式辞

令和5年度卒業・修了式式辞

卒業生、修了生のみなさん、ご卒業・ご修了おめでとうございます。昨年、新型コロナウイルスの感染症法上の分類は、ようやく5類になりましたが、いろいろと制限のある学生生活であったと思います。特に、学部卒業生のみなさんは、めぐりあわせとはいえ、入学した時に、新型コロナウイルスのパンデミックとなり、学生生活の半分を、大きな制限の中で過ごさねばならなかったことは、まことに気の毒です。しかし、みなさんは、そうした逆境ともいえる状態の中で、よく学びよく研究し、今日の日を迎えました。その努力に敬意を表したいと思います。また、学長として誇らしくも思います。

さて、パンデミックも収まりつつあるかと思われた今年に入った途端に、能登半島地震が起こりました。人口集中地帯ではなかったためもあって、被害の全貌がすぐには判明しませんでしたが、徐々にその甚大さがわかってきました。発生から2ヶ月が過ぎましたが、いまだライフラインは完全に復旧せず、避難所生活を余儀なくされている方々もまだまだ多くいらっしゃるような状況です。

一方、世界に目を転じるならば、ロシアのウクライナへの侵攻は、いまだ止まず、ガザでは、一般の人たちが、子どもたちも含めて、残酷に追い詰められています。ウイルスや地震のような自然相手ではなく、言葉の通じる人間どうしであるのに諍いを止められないでいます。

こうした必ずしも平穏とは言えない状況の中でみなさんを送り出すのは、まことに残念ではありますが、しかし、考えてみれば、この状況は、これから世に出ていくみなさんが、向き合っていかねばならない世界の課題そのものと言えるのではないかと思います。そこで、ここで、あらためて、整理し、世に出るみなさんに期待することなどを話させてもらいたいと思います。2点ほどあります。

一つ目は、自然と人間の関係のことです。今述べたことで言いますと、ウイルスや地震と人間のことです。新型コロナウイルスのパンデミックが収束に向かう中、そのことにかかわって出された本に『感染症の歴史学』があります。この本の著者は、飯島渉(わたる)さんという方で、青山学院大学の先生ですが、本学のOBです。本学の社会科のご出身で、修士課程まで進んでおられます。この本では、これまで人類を大いに苦しめてきた感染症である天然痘、ペスト、マラリアなどの歴史が取り上げられています。マラリアについての記述の中に、アフガニスタンで献身的な活動をされた中村哲(てつ)医師が、アフガニスタンでもふつうに見られる感染症であるマラリアについて、根絶は不可能なので、感染した時に診てもらえる施設が身近にあることが大切だと考えていたということが紹介されています。人間の命を奪うこともある細菌やウイルスなのだから、天然痘のように根絶・制圧を目指すべきなのではないかとも思うのですが、中村医師はそれは不可能だというところから考えています。飯島さんによると、天然痘は確かに根絶できたのですが、それは例外的で、例えば、天然痘では発疹ができるので、患者の特定が容易だったことや、DNAゲノムを持つウイルスだったので、変異がしにくかったなどの好条件が重なったからだそうです。ウイルスが根絶できないとなると、ウイルスとの共存・共生を考えていくということになります。中村医師が、病気にかかった時に診てもらえる施設が身近にあることが大切だというのは、そういう意味です。新型コロナウイルスと「共生」せざるを得ないポスト・コロナ社会では、「共生」に向けた課題を解決するための努力をしなければならないと、飯島さんは言います。

また、最初に言いましたように、先日、われわれは、大きな地震に見舞われました。地震は、これを根絶することは、まず不可能です。われわれは、「地震に備える」という言い方をしていますが、これは、地震との共存の道を探っていると言ってよいかと思います。今回の能登半島地震は、この備えが充分であったか、改めて検証することを要請しているようにも思います。このウイルスや地震と人間の関係は、自然と人間の調和とも言い換えることができるとも思います。

二つ目は、人間どうしの関係についてです。ロシアがウクライナに攻め入って、3年目となりましたが、戦闘は、いまだ止む気配はありません。ロシアとウクライナは、1991年のソビエト崩壊まで、ともにソビエトに属していた共和国でした。この二つの共和国は、第二次世界大戦ではソビエトとしてナチス・ドイツと闘い、ソビエトは世界で最も多くの戦死者を出しました。その数は、2600万人とも、3000万人とも言われます。この戦死者数には、現在の両国の人たちが含まれています。そうした国と国とが、戦火を交えているというのは、なんとも残念なことです。世界で最大の戦死者まで出して、ナチス・ドイツという巨悪と闘った国の人間どうし、もう一度理解し合えないかと思います。せめて共存ということを認め合えないかと思います。

