森尻有貴 先生
Vol.8
教職大学院 教育実践創成講座(音楽教育サブプログラム担当)

先生の専門について教えてください。

 専門は音楽教育学です。東京学芸大学に来る前はイギリスで音楽心理学と言われる分野の研究をしていて、帰国後はイギリスの音楽教育を改めて日本からの視点で研究しています。
 音楽心理学というのは、どのように楽譜が読めたりピアノが弾けるようなるのかなどの認知的なことから、音楽を聴くとどういう気持ちになるか、好きな音楽はどうやって決められているのかなど、幅広い分野があります。そういった、心理学的側面で音楽教育学を研究し、その中でも私は主に評価の研究をしていました。自分の演奏や自分が良いと思ったものを、果たして他の人が良いと思うかどうかについて研究しました。

この研究に興味を持ったきっかけはなんですか?

 大学の試験やコンクールで、自分の芸術的な行いが評価を受けた時に、自分では「すごく良く出来たな」と思っても、人から「全然」って言われたりとか。あるいは演奏会に行った時に、自分が「この演奏はすごく良い」と思っても、他の人はそう思っていなかったり。私たちは良い演奏や良い音楽というのをどうやって理解しているのかなって、自分が演奏していて思ったんですね。
 先生が言うことと自己評価が違う場面が沢山あって、同じ事象をどのようにとらえているのかずっと疑問に思っていたので研究してみようと思いました。

大学時代からこういった研究をしていましたか?

 みんなは「先生になりたい」とか「お医者さんになりたい」とか職業のイメージから大学選びをすると思うんですが、私は17歳ぐらいの時に「人が音楽を出来るようになるっていうのはどういうことなんだろう」と考えていました。
 例えばピアノのレッスンで、私がいつまでたっても出来ないところを一週間くらいで出来てしまう子がいたりして、人と差を感じる経験がよくありました。それで、この差は何から生まれたんだろう、練習の仕方なのか時間なのか、それとも才能なのか。楽譜を読めない人たちが楽譜を読めるようになる経験をした時に、人が音楽を出来るようになることが一体どういうことなのか。そういう勉強したいなと思い大学に進みました。
 大学では、音楽はもちろん、教育心理学や教育哲学など色々な勉強もして、その中から今の研究を見つけました。

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音楽心理学はどういう場面で役に立ちますか?

 例えば、授業の中で歌や楽器の演奏の試験がありますが、最初に演奏する人と最後に演奏する人、どちらが良い評価をもらえるかは研究で分かっているんですね。私たちは順番に評価していく時に、後ろの方の人を比較的良く評価してしまうんです。人間が評価していることもあって、様々なバイアスがかかることがあるので、順番や条件に対してなるべくバイアスを無くしてみんなのことを評価しようと心がけていますね。自分に立ち返ることが出来るのは、実生活でとても役に立っています。

音楽に関する研究をしていて楽しいことはなんですか?

 やっぱり、音楽家の方々と音楽のある生活ができるということですね。実験であっても演奏してくれる曲は素晴らしく良かったり、音楽に対して色々な話をしてくれたり...。音楽と人が一緒にある環境で研究できるところがとても楽しいです。

イギリスと日本で大きく違いを感じたところはありますか?

 イギリスは結構個人主義で、一人一人独立しているので、それは心地よかったんです。生活していて驚くことや困ることはあるのですが、イギリスでの生活に馴染んでしまって、日本に帰国した時のほうが大変でした。
 すごいって思うのが、電車の前でみんな並ぶこと。でも逆に融通が効かなくてイライラすることもあったりします (笑) 。
 日本って世界的に見たら『親切な国』って言われてるんですけど、私は「うーん...」と思うことがあって。イギリスは日本よりも色々と不便なところが多いんですが、その分人が助けてくれることも多いです。例えば、駅にエスカレーターもエレベーターも無い時、大きなスーツケースを一人で持って長い階段を上がろうとすると、必ず誰か手伝って持ってくれて、実際そんなに苦労しないんです。でも日本では、例えば、杖を付いた人が目の前にいてもみんな知らんぷりで、席も譲らずに寝たふりしてる人がいるっていうのは、すごい冷たい社会だなって思って。日本は親切でホスピタリティのある国と言われているのに、そういう光景をみると優しさや人を思いやることの概念ってなんだろうって。イギリスから日本に帰ってきて考えさせられるようになりました。学力に関してもそうで、優秀だっていうことが日本とイギリスで全然違ったりすることもありました。

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イギリスでの音楽セッションの様子(写真提供:VCM foundation)

イギリスでの「優秀さ」ってどんなものなんですか?

 例えば、日本だと大学に入るにはセンター入試の一発勝負でのペーパーベースの試験がありますよね。勿論イギリスでもそういった学力の試験はあるんですけど、他にもどれだけ社会貢献活動をしていたか、クラスの中でどのような役割を果たしてきたか、ディスカッション能力がどれだけあるのかなど、自分ができることをアピールできる社会なんですね。そうすると、例えば数学が苦手でも「発想力では負けません!」というような人が損をしない社会で、その人なりに活かしてもらえる場所があります。 
 音楽においても、日本では暗譜するのが試験とセットになっていることが多いのですが、イギリスの試験だと楽譜を見ても良く、暗譜することを重要視していない試験もあります。音楽に求められている能力の違いに気づき、色々なことを考えるきっかけになりましたね。日本で良いと言われるものが、イギリスでもそのまま通用するわけがなく、向こうで勝負するには向こうの社会の価値観で勝負しなくてはいけないとわかったときに、面白さを感じました。

イギリスの教育で日本に取り入れたいことはありますか?

