学長室だより

「砂の器」

NHKの今月の「100分で名著」は、北条民雄の「いのちの初夜」です。女優でもある中江有里さんが講師です(名著127「いのちの初夜」北條民雄 - 100分de名著 - NHK)。北条民雄は、ハンセン病者を隔離収容していた全生病院(現在の全生園)に入院していた患者・作家で、「いのちの初夜」は、その代表作です。ハンセン病は、人権にかかわる重大な差別を、国を挙げて最近まで行ってきたという歴史をもっており、それは、障害者差別とも繋がるものであるため、私も授業の中で取り上げてきました。北条民雄の作品のことや、全生園のことなど、今後学長室だよりでも取り上げてみたいと思いますが、今回は私がハンセン病のことを強く意識させられるようになったきっかけのようなことなどを記したいと思います。それは、松本清張の「砂の器」にまつわるものです。

もはや半世紀近く前になりますが、中学生の一時期、推理小説への興味から、松本清張に随分と凝って読んでいた時期がありました。当時、清張の本は、文庫本にはなっておらず、出ていたのは、光文社のカッパ・ノベルズと新書版のシリーズでした。これは、中学生が買うにはちょっと値が張ったように記憶しています。が、面白く、やや無理をして購入し、主要な作品――「ゼロの焦点」、「点と線」、「目の壁」など――を読みました。「砂の器」もそうして読みました。「砂の器」は、分厚い本でした。

小説を読んで何より印象に残ったのは、「ズーズー弁」と言われるしゃべり方をするところが――無アクセント地帯というのでしょうか――、東北地方以外にも福井や島根にもあるということでした。小説では、島根の「ズーズー弁」に焦点が当たっていきます。

こういうところが印象に残ったというように、この小説にはハンセン病のことも書かれていた(そうでないとこの小説に出てくる事件が成立しませんので)ものの、事件の推理にばかり気をとられて読んでいたせいか、それほど強い印象は受けませんでした。

ところが、テレビの映画劇場のような番組で映画となった「砂の器」を見て、驚きました。こういうことだったのか!!と。ネタばれになるので、詳しくは書きませんが、丹波哲郎扮する刑事が映画の最後に捜査結果を縷々報告するシーン――その場面には、ハンセン病のため、故郷を追い出され、お遍路姿で、行くところと行くところで、差別偏見に晒されながら流離う父と子の姿、また、主人公の作曲したオーケストラによる荘重な音楽が重なります――には、時間を忘れ、深く感動しました。そして、一方では、本にはこんな風に書いてあったか??とも思いました。本棚から本を引っ張り出し、あらためて確認したほどでした。上にも書きましたが、ハンセン病のことが書いてはありましたが、やはり、この映画の映像が訴えてくるほどのもののようには、描かれていませんでした。こう思うのは私だけかと思っていましたが、そうでもないことがネットを見てわかりました。(ウィキペディアの「砂の器」の項にも、原作と異なる映画版の特徴として、"原作ではハンセン(氏)病への言及は簡潔な説明に止められているが(言及箇所は第六章・第十七章中の2箇所)、映画版では主に橋本忍のアイデアにより、相当の時間が同病の父子の姿の描写にあてられている。"と書かれていました。)

ここで、私がテレビで見た映画というのは、1974年に野村芳太郎監督によって撮られたものです。私は、その数年後にテレビで放映されたものを見ました。この映画については、映画化された当時「映画が原作を越えた」と言われたとも聞きましたが、もっともだと思います。その後、「砂の器」のテレビドラマもいくつか作成され、関心をもって見ましたが、ハンセン病に係わる肝心のところは変えられており、ストーリーに説得力を欠くものとなっていました。

こうしてハンセン病のことは、私の関心の中に常に存在するようになり、最初に記したように授業で取り上げたりするようになりました。そして、また、本学に赴任したところ、期せずして北条民雄所縁の全生園の近くに住まいを構えることとなったのです。全生園は、我が家から歩いて20分で、週末の散歩コースとなりました。また、全生園の中にある資料館も気軽に見たりすることができるようにもなったのです。この辺りのことは、また、稿を改めて記したいと思います。

ところで、福井や島根にもある「ズーズー弁」ですが、福井地方の「ズーズー弁」は、金沢大学に30歳台半ばで赴任した時に実際接することになりました。福井出身の子の「ズーズー弁」は、東北出身の私が聞いても、本場の「ズーズー弁」と区別がつきませんでした。ちょっと驚いたことは、金沢の学生たちが、福井の出身の子たちがそうした話し方をすることを知っていたことでした。その話し方は、「コアラのマーチ」と言うと、はっきりするというので、福井出身の子にそう言わせて、面白がっていました、言っている本人も面白がっているのが、なんとも無邪気なところでした。30年前の思い出です。