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飛行機雲

ベイパー・トレイルを仰いで

  何本もの柔らかい白のラインがこの大きな空を不器用に分断する。描かれたばかりのくっきりとしたそれらは次第に形を曖昧にし、やがて青色の向こう側へと染み込んでいく。気がついたときにはもう、それらは完全に姿を消し、新たな別のものによって上書きされていたりする。飛行機雲の人生は、人間のそれに比べて短く儚い。

  ヒースロー空港へと急ぐ人々や、ロンドンからどこかよその遠い国へと向かう人々を乗せた旅客機が上空を飛び交う。私の住む街は相当な数の飛行機雲を仰ぎ見ることのできるユニークな場所で、いつもどこか不自然な空の模様を体験することになる。

  祖国の空を見ながら、家族のもとへと急ぐ青年がいる。恋人のもとへと向かう女性はもやもやした思いを振り切ろうと雑誌を読み始める。困難な交渉を任されたビジネスパーソンはプレゼンテーションの準備に疲れ、ふと目を閉じ座席に身を静かに委ねる。隣合わせた席で老夫婦はどんな会話をしているのだろう。そういったいくつもの取り留めもない小さな物語を詰めて、それらは私の遥か頭上を静かに通り抜けていく。私などに気付く気配もなしに。ウェールズやアイルランドの方角へ向かう旅客機もパリやサンクト・ペテルブルグに向かうそれらも、私には同じに見える。だから、そんな小さな物語の数々を全く関わり合いのないこととして知らぬふりする。それらはやがて飛行機雲と一緒に青い宇宙の彼方に飲み込まれていく。私には私の、時間をかけて悩むべき物事があるのだから。

  その過程の全てを見届けるほどの時間があったなら。もっと正確に書くならば、何時間も黙って空を眺めていられるほどの心の広さが今の私にあったなら、この広大な芝生に寝そべっていたいと思う。飛行機雲が生まれ、死に行く様子を。入り組んだ何本もの白い線がゆっくりとほどけていくプロセスを。そしてそれらが元に戻るようなことは決してはないという摂理のようなものを。近くの雑貨店で買ったショートブレッドか何かをつまみながら、ぼんやりと望む。

  表題の「ベイパー・トレイル(Vapour Trail)」は日本語としては定着していない言葉だと私は思う。飛行機雲を指す。片仮名で書く意味など全くないのだけれど、きまぐれで書いてみた。なんだろうと思ってこの雑文を読んでくださった方もいるかもしれない。一方で、胡散臭い訳の分からない英語に辟易している人を遠ざけてしまったかもしれない。私も正直に言えば、以前からこの語を知っていた訳ではなく、さきほど調べて初めて知ったばかりなのだ。べつにこんな単語を知らなくても私たちは十分に人生を謳歌できるはずだと知りつつ、けれども知っていれば、それもまた別の人生を歩む契機になるかもしれないと浅はかな期待をも持っている。

  イギリスの夏は夜遅くまで日が暮れない。真夏なら、午後10時はまだ明るい。ドラフト・ビールが好きな人にはうってつけの季節だと言えよう。パブのテラスで楽しむ時間は何物にも代え難いと信ずる人々もいるのではないか。残念なことというべきか、私には日常的にビールを飲む習慣がないので、それほどこの明るさを満喫するまでには至らなかった。そしていま、9月を迎えて日没の時間がずいぶん早まっていることにふと気付く。寒い季節が少しずつ少しずつ忍び寄ってきているのだろう。緯度の高い地域は、年間を通して日照時間がめまぐるしく変化する。あるまとまった時間を過ごすと初めて分かることだが、その急激な変化が不気味に思えるほどだ。以前、生活した都市もおよそ同じような様子であったことが、なぜか今になって鮮明に思い出される。そのときに過ごした多くの人々のポートレートとともに。

  私が今この地域で見る空は ‘突き抜けるような’ 鋭さがなく、どこか物憂げな、ぼんやりしたものに見える。形のないものに鋭さといった物質的な言葉はきっとそぐわないのだけれど、それでも私はそう書きたい。イギリスの空には、もしくは、この街の空には鋭さがない。どこまでも穏やかで、優しくて、どっちつかずな人のいい表情をした不甲斐なさを私はそこに見る。好きとも嫌いとも言えぬ気持ち悪さをそこに感じ、私は、自分の姿をそれに重ね合わせてみた。

  飛行機雲によって、青い空が勢いよく引き裂かれていく。それを終いまで見届けることなくその場を後にする。所詮、あとに残るのはぼんやりした淡い青色( Pale Blue )だけなのだと思うことにして。

▼Vol.007の原稿が届きました!イギリスで勉学に励む桐山さんへメッセージを!

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桐山 岳寛
Takehiro Kiriyama
1981年生まれ。2003年に東京学芸大学卒業。会社勤務の後、11年よりモンゴル・ウランバートルにてグラフィックデザイン教師として活動。13年からは英国の大学院でデザインを学んでいる。

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