学長室だより

令和6年度入学式式辞

新入生のみなさん、ようこそ本学にいらっしゃいました。心から歓迎いたします。昨年、新型コロナウイルスの感染症法上の分類は、ようやく5類になりましたが、いろいろと制限のある中で受験・進学の準備をされてきたことと思います。めぐりあわせとはいえ、まことに気の毒です。しかし、みなさんは、そうした逆境ともいえる状態の中で、よく準備し、今日の日を迎えました。その努力に敬意を表したいと思います。

さて、先般3月19日に行われました2023年度の卒業式で、卒業生・修了生の方が答辞を読んでくれたのですが、大学院を修了された方が、その方が入学された2022年度の入学式の際に、私が式辞でお話ししたことを憶えていてくださって、その内容に沿った答辞を読み上げてくださいました。私、大変にうれしく、私のまずい式辞でも、憶えていてくれたのかと、大いに感激いたしました。そして、そうだとすると、私の式辞にもそれなりの意味があり、繰り返しお話しする価値もあるかと思い、今また、そこからお話ししたいと思います。

私の専門は、障害児や発達の心理学なのですが、20世紀初め革命期のロシアにヴィゴツキーという心理学者がいました。この人は、1934年に38歳という若さで、結核で亡くなった人ですが、現代の心理学にいまだに大きな影響を及ぼしつづけている人です。この人の言ったことに、「人間の発達というのは、ひとつの機能なり能力なりが単一でそれだけでぐんぐんと伸びていくというのではなくて、いくつかの機能・能力が結合して、新しい機能・能力が生み出されていく、そのことの繰り返しだ」というものがあります。どういうことかと言いますと、例えば、赤ちゃんは、マンママンマやバブバブバブと音声を発しますが、この赤ちゃんがもっている音声を発する能力が、意味づけを行う人間の能力である思考と結びついて、つまり、結合して、意味のある音声である"言葉"になります。この言葉というのは、単なる空気振動である音声にも、頭の中の思考にもない、新しいものです。この新しく誕生した意味ある音声である言葉が、今度は、いろいろな機能・能力と結合していきます。例えば、言葉とわれわれの運動能力とが結合すると、言葉によって運動を始めることができ、言葉によって運動を終えることができます。これが随意運動という新しい機能・能力で、これがまたいろいろな能力・機能と結びついていきます。こうしたことを繰り返していくのが人間の発達だという考え方です。

このように何かと何かの結合が新しいものを生むということは、製品の品質向上などでもよく見られることです。スポーツ界では、最近は、パラリンピアンの活躍も報じられるようになり、障害をものともしない競技の素晴らしさ、レベルの高さには随分と驚かされるところです。そうしたパラリンピアンの、例えば、義足の選手の活躍には、カーボンファイバー製の義足の開発ということが大いに貢献していると言われます。これは、カーボンファイバーという材料と、義足とを結びつける、つまり、結合させることで成立したものです。このような製品の品質向上は、経済の発展をよぶもので、経済学では、これまでにない新しい結合が、経済発展の契機として重視されています。これが、イノベーションと言われるものです。イノベーションは、以前は技術革新などと訳されていましたが、今は、新結合と訳されています。

さて、翻って、学問の世界を見てみますと、世紀の大発見や新学説と言われるものも、ゼロから何かをつくり上げたというより、これまでに知られている何かと何かを結合させることで得られたものが少なくないことに気づきます。例えば、私の専門の心理学でいいますと、神経症と夢とを結合させることで無意識の心理学、フロイトの精神分析が誕生しました。ダーウィンの進化論も、多様な生物の形態とマルサスなどの人口論を結合させたところで生まれました。また、20世紀の世界を変えたマルクスの唯物史観という歴史の見方も、経済史と、政治史・文化史等を結合させて、経済の動きの方を土台に置いて世界史を見るという視座から発したものです。

このように人が何かを創造するということは、ゼロから何か新しいものをつくるということだけではなく、これまで知られていることの間に、新しい結合を見つけ出したというようなことも多くあるということです。そして、その新しい結合をつくるためには、言うまでもないことですが、結合するものどうしのことを知っていなければなりません。

先ほど挙げたカーボンファイバー製の義足の開発は、カーボンファイバーと義足の両方を知る人がいて、はじめて可能になったことです。フロイトは、神経症と夢とを、ダーウィンは、多様な生物の形態と人口論とを、マルクスは、経済史と政治史、文化史等を知っていたから、新しい学問を創造することができたのでした。

これを敷衍するなら、人間の切り開いてきた知識という広大な世界で、どこにどのような知識があるのかを掴んでいるということが、創造にとって重要ということです。深く掘るには広く掘れという言葉があります。必ずしも詳しく知る必要はありません。だいたいあたりがつくということでよいのです。それが教養です。

みなさんは、これから大学、大学院で様々な学問領域で学ぶことになるわけですが、そうした中で、ひとつのことをぐっと掘り下げて学ぶことは大事ですが、一方では、視界を広くとって、人間の知識の大枠を掴む、そういう勉強の仕方も学んでほしいと思います。それは、遠回りのようにも見えるかもしれませんが、専門の領域を極め、新たな発見に通じる道ともなることに心をとめてもらいたいと思います。

また、みなさんは、これから本学で教員にも、そして仲間にも出会います。出会いというのは、結びつきをつくることです。これも結合です。

先ほどお話ししたロシアの心理学者・ヴィゴツキーのまわりの研究サークルには、多様な人たちがいました。ロシア人はもちろんですが、ヴィゴツキー自身が、ベラルーシ出身のユダヤ人でしたので、ユダヤ人も多くいました。また、今ロシアと戦火を交えているウクライナから来た人たちもいました。国として、ロシアとウクライナの間は、複雑な関係にあるのですが、長く協同してきたことも事実です。ヴィゴツキーの研究サークルにいた有名なウクライナ人には、ザポロージェツという人がいます。この人は、元々は、アヴァンギャルドの映画監督エイゼンシュテインを慕って、ウクライナから出てきた役者で、その後心理学を志し、ヴィゴツキーの下で学んでいました。彼は、ヴィゴツキーとエイゼンシュテインとの間をつなぐ役割を果たしました。後にザポロージェツは心理学者として名を成し、ソビエトの就学前教育研究所の所長になりました。ヴィゴツキーの独創的な知見は、いろいろな人との繋がりの中で生まれていったと言ってよいと思います。そうした協働の中から、先駆的なアイデアが生まれていったのです。人と人との結合の力だと思います。

みなさんの本学での、学問と人との出会い、結びつき、結合が、みなさんの人生を変える素晴らしい出会いとなることを祈っています。

今年は新年早々、能登半島地震が起きました。200人を越える方が亡くなり、5000人近くの方がいまだ避難所生活をされていると聞きます。東日本大震災の際と同様に、"絆"、人々の結合に基づいた復興が、早くになされていくことを願いつつ、私の式辞といたします。本日はおめでとうございました。ありがとうございました。

令和6年4月4日
東京学芸大学長 國分 充