しい時代を迎えているのである。

教育支援者の類型と「職」としての自立
 ここまでに、教育支援を「補助的支援」「連携的支援」「協働的支援」の3つに分けつつ、学校を中心とした教育支援の現状を、「学校教育」「社会教育」「家庭教育」「健康、社会福祉」という、異なる機能を持った子どもへの働きかけのネットワーク化という観点から整理してきた。ここで、こうした特に学校教育支援に関わる教育支援者について類型化したものが、次の図3である。
 ここでは、縦軸に教育支援者の特殊性、横軸には教育支援者の協働性に関する力量の高低を置いている。そもそも教育支援において、「連携」や「協働」が成り立つのは、「教員」という学校教育に対する専門性を持つ人員に対して、子どもを支援することにおいて、「教員」とは別な専門性に基づいて子どもを支援することができるという、学校教育とは異なった機能を担う力を持っているからこそである。例えば、スクールカウンセラーは、教員の職能ではカバーしきれない、相対的に独立した高い専門性に基づいて、心理面から子どもの支援を行なう能力を有している。また企業社員は、同様に教員の職能ではカバーしきれない、相対的に独立した高い専門性に基づいて、求められる教育課題に対して支援できる可能性を有している。このように、学校教育に対して「協働」や「連携」という形で教育支援を行なう人材は、ある専門的な力を有していることがまずは求められることになろう。他方では、教育支援がとりわけ先に述べたような、学校教職員や子どもたちに対する「配慮」とエンパワーメントが重要であるとすれば、そうした「支援する力」に長けた人員であることも、また求められることになる。今後、このような教育支援者が、専門的な力量を有し、またそのことで主たる生計を立てる「職」としての社会的な地位と役割を築くためには、このような2つの面からの力量の高さが必要となろう。もちろんそれは、このような力量を有する人材を社会的に配置し自立させてこそ、進められる教育のネットワーク化は具体化していくということも意味するものである。このことからすると、学校教育に対して協働や連携を通して支援を行うことが「主たる生計を得る生業」としても必要あるいは可能であり、教職員では十分でない面での専門性を持ちながら、一方では教職員の意図を理解し、教育の質を維持、改善し教職員のエンパワーメントを図る役割を遂行する能力を持った人のことを、専門職としての「教育支援人材」と呼んでよいと思われる。
 ただ、教育支援は「協働」や「連携」といったパターンだけではなく、「補助」というパターンも、また重要な役割を果たすことは言うに及ばない。この点からすると、図2の右上にある「専門職としての教育支援者」だけではなく、その過程での形態としてある、いくつかの類型的教育支援者も、「職」としての関わりだけでなく、生涯学習の活用として、あるいは自己実現やボランティア活動の一端として活動を広げまた深めることが、学校教育にとっては望まれるところである。
 と同時に、今後、このような教育支援活動の広がりと深まりからもたらされる「ネットワーク化する教育」においては、教員、学校職員、社会教育施設専門職員、スクールカウンセラー、スクールソーシャルワーカー、クラブ指導者、NPO職員等、各種の「職」にある人員の力量として、こうした様々な教育支援人材をコーディネートし子どものためにともに働きかけることができるという、「つなぐ力」「つながる力」なども強く求められることにもなろう。とりわけ、教員という職業では、これまで「教育」という、子どもを指導し子どもを支援する営みを、基本的には「一人で(ソロ・プラクティス)」行ってきた。しかしこれからは、教員以外のスタッフや外部の教育支援者の「協働的支援」を受けることによって、多様な職種の人たちと「みんなで(チーム・プラクティス)」行うことが求められている。ここには、「支援する人」という職業であった教員が、「支援を受ける人」にもなり、またそのことを通じた「協働」が、子どもへの働きかけの基本となることが、職務の遂行上必要となっていることが含まれている。いわば「チームアプローチ力」を育むことが、教員には、今後ますます求められるということであろう。

