式辞

令和3年度入学式式辞

新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。昨年からのコロナ禍で、通常の学校生活を送ることができない中、よく学修を進め、今日の日を迎えました。みなさんの我慢、努力に敬意を表するとともに、頼もしく思います。

昨年は、新型コロナウィルスの感染が世界中で拡大している最中だったため、入学式を開催できませんでした。昨年の新入生、今の2年生には、なんとも気の毒なことをしたと思います。そのため、本日午後に、1年遅れの入学式を開催することにしています。

昨年は、入学式のあいさつに代えて、本学のHP上に、新入生へのメッセージを記しました。その時取り上げたのが、フランスの文学者・哲学者アルベール・カミュの書いた"ペスト"という小説でした。これは、今から70年ほど前に書かれた有名な小説なのですが、それが昨年の今頃、あらためてよく読まれていると聞いたからでした。これは、ペストが蔓延し、閉鎖されてしまった都市―アルジェリアのオランで、病気に対するに十分な手立てもない中でペストに立ち向かう青年医師リゥーと仲間となったタルーの闘いを描いたものです。この状況が、新型コロナウィルスの感染が広がっている現在の状況とよく似ているために、よく読まれているのだろうと書きましたが、その後、この小説は、刷数を重ねて読まれていると聞きます。

この「ペスト」の著者カミュは、この小説の舞台となったオランの位置するアルジェリア、当時はフランスの植民地でしたが、そのアルジェリアで生まれ、育っています。父は農夫でしたが、第1次世界大戦で戦死してしまいます。そのため、母は、自分の母、カミュにとって祖母に当たる人の家に身を寄せますが、その暮らしは、極貧と言うべきものでした。家を取り仕切っていた祖母は、カミュの靴に長持ちするよう釘を打ち、カミュがセメントの校庭でボール蹴りをして靴底をすり減らしてきていないか、毎日靴を点検したと言います。こうした家計状態ですから、小学校を終わった後に、さらに上級の学校に行くことなど、まったく考えられなかったのですが、カミュの聡明さ、才能に気づき、上の学校に行くことを勧めたのが、小学校の担任であったルイ・ジェルマン先生でした。カミュは、教師との出会いに恵まれていた人でした。このジェルマン先生もその一人です。彼は後にそのころのカミュのことを、「授業を受ける君はいつもうれしそうでした。君は本当に楽しげな表情を浮かべていました。」と言っています。ジェルマン先生は、カミュの上級学校への進学を勧めるため、祖母を説得しようとします。カミュの家を訪ねた先生は、家のあまりの貧しさにたじろぎながらも、戦死者の子弟は奨学金で学ぶことができること、カミュの聡明さなどを話し、祖母を説得するのに成功したのでした。

この出来事が、自分を世に出す最初の一歩となったことを、カミュは生涯忘れませんでした。カミュは、現在に至るまで戦後最年少の43歳でノーベル文学賞を受賞者しますが、その受賞のスピーチを、貧しい境遇でも彼を深く愛し続けた母と、ジェルマン先生に捧げています。そして、ジェルマン先生へ手紙を書き、次のように記しています。「母の次に私の心に浮かんだのは先生のことです。先生がいらっしゃらなかったら、そしてあの貧しい小さな子供だった私に愛情のこもった手を差し伸べ、教えと手本をしめしてくださらなかったら、このようなこと-ノーベル文学賞を受賞するということ-は決して起こらなかったでしょう。私はこのような栄誉を大袈裟にはとらえてはいません。しかし、それでも、これは私にとって少なくとも、先生が私にとってどのような存在だったか、そして今もどのような存在であり続けるのかを告げる良い機会です。先生の努力、先生の仕事、そして先生がそこに込めた寛容な心は今も先生の小さな生徒の一人であった人間の中に生きています。時を経た今も、私は先生に感謝を捧げる生徒です。」感動的な文章だと思います。私は、この文章の中で、カミュが、自分を「生徒」、「小さな生徒」と言っているところがとても好きです。教師というのは、小さな生徒の生涯に、かくも大きな影響を与えるのです。

ジェルマン先生の姿には、カミュが言うように教師という仕事、何をするべきなのかが示されており、そして、教師という仕事の生きがい、やりがいが何であるかも見出すことができます。

みなさんは、それぞれにやりたいこと、学びたいことがあって本学に入学してきたのだと思います、なかにはそれが見つからず、それを見つけに来た人もいると思います。それはそれでいいのです。そうした本学に入学した目的に従って、思う存分活動してください。本学にはあなた方のやりたいこと、学びを助ける条件が整っています。何より本学にはジェルマン先生がたくさんいます。そうした本学の教員と、カミュとジェルマン先生のような一生続く関係を築いてほしいと思います。本学で、あなた方のジェルマン先生と、そして、仲間たちとともに学び、学修したのちには、今度は、みなさんが誰かのジェルマン先生になってほしいと思います。そうした学びを期待しています。ありがとうございました。

令和2年度卒業・修了式式辞

卒業生、修了生のみなさん、ご卒業おめでとうございます。めぐりあわせとはいえ、コロナのこうした年に卒業、修了の年を迎えたこと、なんとも気の毒なことをしたと思います。しかし、そうした逆境ともいえる状態の中で、よく努力して、今日の日を迎えました。その努力に敬意を表するとともに、頼もしくも思っています。