ソビエトが戦ったナチス・ドイツの行った蛮行の1つが、言うまでもありませんが、ユダヤ人に対するホロコーストです。その死者は600万人とも言われています。そうした蛮行の被害者であったユダヤ人の建国したイスラエルが、テロリストの一掃のためとしても、無辜の人をも残酷に追い詰めているのにはなんとも失望します。身を置き換えてみることがなんと難しいことかと思い知らされます。

人間どうしの繋がりというのが、なんと脆く、また、人間どうしの理解とはなんと難しいものかと痛切に思います。しかし、であればこそ、粘り強く一層努力を重ねていく必要があると思います。戦争が、戦闘行為が、人を殺し、自分を傷つけ、物を壊し、破壊する不毛な人間の行為であることは言うまでもなく、平和を望まない人はいません。とすれば、人間どうし、共存していく道を探らなければなりません。

ダイバーシティと言われ、生物においても多様性こそ重要といわれていますが、現代を生きるわれわれは、自然とも、人間どうしでも、共存・共生の道が求められていると言うべきでしょう。

本学は、教員養成系大学のフラッグシップ大学と自負しており、実際、文部科学省から指定を受けてもいます。そうした本学で学んだみなさんは、教育に関わる領域ではもちろん、他の領域でも、社会の中でそれにふさわしい貢献をなすことが期待されています。みなさんのそれぞれの持ち場で、われわれ人間・人類が置かれている課題現状を意識し、自然との調和、人間どうしの共存を自らの問題として、プライベート空間も含めて考えていってほしいと思います。安全で平和な中で、みな等しく生きることを謳歌できる社会にしていき、そして、そうした社会を子どもたちに手渡していきたいと思います。

ロシアの革命家トロツキーは、「人生は美しい」と言いました。みなさんも、美しい人生を大いに享受してください。そうであることを心から期待していますが、しかし、いろいろうまくいかないこともあるだろうと思います。行き詰まるときもあるでしょう、また、病気になることもあるだろうと思います。そうした時は、本学と本学の教員を思い出してください。私たちは、いつもみなさんを待っています。みなさんの人生が、みなさんらしく、美しいものであることを祈っています。本日はおめでとうございます。ありがとうございました。

令和6年3月19日
 東京学芸大学学長 國分 充

令和5年度入学式式辞

新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。3年間に及ぶコロナ禍、繰り返し繰り返し襲ってくる感染の波の中で、みなさんは、よく学修を進め、今日の日を迎えました。そのみなさんの努力、我慢に心から敬意を表します。東京学芸大学は、あなた方を心から歓迎します。

 さて、私は、障害児や発達の心理学が専門です。発達心理学は20世紀にできた学問なのですが、その発達心理学をつくった人のひとりに、ピアジェというスイスの人がいます。彼は、人間の認識発達を4つの段階に分ける発達理論を提唱しました。その理論は、強力で、現代の発達心理学に、今に至るまで大きな影響を与え続けています。

 そのピアジェが、人間の認識の発達で注目したのが、同化と調節という生物の行う活動でした。これは、もともとは生物学者であったピアジェが、生物学から借用した概念です。生物は、生きていくためには、外界のものをうちに取り込まなければならない、これが同化です。しかし、その同化を行うためには、生物は自らを調節しなければなりません。と言っても、これでは、何が何だかわからないでしょうから、ちょっと説明します。例えば、動物は、生きていくために、食物を外界から取りこみます。この食物を取り込むというのは、食物を吸収できるまで分解消化し、吸収するという過程です。これが同化です。しかし、食物を自らに取り込むには、食物を口に入れてから、固いものであれば、奥歯を使って繰り返し繰り返し噛む、柔らかいものであれば、前歯で噛み切り、そこそこ噛んで飲み込んでしまう、液状のものであれば、歯はほとんど使わず、喉で飲み込む、というように、同化する対象によって、からだの中で使うものを変える、あるいは、からだの中で使うものの使い方を変えるということをします。これを調節といいます。同化が、対象の形を変えることだとすれば、調節は、自分の形を変えることを言います。ピアジェは、生物が、生存のために、繰り返し行っているこの同化と調節という働きに注目し、人間は、認識活動においてもまた同じことを行っていると、見たのでした。

 認識活動における同化と調節がどういうことかを説明しますと、例えば、みなさんが本を読んでいるとします。書いてあることがよくわかるという状態は、みなさんが今もっているものの理解の仕方、すなわち、認識の枠組みで同化できているという状態です。が、書いてあることがわからないといって、これはどういう意味か?と、ああでもないこうでもないと頭をひねっているとすれば、それは、今の自分の認識の枠組みでは同化できず、認識の枠組みをあれこれ変えて、すなわち、調節して同化を試みているということになります。

