2025年アーカイブ

師範学校の展開と戦時下の様子

2025年4月から9月までのNHKの朝の連続ドラマ「あんぱん」は、「アンパンマン」の作者、やなせたかしさんと奥さんの暢さん夫妻をモデルとしたもので、今田美桜さん演じるのぶは、小学校の教員になるという夢を実現すべく家族を説き伏せて、当時の女子師範学校に進学します。卒業後は小学校の教員となり、戦争一色の時勢の中で、「愛国の鑑」とまで言われる存在になります。

それが終戦をむかえて、子どもたちに間違ったことを教えていたという強い自責の念から教師を辞するエピソードが描かれています。この、戦争と終戦の体験は、ご夫妻のその後の人生を貫くものとなっており、強い感銘を受けるものでした。このことについては、また別の機会に記すこととして、そうしたドラマの運びと時を同じくして、本学の大学史資料室(図書館3階)では7月2日(水)より「師範学校の展開と戦時下の様子」の展示が開催されています。

少し紹介しますと、まず、軍隊・戦争と師範学校の関わりは意外に早く、1925年に「陸軍現役将校学校配属令」が交付されると、師範学校では、早速、軍事教練や査閲(軍事訓練の成果発表)が行われたそうです。その様子を写した写真が展示されています。学校では歩兵銃なども所有していて、それは校舎内に保管されていたと言います。

勤労奉仕で、女子生徒が肥え桶を担いでいる様子や、慣れないであろう道具を使って耕作に励んでいる写真も展示されています。また、師範学校の教員が召集された際の出征のお祝いは、学校をあげての行事であったようで、その記念写真も展示されています。防災訓練なのでしょうが、バケツリレーの写真もあります。「あんぱん」の主人公、のぶもこういう行事を経験して、「愛国の鑑」と言われるような教師になっていったのだと思います。

戦争末期になると空襲が激しくなり、本学のルーツとなっている学校のうち、東京第二師範学校及び豊島師範学校は焼失します。展示では、終戦後の1946年に陸軍の施設跡の小金井キャンパスに移転したことが説明されています。

展示品の中で目を引くのが、女子師範学校の生徒たちが、市内見学で東京府美術館(当時)を訪れた時の日の写真です。見学した帰途でしょうか、美術館の階段を降りてくる女子生徒たちが写真におさめられています。「生徒たちの表情は明るく、校外行事を楽しんでいる様子がうかがえる」というキャプションが記してありますが、まさしくその通りです。そのため、今回の展示のパンフレットにも用いられているのでしょう(東京学芸大学大学史資料室 常設展示「師範学校の展開と戦時下の様子」のご案内)。その笑顔は、今の若い学生たちと同じです。ただ、右上に写り込んでいる、建物の巨大な柱に巻かれた「国民精神総動員」の極太の墨字の異様な垂れ幕。この異形さ、不釣り合いこそが、その後の日本の命運を物語っているように思います。彼女たちがその後どのような人生を歩むことになったのかと思うと、暗澹たる思いにかられます。こうした人たちをも巻き込んでいく戦争のことについては、上に記したことと併せて、稿を改めて記したいと思います。けっして広くない大学史資料室ですが、写真展示も多く、鑑賞しやすい展示となっております。図書館入口で、「資料室(3階)の展示を見たい」と言っていただければどなたでも図書館に入ることができますので、ご覧いただければ幸いです。

「日本盲人社会史研究」(2)

実際にお会いした加藤先生は、知性的であるのは言うまでもありませんが、非常に穏やかで温厚な方でした。先生の傍には、奥様がいらっしゃって、いろいろの介助をされていました。

加藤先生の研究活動には、常に奥様がご一緒でした。史料のあるところにたどり着く、史料を探し当てる、史料を読んだりメモしたりする、それを点字にする、先生が書かれた点字の文章を墨字に変換する等々、研究に不可欠なこれらの作業をみな奥様が担っていたのでした。この本((1)でご紹介した、『日本盲人社会史研究』)の「あとがき」には、「史料の蒐集・整理・録音、そして点字原稿の墨字訳・浄書・校正は妻滋子の協力によるものである。」と書かれています。まさしく、二人三脚の研究活動だったのだと思います。そうしたわけで、東北大でのご講義の際にも、奥様は同伴されていたのでした。私は、あの当時、盲人の方がひとりでは、こうした研究・教育を行うことができず、そして、そうした介助を身内の方が行うことを、不覚にも変だとは思いませんでした。

この本も含め、先生は、まことに立派な研究業績をおもちだったのですが、障害ゆえに、50代になられるまで常勤の職には就けませんでした。加藤先生を採用したのは、茨城大学教育学部で、先生が51歳の時、1980年のことでした。全盲の方が国立大学の教員として採用されるのは初めてのことで、このことは、当時家でとっていた朝日新聞に出たのでよく憶えています。

加藤先生の採用には、当時障害児教育の教授であった茨城大学の鈴木宏哉先生(私の恩師のおひとりです)をはじめとする講座の先生方のご尽力があったと聞いています。しかし、研究業績本位で選考したとはされたものの、教育歴がないからという理由で助教授としての採用で、さらに、あの当時ですから、バリアフリーなどの意識は毛頭なく、障害に伴う特別な措置はしないという条件が付いていたと言います。

加藤先生は、東京教育大学の学生時代から、ずば抜けた秀才として有名で、学生同士ではもちろん、教員からも一目置かれた存在だったそうです。そうした先生の秀才ぶりを物語る逸話は数々あるようですが、私も知っていた有名なものに、失明するとわかった時に、英語の辞書を食べて憶えたというものがありました。お会いした時に、その真偽を確かめようと、「先生は、目が見えなくなるとわかった時に、英語の...」と言いかけたところ、先生が引き取られて、「あぁ、辞書を食べたってやつですか?それは、伝説ですよ」、「1万語憶えただけです」と、にこやかにおっしゃられるのでした...。

加藤先生ご夫妻とご一緒し、お近くでこうしたお話ができたというのは、当時30歳代前半の若い研究者であった私にはなんともありがたく、まことに幸福な4日間でした。懐かしく思い出されます。

『日本盲人社会史研究』のことについて、私は1985年に出た4刷をもっていると加藤先生に言いましたところ、「ほぅ、間に合いましたか」とおっしゃられました。なんとも言えぬおかしみのあるご返答ぶりでした。これは、専門書はすぐに品切れになってしまうことをおっしゃっているのでした(実際この本はもはや新刊では入手できません)。おかしみと言えば、この本の最初の口絵写真には、「東京教育大学雑司ヶ谷分校蔵」という検校の服装(紫衣・木杖・燕尾帽子)をした加藤先生が写っておられます。

この本をはじめわれわれに数々の得難い財産を残してくれた先生は、不屈というべき人生を生き抜いて、2002年10月にお亡くなりになりました。73年のご生涯でした。なお、本学図書館には、「加藤康昭さんを偲ぶ会」の編集による「障害者社会史研究の地平を拓くーー故加藤康昭先生の生涯と業績ーーー」が所蔵されています。