このコロナ禍の中で、よく読まれた本に、フランスの文学者・哲学者、アルベール・カミュの「ペスト」があり、私も今年の新入生へのメッセージで触れたところですが、カミュにはこの「ペスト」より少し前に書いたものに、「シジフォスの神話」という哲学的エッセイがあります。「真に哲学的な問題は自殺である」という有名な書き出しで始まるものです。

その作品タイトルともなっている「シジフォスの神話」とは、ギリシア神話にあるもので、不敵・不遜な男シジフォスは、神々の怒りをかい、罰を受けます。それは、巨大な岩を山の麓から頂きへと運びあげるというもので、しかし、その岩は、シジフォスが岩を山頂まで運び上げるやいなや、神々の力によって、また、麓へと落ちていくのでした。これをまた、山頂へと運び上げるというのが、シジフォスの受けた罰なのでした。こうしたシジフォスの行為に、カミュは、みなさんはもうおわかりと思いますが、「ペスト」が一面そうであったように、人間の人生をなぞらえています。

カミュがこの神話でもっとも関心があるのは、このシジフォスが山を下っていくところだと言います。山を下りていく時間は、「意識の時間」であって、この時は、シジフォスは彼の置かれている悲惨な条件の全貌を考えます。シジフォスは岩を山頂に運び上げるという自分の作業が達成するたびに無に帰し、繰り返し繰り返し未来永劫同じ作業を行わなければならないということがわかっています。この神話が、悲劇的であるのは、このようにシジフォスが意識的であるからだと言います。が、しかし、その一方で、カミュは、シジフォスが自分の悲惨な状態を知っているということが、悲惨さを意識しているという、まさにそのこと自体が、彼がこの事態に打ち勝つことを可能にすると言います。いわく、「どのような運命もそれを俯瞰するまなざしには打ち勝つことができないからだ。」

カミュは、俯瞰することによって、この悲惨な運命に打ち勝つことができるというのですが、この「俯瞰」というまなざしとはどういうことでしょうか。これは、全体の中に自分を置いて、それを一段高いところから一望するようなものの見方ということです。そういう視点に立つと運命に打ち勝つことができるとカミュは言います。

これを少しく敷衍しますと、苦悩のただ中にいる時には、精神は現実、すなわち苦悩と寸分の隙もなく張り付いてしまっている、そうした中では、精神には苦悩しか見えなくなっている。そうした時には、精神は、苦悩の他に、そうした視点しかとれないという、精神の不自由という苦悩も抱えることになってしまっている、つまり、人間は、二重の苦悩を抱えることになってしまっている。その時に、現実の苦悩の方は変えられないとしても、俯瞰するという視点の取り方で、精神の方は自由にできる、二重の苦悩のうちの片方からは自由になることができるということを言っていると思います。

これを確認するかのように、カミュはまた、「不条理を見出したものは、何か幸福への手引きといったものを書こうとせずにはいられない」とも言っています。これは、例えば、重い病気にかかった人が、闘病記を書くというようなことだと思います。これはどういう心の働きでしょうか?。これは、厳しい現実と距離を置き、病んでいる自分とは異なるところに視点をおいてみる、そのことによって、たとえ、一瞬にせよ、苦しんでいる現実から焦点をはずして、心に余裕をもとうとする心の働きのように思います。

つまり、「俯瞰」というまなざしは、それは(意識的な、つまり)意識のある人間だけに可能な、人間だけに許されている視点の取り方です。シジフォス的苦悩は、人間の意識のせいなのですが、一方では、その意識の働きによって救われるということ、つまり、人間は意識的であるがゆえに悲惨であり、意識的であるがゆえに悲惨さから解放され得るということなのだと思います。

この俯瞰するというものの見方は、実は、あなた方が大学で身につけたものです。あなた方が取り組んだ卒業研究、修士論文、課題研究で最初に求められたことは、問題を立てることであったと思います、これは、対象化というものの見方です。これこそが、学的営みの中心にあることです。対象化と俯瞰とは、ものと距離を置くという点で非常に似通ったものの見方です。これを大学での学びの総まとめとして行ってきたあなた方は、カミュの言う「俯瞰」というものの見方になじんでいると思います。学問をすることは、世の中のため、人のためということもありますが、自分のためということもあっていいと思います、それは、自分の好奇心のためというのももちろんありますが、自分の人生を引き受けること、楽しいことばかりではない、シジフォスの業苦のように見える人生を楽にするのに役に立つということがあってもいいと思います。あなた方は、大学で学ぶことによって、シジフォスとして、世に出ていく術の基本をも身に付けたということだと思います。学問には、すなわち、知るという人間の営みには、そういう効用もあるはずです。

今後あなた方は、社会に出て、学生時代に増して、若さを享受し、活躍していくことになると思います。ロシアの革命家トロツキーは、人生は美しいと言いました。いい言葉だと思います。美しい人生を大いに享受してください。そうであることを心から期待していますが、しかし、いろいろうまくいかないこともあるだろうと思います、行き詰まるときもあるでしょう、また、病気になることもあるだろうと思います。そうした時は、自分を現実から引きはがしてみる、つまり、あなた方が大学で学んだやり方である対象化を試みて、俯瞰してみてください。そこで、自分の状況を相対化し、気持ちを新たにして、また、現実の世界に戻っていってください。それでもなかなか大変だという時には、そうした時は、本学を思い出してください。本学とあなた方の先生を思い出してください。大学に訪ねてきてください。大学は、いつでもあなた方を待っています。あなた方の人生が、あなた方らしく、美しいものであることを祈っています。本日はおめでとうございました。ありがとうございました。

令和3年3月19日
東京学芸大学長 國分 充