学長室だより

3.11。

私は、仙台出身ですので、3月11日には、いろいろと思うところがあります。あの年、私は、5月になって、はじめて仙台に入ることができました。その時に強烈な印象を受け、今も脳裏に残っている光景を3つほど。

妻の本家が丸森という宮城県の南にあり、そこに行くためには仙台から福島方面に向かう南部道路という、周囲から土が高く積まれ嵩上げされている自動車道路を行きます。それが、仙台市内を過ぎたあたりから、東京方面に向かって左側、東側には、家がまったくないということに気づきました。これまで何回も通った道で、両側に農家などの民家や田んぼ、畑などがあったのですが、それが、海側の東側だけ何もないのでした。津波の跡でした。自動車道路が堤防の役割をしたと聞いてはいましたが、呆然として言葉を失いました。同乗していた妻も同じ思いであったらしく、車の中は、自ずから口数が少なくなりました。ところどころにポツンと残っている家がありましたが、それらはいずれも焼けたような跡があり、1階部分のガラス戸、窓はみな破れ、そこからカーテンが外にはみ出てきていて、バサバサと風に吹かれて舞っていました。もちろん人が住んでいる気配はなく、荒涼たる光景でした。

仙台の北西部には葛岡墓地公園という丘陵地帯を利用したかなり大きな市営の墓地があります。ここに父が眠っているので、帰仙した時には、必ずお墓参りに行っていました。墓地に行く手前の道路の左側には、100mか、200mに及ぶ駐車スペースが横長に取ってあるのですが、そこにプレハブの建物が、その駐車場をつぶすようにして、ずっと並んで立っているのでした。何だろうと思って、降りてみると、それは、簡易納骨堂で、火葬したお骨を、埋葬までの間、一時的に収めておくという場所でした。亡くなった人の埋葬が立て込んでいて、手が回らず、こうした施設をつくって、時間を調整しているのでした。1万人を越える死者ということは、こういうことかと、痛烈に思い知りました。

もう一つは、多賀城付近の車のディーラーの建物です。それほど大きな建物ではなかったのですが、1階部分は、津波で破壊され、ぐちゃぐちゃになっているようでしたが、破れたガラスのドアの残っている部分に、青マジックで「2階で営業中」という紙が貼ってあるのでした。なんという意地、意気地!。地震、津波になんか負けるか!という人間の意志が強く感じられるものでした。目にした時には、目頭が熱くなりました。

帰京して大学院の授業の時に、こうした被災地の様子を話そうと試みましたが、話そうとすると、こみ上げてくるものがあり、なかなかうまく話せませんでした。特に、自然というものの圧倒的な力による胸塞がるような光景を次々と見せつけられる中、最後に記したことは、自然に対する人間の矜持を示すものとして、人を励ますものとして、きちんと話したいと思っていましたが、できませんでした。が、学生の前でうまくできなかったことが、今果たせたか、と思っています。