学長室だより

令和5年度入学式式辞

新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。3年間に及ぶコロナ禍、繰り返し繰り返し襲ってくる感染の波の中で、みなさんは、よく学修を進め、今日の日を迎えました。そのみなさんの努力、我慢に心から敬意を表します。東京学芸大学は、あなた方を心から歓迎します。

 さて、私は、障害児や発達の心理学が専門です。発達心理学は20世紀にできた学問なのですが、その発達心理学をつくった人のひとりに、ピアジェというスイスの人がいます。彼は、人間の認識発達を4つの段階に分ける発達理論を提唱しました。その理論は、強力で、現代の発達心理学に、今に至るまで大きな影響を与え続けています。

 そのピアジェが、人間の認識の発達で注目したのが、同化と調節という生物の行う活動でした。これは、もともとは生物学者であったピアジェが、生物学から借用した概念です。生物は、生きていくためには、外界のものをうちに取り込まなければならない、これが同化です。しかし、その同化を行うためには、生物は自らを調節しなければなりません。と言っても、これでは、何が何だかわからないでしょうから、ちょっと説明します。例えば、動物は、生きていくために、食物を外界から取りこみます。この食物を取り込むというのは、食物を吸収できるまで分解消化し、吸収するという過程です。これが同化です。しかし、食物を自らに取り込むには、食物を口に入れてから、固いものであれば、奥歯を使って繰り返し繰り返し噛む、柔らかいものであれば、前歯で噛み切り、そこそこ噛んで飲み込んでしまう、液状のものであれば、歯はほとんど使わず、喉で飲み込む、というように、同化する対象によって、からだの中で使うものを変える、あるいは、からだの中で使うものの使い方を変えるということをします。これを調節といいます。同化が、対象の形を変えることだとすれば、調節は、自分の形を変えることを言います。ピアジェは、生物が、生存のために、繰り返し行っているこの同化と調節という働きに注目し、人間は、認識活動においてもまた同じことを行っていると、見たのでした。

 認識活動における同化と調節がどういうことかを説明しますと、例えば、みなさんが本を読んでいるとします。書いてあることがよくわかるという状態は、みなさんが今もっているものの理解の仕方、すなわち、認識の枠組みで同化できているという状態です。が、書いてあることがわからないといって、これはどういう意味か?と、ああでもないこうでもないと頭をひねっているとすれば、それは、今の自分の認識の枠組みでは同化できず、認識の枠組みをあれこれ変えて、すなわち、調節して同化を試みているということになります。

 ピアジェは、この生きている限り繰り返される同化と調節という活動と、それに加えて、人間の生物学的成長を背景において、人間の認識発達を、蝶の変態のようなものとして描きました。すなわち、幼虫から、さなぎを経て、羽のある成虫に変わっていく蝶の変態のように、非連続的な、おのずから変わっていくような段階ということです。そのため、彼の理論は、発達における成熟を重視する発達理論とも言われます。が、しかし、そうした彼の理論の中に、調節という働きが、発達の重要なファクターとして入っているのは、注目すべきと思います。というのは、調節は、生物の側が自ら(みずから)行う働きで、単なる成熟とは異なるからです。先ほど挙げた例で言うと、ああでもないこうでもないと頭をひねっているというところで、これは、生物が、人間が、外のものを取り込むために、自分の方を変えようと努めているところだからです。

 今日あなた方は本学に入学して、大学生として、大学院生として、スタートするわけですが、そこで、成長していくには、いろいろなものを取り込んでいかねばなりません。あなた方が学ぶそれぞれの学問領域には、先達の残したこれまでの膨大な知見があり、それを取りこんでいかねばなりません。それが、自分の考えを作り上げていく前提となります。みなさんには、是非とも多くのものを取り込んで、自分のものにしてほしいと思いますが、学問的・科学的で専門的な事柄となると、そのまま取り込むことはなかなか簡単ではありません。そのためには、ピアジェの言うように、あなた方自身を変えて、あなた方の認識の枠組みを調節して、取り込んでいく必要があります。これは、人間一般の共通の発達段階を越えることで、それなりのやり方というものがありますが、その方法は、その道の専門家に習う必要があります。