教育支援が求められる背景

 ところで、教育支援という言葉をキーワードに、連携や協働の進もうとしている学校教育の変容には、どのような背景があるのだろうか。他の章でもおそらくこの問題については、様々な視点から触れられることになると思うので、ここでは社会全体の大きな変化との関係から考えておくことにしてみよう。
 現在の社会の特徴を表す言葉の中でもっともよく知られているものは、インターネット・電子メディア等に代表される情報化と、そうしてネットワークし社会的関連が地球規模に広がるグローバル化の2つであろう。こうした現代社会の特徴に対して、アメリカの社会批評家R・セネットは、大変面白い主張を展開している。「ノー・ロングターム」という社会の原理の捉え方である。
 グローバル化は、消費社会の進展がその前提となって進んでいる。消費社会では、市場が消費者優先で動くために、消費者の変化にいち早く対応することが企業には求められる。資本が株式というかたちで反応を求めることもあって、消費者の短期的な動向に左右されない長い時間での取り組みは、企業活動として好まれないのである。そうなると、それに応じた組織体制も必要となり、持続的で安定的な組織というよりも、プロジェクト形式で3年から5年ですぐに替えることのできる仕組みが多用されることになる。もちろんそこでの雇用は、継続雇用や終身雇用ではなく、期限的な雇用である。
 「ノー・ロングターム」という言葉は、このように長い期間や時間を見通した取り組みの価値が無化した社会の原理を指している。確かに、この視点から現場を見てみると、例えば学校の教育目標や行政の施策などは、おおよそ3年程度で成果を求め期限が設定されることが多い。実は、教育においても、こうした原理は、身近に起こっているのである。そしてセネットは、このような時代には、「ノー・ロングターム」の原理と連動して「絆や信頼関係の欠如」が進むと論を進める。
 グローバル化しネットワーク化する社会では、遠く隔たった地域での物事が身近な生活と強いつながりを持つことに特徴の一つがある。例えば、タイで洪水が起これば、タイでの生産に依拠している部品が配給されなくなり、完成品を組み立てる役割を担っている日本の工場が動かなくなる。このときに、日本の工場にいる人々は、どうして工場が動かなくなったのかということについて、自分が実体験する身近な生活の範囲の中からは理解できず、出来事の因果関係はつかむことができない。つまりそれまでは"face-to-face"のレベルで物事が起こっていたので、こうなったからこうなったのだ、といった時間軸が連続的にみんなで共有できていた。けれども、世界が広がり、遠く離れた地域と自分の地域が見えないところで繋がってしまうと、どうしてそうなったのか分からないという意味で、それが共有できなくなってしまうのである。そうすると、歴史や伝統は時間軸が連続的に共有されてこそ成り立つものであるから、人々の間でそれらは相対的に軽くなっていく。
 例えば、学校現場で伝統的に受け継がれていたことよりも、外部からの情報としてもたらされるものの方が説得力を持つといった事態である。こういう変化は生活全般への影響も大きく、結局のところ、社会的な絆や忠誠心、信頼関係などは相対的に崩れていかざるをえない。なぜなら、「裏切らない」といった信念は長く付き合うからこそ、つまり時間軸を連続的に共有するからこそ大事になる価値であり、そもそもその場でしか出会わない関係であれば、こうした価値は、相対的に下がらざるをえないのである(松田、2014)。
 こうして「社会的な絆の瓦解」という基本的なプレッシャーを受ける社会においては、人々の生活は個別化するとともに、つながりを失いがちになり、子育てや教育などにおいて孤立化する傾向も強まる。経済的な格差や社会的な格差が生じても、コミュニティが包摂する社会の力も弱まり、むしろそこで生じる個別な困難に対しては、排除する動きが強まることになる。そしてこのように、「絆」という人間関係の弾力を失った社会においては、一方では自己責任論が強まり、他方では、公的なものに対する直接的な依存と不満が強まる。また、本来はつながりの中で共通性を持っていた学校外での地域や家庭での教育も個別化し、無意図的な教育によって身につけられる生活言語やちょっとした振る舞いなどの集積である文化資本は、階層や状況によって個に遍在化し、そのために共同同時学習を基本とする学校での教育は困難さと再生産性を広げ、教員の職務が、多忙化、複雑化するとともに、教育格差が広がることへとも繋がっている。
 だからこそ、学校をプラットホームとした子どもを包むネットワークと、そうしたネットワークに命を与える「教育支援」が求められるのであり、そうした支援のつながりを糧にして、逆に、学校がコミュニティの再構築を果たすハブとなる役割をも期待されているのであろう。こうした傾向は、社会の動向からして、今後もますます強まるのではないかと思われるのである。