 ピアジェは、この生きている限り繰り返される同化と調節という活動と、それに加えて、人間の生物学的成長を背景において、人間の認識発達を、蝶の変態のようなものとして描きました。すなわち、幼虫から、さなぎを経て、羽のある成虫に変わっていく蝶の変態のように、非連続的な、おのずから変わっていくような段階ということです。そのため、彼の理論は、発達における成熟を重視する発達理論とも言われます。が、しかし、そうした彼の理論の中に、調節という働きが、発達の重要なファクターとして入っているのは、注目すべきと思います。というのは、調節は、生物の側が自ら(みずから)行う働きで、単なる成熟とは異なるからです。先ほど挙げた例で言うと、ああでもないこうでもないと頭をひねっているというところで、これは、生物が、人間が、外のものを取り込むために、自分の方を変えようと努めているところだからです。

 今日あなた方は本学に入学して、大学生として、大学院生として、スタートするわけですが、そこで、成長していくには、いろいろなものを取り込んでいかねばなりません。あなた方が学ぶそれぞれの学問領域には、先達の残したこれまでの膨大な知見があり、それを取りこんでいかねばなりません。それが、自分の考えを作り上げていく前提となります。みなさんには、是非とも多くのものを取り込んで、自分のものにしてほしいと思いますが、学問的・科学的で専門的な事柄となると、そのまま取り込むことはなかなか簡単ではありません。そのためには、ピアジェの言うように、あなた方自身を変えて、あなた方の認識の枠組みを調節して、取り込んでいく必要があります。これは、人間一般の共通の発達段階を越えることで、それなりのやり方というものがありますが、その方法は、その道の専門家に習う必要があります。

 ちなみに、私が、ピアジェに触れたのは、大学1年の夏休みでした。高校の部活の先輩で、文学部の一般心理学に進んだ先輩に、「発達心理学をやるなら、ピアジェくらいは読んでないと」と言われたのがきっかけでした。それで、ピアジェの『知能の心理学』という本を買い求め、ページを開きましたが、これがまったく歯が立ちません。高校生の時に幾分かは社会科学の本や哲学書にあたっており、それなりに難しい本も相手にしていたのですが、ピアジェの難解さは、そうしたものとはまったくテイストが違って、取りつく島がなく、途方に暮れるという感じで、数ページ読んで放り出しました。ピアジェの著作は、実は難解で鳴るもので、初学者が、いきなり読んでわかることなど到底あり得ないことでした。ピアジェの言っていることが、おぼろげながらも何となくわかってきたのは、博士課程に進んでからでした。学部を終え、大学院の修士課程を修了する数年間のうちに、ピアジェの理解の仕方など教わったことはなかったのですが、私の認識の枠組みが、学部、修士課程と学修する中で、自然と、気づかぬうちに変わっていっていたのだと思います。

 しかし、もし、私がはじめてピアジェの本を手に取った時に、それを理解するための認識の枠組みの調節の仕方を教えてくれる人がいたら、もう少し早くにピアジェを理解することができたのではないかと思います。

 みなさんが入学した本学には、みなさんの認識の枠組みを、専門的知見がわかるように調節するのを手助けする教員が沢山います。それを支援する職員もまた、沢山います。本学の教職員と、そして、今日入学したみなさんの仲間と共に、本学でその調節の仕方を学んでください。そして、専門的な事柄をわがものとして、同化していってほしいと思います。

 なお、ピアジェという人は、19世紀末に生まれた人で、小学生で生物学の論文を書き、19歳で大学を出た、まごうことなき天才でした。20代の頃には、発達心理学者としても、すでに国際的な名声を博していました。第二次世界大戦時には、40代となっていましたが、自伝の中で、「正確なところはよくわからないけれども、スイスは戦争の惨禍をまぬかれた」と言い、「そうかといって、自分の研究を続けることもできなかった」と言っています。1815年のウィーン会議で永世中立国となり、世界大戦に参戦しなかったスイス国民のピアジェが、こう言うのです。世界大戦の影響がいかに広範なものであったか、推して知るべきだと思います。このピアジェの言を俟つまでもなく、平和こそ、戦争を起こさないことこそが、学術の発展の最低の条件です。このことは、われわれ大学に集うものが胸に深く刻むべきことだと思います。ピアジェは、第二次世界大戦中から、ユネスコの設立に関わっています。ユネスコは、第二次世界大戦後すぐの1946年に設立された「国際平和と人類の福祉の促進を目的とした国際連合の専門機関」です。ユネスコ憲章の冒頭には「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」とあります。このように、ユネスコは、2度の世界大戦を経て、「教育や文化の振興を通じて、戦争の悲劇を繰り返さない」との理念にもとづいて作られたものです。今戦火をまじえているロシアも、ウクライナも、ユネスコの古くからの加盟国です。ピアジェの業績、社会的活動を思うにつけても、この2か国が戦争状態にあることは、まことに残念です。一刻も早い停戦を願います。

 繰り返しますが、平和でなければ、戦争に巻き込まれていては、学術の発展は望めません。この当たり前のことに改めて思いを致しながら、今日という、あなた方の人生の新たな出発点をお祝いしたいと思います。本日はおめでとうございました。ありがとうございました。

令和5年4月4日
東京学芸大学長 國分 充