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放課後の教室

 クイーンズ・イングリッシュを話す人

  先日、僕の部屋の近くに若いイギリス人が引っ越してきた。大学をでたばかりだという、その、ほとんど少年のような容貌の男は、なかなかユニークな人柄のようで、大学の学生寮でみんながせっせと勉強をしている横で、楽しげにアコースティック・ギターをかき鳴らし、共用キッチンでは、散らかしたものを絶対に片付けず、鼻唄で廊下をうろうろしている。あるいはベートーヴェンを口笛で楽しんでいるときもある。そもそも、学生でもない奴が我々の学生寮にどうして住み始めているのかが分からない。とはいえ、いざ話をしてみると憎めない性格の持ち主で、こないだキッチンで偶然会って立ち話をしていたら、話が俄然おもしろくなってしばらく話し込んでしまった。

  とにかく、イギリスにはものすごい数の方言みたいなものがあるんだよ、と彼は言った。イギリス英語はそういういくつもの方言の集合体なんだ。この国にBBC放送っていうのがあるだろう。あそこで使う英語はクイーンズ・イングリッシュっていって、いわば、一番しゃれた英語なのさ。洗練されているということだね。私が、クイーンズって何?と尋ねると、それは決まってるじゃないか、クイーンといえば、エリザベスさ。エリザベス女王が話す英語をクイーンズ・イングリッシュというんだよ。公式な場所で使うならこれだ。それに、これを話せるとインテリジェントな感じを醸し出すことができる。だからそういうのが必要な人はクイーンズ・イングリッシュを使うのさ。じゃあ、大学教授なんかはみんなそれを使うのかい?と尋ねると、いやあ…、奴らの英語はひどいものだな、そういえば。と表情を曇らせた。ちなみに、今、君が使っている英語はクイーンズ・イングリッシュなの?と尋ねると、うーん、そうだな、限りなくそれに近い。僕は北部地方の訛りが少しでるんだけどね。でも、あんた、リバプールって都市を知ってるだろ。あそこの連中なんて本当にひどいものだよ。彼らのような英語を話す奴らを僕らは『スカウザー(scouser)』って呼ぶんだが、あれははっきり言って『英語』とはいえないな。ほとんど別の言語だよ、と彼は冗談めかして言った。

  イギリス英語とアメリカ英語には大きな差異があると、日本人である私たちはなんとなく認識している。大きなこととして、この二つの間には単語の綴り方と発音方法にその違いが明確になっていると思う。英語の辞書を見ると、英国用法とか米国用法などと注釈がついているのをしばしば目にするはずだ。でも、こういった大雑把な区分けの他に、ものすごく多くの用法のバリエーションが英語の世界には広がっているということを彼は伝えようとしているのだった。

  それとは別に、通っている英語学校での印象深い話がある。文法や発音、抑揚に於ける間違いをほとんど犯すことなく、ネイティブ・スピーカーのような英語を話せるようになることを、あなたは目標にしていますか、という問いについて議論していたときのことだった。私はそんなものは土台無理だし、目指すことはないと思った。言いたいことが伝えられて、大きな恥をかかないレベルになればそれで大満足なのだ。しかし、周囲のタイや中国から来ている若い留学生たちは、ネイティブ・スピーカーのように話せるようになりたいと言い出した。まあ、そうなりたいのなら目指せばいい、と私などは短絡的に思ったのだが、そこにいた教師は私とは全く異なる意見を持っていた。女性の教師はこう言った。私はアイルランド出身だから、実を言うと、私の英語にはアイルランドの訛りが混ざっているの。イングランドの英語とは少し違うわけ。そして私はそんな訛りを修正したりはしないわよ。なぜって?そんなの決まっているじゃない、これこそが、私たちがアイルランドに生まれた証になるのだから。もしこの訛りをなくしてしまったら、いったいどうやって私がアイルランド生まれだと言えばいいのよ。ねえ、学生のみなさん、あなたたちは、自分のアイデンティティを捨ててまで、ネイティブ・スピーカーの英語を身につけたいと思っているのですか。ものすごい勢いでまくしたてた後、少し気が済んだのか、一人の学生に、どうしてネイティブのように話したいのかを尋ねた。彼は「だって、そのほうがクールにみえるからですよ。」と答えた。「まあ、そういう考え方もあるかもしれないわね。」と彼女。

  女性教師は、それ以上、その議論を深めようとはしなかったが、まだ言いたいことがたくさんあるようだった。日頃から深く考えている何かが彼女の心の中にはあるのだろう。それにしても、発音にアイデンティティや誇りを持つ…。私には発想したことのないことだった。日本人が英語を話すときに日本人らしさを出すということが、できるのかどうか分からない。複数の国で話されている英語とほとんど一つの国だけで使われている日本語を比べるのは簡単ではないようにも思うが、とにかく、その女性教師の言葉が私の心にずっと残っている。

  ところで、英語はもはや国際的な言語となっていると言ってもよいと私は思う。だが、それがために、もはや「本物の英語」などというものが定義しにくいのも事実かもしれない。多くの人が使えば使う程、それぞれの話者の癖のようなものが同時発生的に顕在化し、辞書に載っていないような単語も次々と生まれてしまう。英語を母国語とする、イギリス人やアメリカ人の発音などいうものでさえ、ひどく曖昧なものだ。そもそも、この場合、イギリス人やアメリカ人とは誰のことなのか。さきほど出てきた『スカウザー』と呼ばれる人は、イギリス人とは別ものなのだろうか……。私は、自分の学んでいるものが恐ろしく曖昧で掴みどころのないものであることに少し驚いてしまった。アイデンティティ……。大事にしたほうがよいのかもしれないが、それをどう個人的に定義すべきか難しい。海外での生活が続けば続く程、それが何なのかを考える機会にはよく巡り会うけれど、肝心の答えのほうはどこかどんどん遠くの暗いところへ逃げていってしまうような気がする。いったい私はどんなアイデンティティを持てばいいのだろう、もしくは、持つべきなのだろう。こんなことを書いてしまうと馬鹿にする人もいるかもしれないけれど、それが明確になっていない人や、敢えて明確にしていない人は意外に多いのではないだろうか、と私は思う。

  そんなことをつらつらと考えていると、例のイギリス人のものすごい馬鹿笑いがドア越しに聞こえてきた。テレビか何かを見ているらしい。今日も彼はご機嫌らしい。ただ、これが果たしてクイーンズ・イングリッシュ風の笑い方なのか。それはちょっと分からない。ガハハハハ……。

▼Vol.3の原稿が届きました!イギリスで勉学に励む桐山さんへメッセージを!

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桐山 岳寛
Takehiro Kiriyama
1981年生まれ。2003年に東京学芸大学卒業。会社勤務の後、11年よりモンゴル・ウランバートルにてグラフィックデザイン教師として活動。13年からは英国の大学院でデザインを学んでいる。

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