2023年アーカイブ

WBC日本代表優勝!

いやはや、準決勝と決勝と、なんともすごい試合でした。いろいろなところで言われてますが、漫画や映画でも、こうはならないだろうというような展開でした。大谷や村上という大スターはやっぱり何か持ってるんだなと思わされましたし、ダルビッシュの佇まいには大物感があふれていて、感動しました。野球は筋書きのないドラマなどと言われますが、この14日間、それをたっぷり味わあせてもらいました。

実は本学、このWBCの日本代表チームとは、2つの点で、一方ならぬ繋がりを有しています。

ひとつは、いまさら感もありますが、栗山英樹監督は本学の卒業生です。本学のA類保健体育を卒業されていて、当然本学の硬式野球部の出身者です。栗山さんの名監督ぶりは日本ハム時代からよく言われていたことですが、今回もよくその才を発揮されました。ああいう超一流選手たちを、短期間で、よくまとめたなぁと感心します。栗山さんと比べるのもおこがましいのですが、私の高校・大学の運動部(柔道部)とコーチ等として関わった経験からすると、一流選手ほど、コーチや監督のいうことを簡単には聞かないものです。一流選手は、競技の技術や競技そのものに対して、自分なりのかっちりとした考えがあり、よっぽど力があるか、圧倒されるような競技歴をもっているコーチや監督でないと、すぐには言うことをききません。超一流の選手の集まりを、短期間にワン・チームにまとめ上げた手腕というのは実に見事なものです。きっと人間的にも魅力に富む方なのだろうと思います。

もうひとつの本学と日本代表チームとの繋がりは、あの大谷選手と関わることです。大谷選手は、よく知られているように岩手県の花巻東高校の出身ですが、そこで大谷選手を育てたのは、名伯楽として知られる佐々木洋監督です。この佐々木洋監督こそは、何を隠そう本学の佐々木幸寿理事・副学長の教え子なのです。岩手県の出身の佐々木理事・副学長は、中学から大学まで野球をやり(典型的"野球少年"ですね)、大学は経済学部(東北大学)に進んだものの、高校の野球部の監督になって高校生を甲子園に連れていくという夢を捨てられず、高校の教師になったという経歴の持ち主です。佐々木理事・副学長の高校教師としての約20年間は、もっぱら硬式野球部の指導に捧げられ、あと一歩で甲子園というところまでいったのですが、彼が、黒沢尻北高校に赴任した時の教え子・野球部員に佐々木洋さんがいたのです。佐々木理事・副学長と、佐々木洋監督との両佐々木監督は、今に至るも師弟の間柄として親しくされています。こうしたことからすると、大谷選手は、本学、うちの理事・副学長の佐々木監督の孫弟子ということになるのではないかと、思うのですが、いかがでしょうか?

さて、本学では、2012年、栗山監督就任1年目で、日本ハムファイターズがリーグ優勝した時に、東京学芸大学栄誉賞を授与するとともに、記念碑を野球場に建てました(写真)。その時は、栗山監督にお出で頂きました。今回、こうして日本代表チームをWBCの優勝に導いた栗山英樹監督は、本学の誉れであり、誇りです。このことを、なんとか機会を見つけてお伝えしたいと思っています。

写真は、その記念碑の全体像と、栗山監督のサインが記されている部分のアップです。また、その時のことを報じた新聞記事のリンクと、本学の全国同窓会壁擁(へきよう)会のニュース及び機関誌に、栗山監督関係で載った記事のリンクを張っておきます。

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「東京学芸大に"栗山英樹球場"構想 母校の栄誉賞1号に」
スポニチ Sponichi Annex 2013年12月12日記事 
東京学芸大に"栗山英樹球場"構想 母校の栄誉賞1号に― スポニチ Sponichi Annex 野球

栗山監督に母校が「学芸大栄誉賞」表彰
栗山監督に母校が「学芸大栄誉賞」表彰 - プロ野球ニュース : nikkansports.com

ファイターズ・栗山英樹監督の新年ご挨拶
辟雍NEWS|東京学芸大学 辟雍(へきよう)会 (hekiyou.com)

辟雍会機関誌 第10 号
hekiyou_10.pdf

令和4年度卒業・修了式式辞

卒業生、修了生のみなさん、ご卒業・ご修了おめでとうございます。めぐりあわせとはいえ、コロナ禍の3年間、コロナが明けないうちに卒業、修了の年を迎えたこと、なんとも気の毒です。特に、大学院のみなさんには心残りもある2年間であったと思います。しかし、そうした逆境ともいえる状態の中で、あなた方は、よく学びよく研究し、今日の日を迎えました。その努力に敬意を表します。また、学長として誇らしくも思います。

さて、私は、障害児や発達の心理学を専門にしています。20世紀初めのロシアの発達心理学者にヴィゴツキーという人がいました。この人は、37歳という若さで結核で亡くなりましたが、現代の心理学にいまだに大きな影響を及ぼしつづけている人です。この人が、人間の発達の原則について言ったことに、「精神間機能から精神内機能へ」というものがあります。どういうことかというと、子どもは初めは自分一人でできないことを、母親などの大人の助けをかりてやり遂げる、これが精神間機能です。それが徐々に、助けてくれる大人を自分の中に取り込んで、一人でできるようになる、これが精神内機能です。人間の行う様々なことの発達原則が、この「精神間機能から精神内機能へ」ということだというのです。当たり前のことのように思いますが、彼は、きちんと定式化して示しました。