おわりに -教育支援によって広がる子どもと社会の未来-

 ここでは、教育支援とは何か、そしてそれは今、社会の中でどのように広がっているのか、そして、それが広がる社会のひとつの特徴について、ここまでに考えてきた。最後に触れておきたいことは、こうして広がる教育支援は、子どもや、子どもたちが担うこれからの社会にとってどのような意味を持つのだろうかということについてである。
 もちろん、子どもたちを護り、育て、教育することは、そもそも大人の、あるいは社会の責務であろう。このために、複雑で多様化する社会にあって、学校をプラットホームに、様々な立場の人たちが、補助し、連携し、協働して教育にあたることは、子どもたちにとって新しい形での成長と発達の場を、社会の変化に応じた確かさを持って用意することにつながるのだと思われる。21世紀を生きる子どもたちに求められる力は、こうしたネットワークに支えられた教育によってゆたかに実現されるとともに、教育を受けることが困難な状況、あるいは困難を抱えることで教育から排除される子どもたちを生まないためには、こうしたネットワークに支えられた教育が必然だからである。
 しかしそれ以上に、教育支援のネットワークによって学校教育が営まれることは、「学び」という行為が持つ公共性が新しい形で構築され、それなくして人間は生きていけない「社会」というものを再構築する可能性を持つことも、ここでは強調しておきたい。公共性とは、単に「国家」とか、行政等の「公的組織」が持つ性質のことではなく、「すべての人に開かれていること」、あるいは自身の立場や所属、共同体といった所与の状況にとらわれず自由に考えることができること、といってもよい。学校は公教育を支える場であるが、そこにある公共性とは、本来、国や自治体や公的組織といった、特定の共同体の秩序や利害に基づいて行われる性質を指すのではなく、「子ども」や「社会」あるいは「人間」全般に対して、よりよく生きよう、よりよく働きかけようと考えることから始められることが担保されることを指している。つまり、教育支援は学校が持つ本来の性質=「学び」のこのような公共性を開くのである。
 「学び」という営みが、このような公共性の下に、すべての子どもたちや、社会のすべての人々に用意されたときに、望ましさや困難さは個別な問題ではなく、みんなの目指すべき、解決すべき課題として取り上げられ、「学び」を通じて個人と社会の未来は明るいものへと構築される。教育支援の広がりと、学校教育のネットワーク化の動きを、このような大きな社会理念の観点からも、理解し取り組んでいくことが必要ではないかと思われるところである。

(本稿は、「松田恵示、序章 教育支援とは何か -教育支援の概念-、松田恵示、大沢克美、加瀬進編『教育支援とチームアプローチ-社会と協働する学校と子ども支援-』、書肆クラルテ、朱鷺書房、2016」を若干修正し、改題したうえで再掲したものである)

引用・参考文献

支援基礎論研究会編者、『支援学―管理性をこえて』、東方出版、2000
大澤真幸、「公共性の条件」(上)、『思想』10月号、岩波書店、2002
脇田愉司、「支援とは何か-その背後にあるものから」、社会臨床雑誌11巻1号、2003 
松田恵示、「「権威主義」vs「個人主義」あるいは「振り移し」vs「表現・創造」」、女子体育、2014
R.セネット、斎藤秀正訳『それでも新資本主義についていくか――アメリカ型経営と個人の衝突』、ダイヤモンド社、1999