 沢山あって、日本に帰ってきてイギリスの音楽教育の研究を始めたのはそういう目的もあります。どうしても日本の教育学部だと、日本の学習指導要領に添うのが教職課程としては当たり前のことなんですが、世界にはそれだけじゃなくたくさんの異なる学習へのアプローチがあります。イギリスはクリエイティビティと独自性が音楽教育にも反映されていて、早くから創作とか即興が義務教育の中に入っていた国なので、そういう発想は日本でも積極的に取り入れていけたらいいですね。

イギリスの音楽の授業ってどんな学び方なんですか?

 よく、楽譜がない状態で音楽の授業をすることがあるんですよ。日本では教科書があって音符が書いてあるというスタイルが長年浸透しているので、先生も生徒も自由すぎると逆に不自由に感じてしまったり、不安になるかもしれません。でもイギリスにはそういう感覚はなく、体育館で音楽の授業をするのを見た時には、何も持ち合わせていなくても出来る、音楽の楽しみ方の可能性を感じました。
 それから、日本では主要五科目に比べて音楽や美術はあまり勉強としてみてくれないところがありますが、イギリスでは芸術はれっきとした一つの学問として学校の中でも扱われています。音楽家や芸術家、詩人などは社会の中で重要な教養のある大切な人材として位置づけられているというのが、文化的な国としては誇らしいことなんだとも思いますね。

東京学芸大学でどんな授業をしていますか?

 初等音楽科教育法や中等音楽科教育法といった、音楽教育の授業を持っています。大学院だと、音楽心理学の研究とか、英語の文献をどう読み解くかとか、音楽教育の研究法などもやっています。
 A類の初等音楽科教育法の授業だと学習指導要領に則ったものが多いんですけど、他の授業ではイギリスの教材を紹介したり、演習をやったりします。あとは、他学科の学生には、海外のビデオを見せて紹介したりしています。本当は他学科の学生にも海外の教材を見せたいんですけど、日本の学習指導要領を全部やるだけでも追われちゃうので、なかなかそこまで広めてあげられないのがちょっと残念かな。

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趣味や癒しはありますか?

 趣味はあんまりないんだけど、スヌーピーが好きです!見た目がかわいくて癒されるので、大変なことがあるとギュッとしてます(笑)。スヌーピーだけじゃなくて、ムーミンとかピングー、クマのプーさんとか、あとはピーターラビットとか、物語を読むのが好きです。実は大人が読むとすごく面白いんですよ。そのキャラクターが持っている世界観やメッセージが素朴なようで、すごく真髄を突かれることが多いです。イギリスの子供向けの文学って意外と残酷で、皮肉が入っていて、現実的で、全然子供だましじゃないんです。
 あとは、洋画を原語で見ることも好きです。昔は字幕で見ていたんですけど、今は字幕なしでも分かるので作品の面白さが増しました。「この場面でこの表現を使うんだ!」っていう発見がすごく面白くて、本も原書で読んだ時にしかわからない言葉のニュアンスが昔より分かるようになったことが、自分の人生を豊かにしてくれたと思います。日本にいても普段から英語のものには触れるようにしています。

学芸大生に一言お願いします。

 そうだなあ、余計なことをする余裕を持ってほしいですね。学芸大に来る人たちは処理能力も高いし、品行方正で真面目な気質の学生さんが多いと思う。だから、進路や単位のために一番コスパのいいやり方で突進していくという感じで、頭がいいからそれが出来てしまうんですよね。
 目的があってそれに邁進していくことはすごくいいと思うけれども、もしかしたらその近くに魅力的なことや楽しいことがあって、自分の知見をもっと深めてくれるかもしれない。学生時代ってそんなリーズナブルに過ごさなくても許される余裕がある時だから、余計なことをやってみようという挑戦心を持ってほしいなって思います。今しかできないことを謳歌するのも長い人生の中ですごく素敵なことだと思います。私もイギリスに行ったのは研究するためだったけれども、研究以外にも挑戦して色々なものを得られた。わざわざ海を渡ってイギリスまで行って、その経験がなければ今の自分の人生に無いものが沢山あったなって思うから、そういう伸びしろを楽しんでほしいと思いますね。

取材/米田百花、虫谷涼香

森尻有貴 先生

Profile

森尻有貴 先生

東京学芸大学教育学部卒業、同大学院教育学研究科修了、お茶の水女子大学大学院人間文化創成科学研究科(博士後期課程)退学。UCL Institute of Education, University of LondonにてPhD取得。中学校音楽科講師、ヤマハ音楽研究所研究員、ロンドンの幼稚園でのMusic Specialist等を経て、東京学芸大学へ。音楽教育を音楽心理学の側面から研究する傍ら、帰国後はイギリスの音楽教育の研究も進めている。