このヴィゴツキーの原則を、敷衍(ふえん)すると、人は助けをかりた人を内に取り込んで発達していく、ということです。助けてくれる人は一人ではないでしょうから、人の心には、多くの人が取り込まれていくことになります。となると、人の集まりである「社会」、その社会と相似のものが人の心のなかにできるということになります。このように、ヴィゴツキーの言っていることは、社会を重視し、社会に親和的で、社会に対する楽天的、寛容な姿勢を背景に提唱されているものということになります。実際、彼は、人間の高等な心理機能の社会的な起源を強調する心理学のひとつの学派である文化‐歴史理論の創始者ともされています。

しかし、ヴィゴツキーを取り巻く実際の社会、ロシアとソビエトの社会は、彼に対して温かい目を向けてくるものではありませんでした。まず、彼は、ユダヤ人でしたので、様々な差別を受けてきました。帝政ロシアでは、ユダヤ人には居住制限があり、ユダヤ人が住むことを許されていたのは、ウクライナ、ベラルーシ、リトアニアだけでした。彼の出身地は、そのうちのベラルーシで、ゴメリというところでした。そして、そこで、ヴィゴツキーは、子ども時代にポグロムを経験しています。ポグロムというのは、ロシア人たちが徒党を組んで、理由もなくユダヤ人を襲い、財産を略奪し、暴行を加え、ひどい時には殺害するという犯罪行為を言います。彼の出身地のゴメリでは、このポグロムが、彼が子どもの頃に2度起こったという記録が残っています。また、彼は、モスクワ大学へ入学することを志しますが、そのためには、非常に限られたユダヤ人枠をねらわなければなりませんでした。さらに、彼が受験する時には、成績の他に、抽選というプロセスも加えられ、それをパスしなければなりませんでした。

また、彼は、政治・社会的に非常に困難な状況にありました。ヴィゴツキーもその一端を担っていた革命政府、つまりソビエトは、革命の指導者レーニンの死後変質します。特に、ヴィゴツキーらを支援し、彼らもまた支持していた政権中枢にいたトロツキーが、スターリンとの熾烈な権力闘争に敗れ、失脚すると、自由な言論や表現、研究ができなくなっていきます。そして、ソビエトは、政権批判が許されないよく知られるような共産党の独裁国家となっていきます。

そうした政治状況の中、ヴィゴツキーは、追い詰められ、研究の拠点をモスクワから移さざるを得なくなっていきました。そういうヴィゴツキーが研究拠点を移した先は、ウクライナのハルキウでした。そして、ヴィゴツキーは、ハルキウで十分な研究ができないまま、結核を悪化させて、37歳で亡くなります。その後ソビエトでは、スターリンが死ぬまでの20年間、ヴィゴツキーの本を出版することはできませんでした。

このようにヴィゴツキーを取り巻いていた社会は、彼に対して決して寛大ではありませんでした。しかし、そういう状況の中でも、彼は、社会に信頼を置く発達原則を提唱したのです。

さて、世界は今、ロシアのウクライナへの軍事侵攻という、21世紀に起こった信じられない蛮行に、凍り付いています。こうした中で我々はどうした態度をとるべきでしょうか。

私は、ヴィゴツキーに倣いたいと思います。やはり、人の社会を信じ、この困難な状況を見据えていこうと。

教育という営みは、ヴィゴツキーの言う「精神間機能から精神内機能へ」ということを、組織的に、意識的に、系統的に行おうとするもので、社会を信じ、人間の未来を信じるということを前提にして、はじめて行い得るものです。そうした教育という営みにまた信を置こうと思います。

また、ヴィゴツキーの言うような「精神間機能から精神内機能へ」というのは、高等教育での知の伝授にも言えることで、というより、むしろ、高等教育こそ、人から人への伝承ということが必須です。それをあなた方は、卒業論文、修士論文、課題研究で行ってきたことと思います。そこで鍛えられた知の構築の方法を携えて、それを生かして、人から、社会から頼られ、活躍していかれることを期待しています。

ヴィゴツキーの出身地であるベラルーシのゴメリは、昨年3月にロシアとウクライナの戦争の第1回目の停戦交渉の行われた場所となりました。先ほど述べた、ヴィゴツキーが新たな研究拠点としようとしたウクライナのハルキウは、昨年、ウクライナがロシアの猛攻をしのぎ死守した場所です。ヴィゴツキーの由縁(ゆえん)の土地が、ロシアとウクライナの戦争の中で知られることになってしまいました。

かつて、ロシアとウクライナは、崩壊するまで同じソビエトに属していました。ソビエトは、第二次世界大戦でもっとも多くの死者を出した国です。その数は、人口の1割を越え、二千数百万人と言われています。この戦死者数には、当然ながら、ロシアとウクライナのどちらの人々も含まれています。

この膨大な数の戦死した人々は、人類をナチスから守る凄惨な闘いで亡くなった人たちです。ソビエトは、独裁国家になっていましたが、ナチスとの闘いに払った犠牲については忘れるべきではないと思います。そうした、かつては同じ国に属して過酷な運命に殉じたロシアとウクライナの人々が、今、戦火を交えているというのは、なんとも残念で、悲しいことです。戦禍の中では、教育は成立しません。教育科学の研究者として、人間として一刻も早い停戦を願います。

先ほど名前を挙げた、ヴィゴツキーが支持したロシアの革命家トロツキーは、「人生は美しい」と言いました。みなさんも、美しい人生を大いに享受してください。そうであることを心から期待していますが、しかし、いろいろうまくいかないこともあるだろうと思います。行き詰まるときもあるでしょう、また、病気になることもあるだろうと思います。そうした時は、みなさんのうちにある、みなさんの中に取り込まれた本学と本学の教員を思い出してください。また、みなさんは、私たちの中にもいます。いつもみなさんを待っています。みなさんの人生が、みなさんらしく、美しいものであることを祈っています。本日はおめでとうございます。ありがとうございました。

令和5年3月17日
 東京学芸大学学長 國分 充