 ちなみに、私が、ピアジェに触れたのは、大学1年の夏休みでした。高校の部活の先輩で、文学部の一般心理学に進んだ先輩に、「発達心理学をやるなら、ピアジェくらいは読んでないと」と言われたのがきっかけでした。それで、ピアジェの『知能の心理学』という本を買い求め、ページを開きましたが、これがまったく歯が立ちません。高校生の時に幾分かは社会科学の本や哲学書にあたっており、それなりに難しい本も相手にしていたのですが、ピアジェの難解さは、そうしたものとはまったくテイストが違って、取りつく島がなく、途方に暮れるという感じで、数ページ読んで放り出しました。ピアジェの著作は、実は難解で鳴るもので、初学者が、いきなり読んでわかることなど到底あり得ないことでした。ピアジェの言っていることが、おぼろげながらも何となくわかってきたのは、博士課程に進んでからでした。学部を終え、大学院の修士課程を修了する数年間のうちに、ピアジェの理解の仕方など教わったことはなかったのですが、私の認識の枠組みが、学部、修士課程と学修する中で、自然と、気づかぬうちに変わっていっていたのだと思います。

 しかし、もし、私がはじめてピアジェの本を手に取った時に、それを理解するための認識の枠組みの調節の仕方を教えてくれる人がいたら、もう少し早くにピアジェを理解することができたのではないかと思います。

 みなさんが入学した本学には、みなさんの認識の枠組みを、専門的知見がわかるように調節するのを手助けする教員が沢山います。それを支援する職員もまた、沢山います。本学の教職員と、そして、今日入学したみなさんの仲間と共に、本学でその調節の仕方を学んでください。そして、専門的な事柄をわがものとして、同化していってほしいと思います。

 なお、ピアジェという人は、19世紀末に生まれた人で、小学生で生物学の論文を書き、19歳で大学を出た、まごうことなき天才でした。20代の頃には、発達心理学者としても、すでに国際的な名声を博していました。第二次世界大戦時には、40代となっていましたが、自伝の中で、「正確なところはよくわからないけれども、スイスは戦争の惨禍をまぬかれた」と言い、「そうかといって、自分の研究を続けることもできなかった」と言っています。1815年のウィーン会議で永世中立国となり、世界大戦に参戦しなかったスイス国民のピアジェが、こう言うのです。世界大戦の影響がいかに広範なものであったか、推して知るべきだと思います。このピアジェの言を俟つまでもなく、平和こそ、戦争を起こさないことこそが、学術の発展の最低の条件です。このことは、われわれ大学に集うものが胸に深く刻むべきことだと思います。ピアジェは、第二次世界大戦中から、ユネスコの設立に関わっています。ユネスコは、第二次世界大戦後すぐの1946年に設立された「国際平和と人類の福祉の促進を目的とした国際連合の専門機関」です。ユネスコ憲章の冒頭には「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」とあります。このように、ユネスコは、2度の世界大戦を経て、「教育や文化の振興を通じて、戦争の悲劇を繰り返さない」との理念にもとづいて作られたものです。今戦火をまじえているロシアも、ウクライナも、ユネスコの古くからの加盟国です。ピアジェの業績、社会的活動を思うにつけても、この2か国が戦争状態にあることは、まことに残念です。一刻も早い停戦を願います。

 繰り返しますが、平和でなければ、戦争に巻き込まれていては、学術の発展は望めません。この当たり前のことに改めて思いを致しながら、今日という、あなた方の人生の新たな出発点をお祝いしたいと思います。本日はおめでとうございました。ありがとうございました。

令和5年4月4日
東京学芸大学長 國分 充