2025年アーカイブ

「日本盲人社会史研究」(2)

実際にお会いした加藤先生は、知性的であるのは言うまでもありませんが、非常に穏やかで温厚な方でした。先生の傍には、奥様がいらっしゃって、いろいろの介助をされていました。

加藤先生の研究活動には、常に奥様がご一緒でした。史料のあるところにたどり着く、史料を探し当てる、史料を読んだりメモしたりする、それを点字にする、先生が書かれた点字の文章を墨字に変換する等々、研究に不可欠なこれらの作業をみな奥様が担っていたのでした。この本((1)でご紹介した、『日本盲人社会史研究』)の「あとがき」には、「史料の蒐集・整理・録音、そして点字原稿の墨字訳・浄書・校正は妻滋子の協力によるものである。」と書かれています。まさしく、二人三脚の研究活動だったのだと思います。そうしたわけで、東北大でのご講義の際にも、奥様は同伴されていたのでした。私は、あの当時、盲人の方がひとりでは、こうした研究・教育を行うことができず、そして、そうした介助を身内の方が行うことを、不覚にも変だとは思いませんでした。

この本も含め、先生は、まことに立派な研究業績をおもちだったのですが、障害ゆえに、50代になられるまで常勤の職には就けませんでした。加藤先生を採用したのは、茨城大学教育学部で、先生が51歳の時、1980年のことでした。全盲の方が国立大学の教員として採用されるのは初めてのことで、このことは、当時家でとっていた朝日新聞に出たのでよく憶えています。

加藤先生の採用には、当時障害児教育の教授であった茨城大学の鈴木宏哉先生(私の恩師のおひとりです)をはじめとする講座の先生方のご尽力があったと聞いています。しかし、研究業績本位で選考したとはされたものの、教育歴がないからという理由で助教授としての採用で、さらに、あの当時ですから、バリアフリーなどの意識は毛頭なく、障害に伴う特別な措置はしないという条件が付いていたと言います。

加藤先生は、東京教育大学の学生時代から、ずば抜けた秀才として有名で、学生同士ではもちろん、教員からも一目置かれた存在だったそうです。そうした先生の秀才ぶりを物語る逸話は数々あるようですが、私も知っていた有名なものに、失明するとわかった時に、英語の辞書を食べて憶えたというものがありました。お会いした時に、その真偽を確かめようと、「先生は、目が見えなくなるとわかった時に、英語の...」と言いかけたところ、先生が引き取られて、「あぁ、辞書を食べたってやつですか?それは、伝説ですよ」、「1万語憶えただけです」と、にこやかにおっしゃられるのでした...。

加藤先生ご夫妻とご一緒し、お近くでこうしたお話ができたというのは、当時30歳代前半の若い研究者であった私にはなんともありがたく、まことに幸福な4日間でした。懐かしく思い出されます。

『日本盲人社会史研究』のことについて、私は1985年に出た4刷をもっていると加藤先生に言いましたところ、「ほぅ、間に合いましたか」とおっしゃられました。なんとも言えぬおかしみのあるご返答ぶりでした。これは、専門書はすぐに品切れになってしまうことをおっしゃっているのでした(実際この本はもはや新刊では入手できません)。おかしみと言えば、この本の最初の口絵写真には、「東京教育大学雑司ヶ谷分校蔵」という検校の服装(紫衣・木杖・燕尾帽子)をした加藤先生が写っておられます。

この本をはじめわれわれに数々の得難い財産を残してくれた先生は、不屈というべき人生を生き抜いて、2002年10月にお亡くなりになりました。73年のご生涯でした。なお、本学図書館には、「加藤康昭さんを偲ぶ会」の編集による「障害者社会史研究の地平を拓くーー故加藤康昭先生の生涯と業績ーーー」が所蔵されています。

「日本盲人社会史研究」(1)

NHKの大河ドラマ「べらぼう」を見ています。NHKHPによれば、「日本のメディア産業、ポップカルチャーの礎を築き、時にお上に目を付けられても面白さを追求し続けた人物こと蔦屋重三郎の波乱万丈の生涯」ということですが、今ドラマの舞台となっているのは、ほとんど蔦屋重三郎("蔦重")が育った花街吉原です。その吉原の上級花魁"瀬川"、 "蔦重"の密かな恋人である彼女を莫大な金額で身請けする人物として登場するのが、市原隼人さん演じる鳥山検校です。この鳥山検校は、盲人に許されていた貸金業で財を成し、贅の限りを尽くしていたのですが、度が過ぎて、幕府から罰せられることになり、検校の位も財産も剥奪されてしまいます。結局は、瀬川とも別れることになります。江戸時代の日本の盲人男性は、ヒエラルキカルな組織、"当道座"をつくっていました。その頂点にあったのが検校位で、それは、大名に匹敵するとも言われました。盲人は、先ほど言いましたように、貸金業を営むことができ、それは幕府の庇護も得たもので、阿漕な取り立ても相当にしており、巨万の富を築く人物もいました。そうした盲人の生業が恨みを買うことにもなっていたことは、落語の怪談噺「真景累ヶ淵」などからもうかがい知ることができます。

『日本盲人社会史研究』という本があります。これは、日本近世――江戸時代の盲人の生活を、史料に基づいて丹念に解明した本で、われわれの研究領域における至宝、不朽の名著です。"当道座" のこと――考えてみれば、こうした組織体及び盲人に貸金業が許されていたことは不思議です――は、この本の中心的なテーマとなっています。1974年に未来社から出されたA5型函入上製本605頁の堂々たる大著です(写真)。鳥山検校のことも、この本にちゃんと記されています。度の過ぎた贅沢ゆえに処罰するという申渡書が引かれていて、「べらぼう」の話が史実であることがわかります。この本の著者は加藤康昭先生。先生は、全盲の人でした。

先生は、もともとは理科系へ進むことを希望されていたようですが、旧制一高時代に失明されたために進路を変え、戦後当時、唯一視覚障害者の受験を認めていた東京教育大学(現在の筑波大学の母体)を受験し、入学されました。しかし、入学後も、種々の差別に阻まれて、希望した進路ではなかったのですが、障害をもつ人の歴史研究の道に進まれたのでした。

私は、東北大学の助手でいた1990年に、所属していた小講座の夏の集中講義で加藤先生に来ていただいたことがあります。その頃の東北大学の教育学部は、教授、助教授、助手からなる小講座制という研究組織をとっていて、助手の仕事の一つに、非常勤講師の方の対応がありました。加藤先生は、私が小講座の主任教授である恩師の松野豊先生(故人)にお願いして来て頂いたので、加藤先生に対応することは願ってもないことでした。4日間行われた講義に参加するとともに、先生ご夫妻を宿泊先のホテルから大学まで送り迎えし、大学食堂での昼食をご一緒しました。(この稿続く)

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『日本盲人社会史研究』の実物:函から出して立てたところ