「日本盲人社会史研究」(2)
実際にお会いした加藤先生は、知性的であるのは言うまでもありませんが、非常に穏やかで温厚な方でした。先生の傍には、奥様がいらっしゃって、いろいろの介助をされていました。
加藤先生の研究活動には、常に奥様がご一緒でした。史料のあるところにたどり着く、史料を探し当てる、史料を読んだりメモしたりする、それを点字にする、先生が書かれた点字の文章を墨字に変換する等々、研究に不可欠なこれらの作業をみな奥様が担っていたのでした。この本((1)でご紹介した、『日本盲人社会史研究』)の「あとがき」には、「史料の蒐集・整理・録音、そして点字原稿の墨字訳・浄書・校正は妻滋子の協力によるものである。」と書かれています。まさしく、二人三脚の研究活動だったのだと思います。そうしたわけで、東北大でのご講義の際にも、奥様は同伴されていたのでした。私は、あの当時、盲人の方がひとりでは、こうした研究・教育を行うことができず、そして、そうした介助を身内の方が行うことを、不覚にも変だとは思いませんでした。
この本も含め、先生は、まことに立派な研究業績をおもちだったのですが、障害ゆえに、50代になられるまで常勤の職には就けませんでした。加藤先生を採用したのは、茨城大学教育学部で、先生が51歳の時、1980年のことでした。全盲の方が国立大学の教員として採用されるのは初めてのことで、このことは、当時家でとっていた朝日新聞に出たのでよく憶えています。
加藤先生の採用には、当時障害児教育の教授であった茨城大学の鈴木宏哉先生(私の恩師のおひとりです)をはじめとする講座の先生方のご尽力があったと聞いています。しかし、研究業績本位で選考したとはされたものの、教育歴がないからという理由で助教授としての採用で、さらに、あの当時ですから、バリアフリーなどの意識は毛頭なく、障害に伴う特別な措置はしないという条件が付いていたと言います。
加藤先生は、東京教育大学の学生時代から、ずば抜けた秀才として有名で、学生同士ではもちろん、教員からも一目置かれた存在だったそうです。そうした先生の秀才ぶりを物語る逸話は数々あるようですが、私も知っていた有名なものに、失明するとわかった時に、英語の辞書を食べて憶えたというものがありました。お会いした時に、その真偽を確かめようと、「先生は、目が見えなくなるとわかった時に、英語の...」と言いかけたところ、先生が引き取られて、「あぁ、辞書を食べたってやつですか?それは、伝説ですよ」、「1万語憶えただけです」と、にこやかにおっしゃられるのでした...。
加藤先生ご夫妻とご一緒し、お近くでこうしたお話ができたというのは、当時30歳代前半の若い研究者であった私にはなんともありがたく、まことに幸福な4日間でした。懐かしく思い出されます。
『日本盲人社会史研究』のことについて、私は1985年に出た4刷をもっていると加藤先生に言いましたところ、「ほぅ、間に合いましたか」とおっしゃられました。なんとも言えぬおかしみのあるご返答ぶりでした。これは、専門書はすぐに品切れになってしまうことをおっしゃっているのでした(実際この本はもはや新刊では入手できません)。おかしみと言えば、この本の最初の口絵写真には、「東京教育大学雑司ヶ谷分校蔵」という検校の服装(紫衣・木杖・燕尾帽子)をした加藤先生が写っておられます。
この本をはじめわれわれに数々の得難い財産を残してくれた先生は、不屈というべき人生を生き抜いて、2002年10月にお亡くなりになりました。73年のご生涯でした。なお、本学図書館には、「加藤康昭さんを偲ぶ会」の編集による「障害者社会史研究の地平を拓くーー故加藤康昭先生の生涯と業績ーーー」が所蔵されています。