2020年アーカイブ

「ふれる・もつ・かんじる」展

本学の"東京学芸大学「ふれる・もつ・かんじる」展実行委員会"が、文部科学大臣の「障害者の生涯学習支援活動」に係る功労者表彰を受けました。12月8日には表彰式が行われる予定です。

「ふれる・もつ・かんじる」展というのは、10年ほど前(平成22年)から行われており、金子亨先生(現名誉教授)の洋画研究室の卒業生の方が、小平特別支援学校の武蔵分教室に勤務したのを機縁として、金子先生、洋画研究室の学生が分教室の重度重複障害をもつお子さんたちと始めた造形活動がもととなっています。その後、小平特別支援学校だけでなく、清瀬、小金井、田無の都立の特別支援学校も加わり、また、参加する本学の教員・学生も、金子先生のご退職後、洋画研究室を引き継がれた花澤洋太准教授と研究室の学生が中心となり、その他にも、特別支援の村山拓研究室、物理学の小林晋平研究室、美術教育学の笠原広一研究室と広がっています。

活動は、最初は展示が中心だったと思いますが、今では、授業実践ワークショップや障害を有するお子さんたちとの交流会や、学生が主催する地域の方々やお子さんたちとの造形活動のワークショップなども行っていて、活動にも、広がり、深まりが見られています。展覧会には例年200名以上の人たちが来てくれていると言います。

当方、始まった当初は、小平特別支援学校の学校運営協議会の委員をつとめていたこともあって、会場である芸術館にかかさず見にいっていました。障害の重いお子さんが、手に絵の具をつけて先生と一緒に画用紙と格闘したものの中には、ボクシング・アートの"ぎゅうちゃん"もさながらの力強く躍動的な絵というか、表現もあり、そうしたものを見るのは、なかなかに楽しいものでした。このところ、残念ながら行けていないのですが。

この活動の特色は、この活動が特別支援関係の学生、教員から始まったものではなく、また、そうした人間たちによって担われていたものではなくて、美術を専門とする学生、教員によっていたということにあると、私は思います。これは非常によいことで、この点にこそ、現在のような活動及び参加する人間の広がり、活動の総じての展望というものも出てきたように思います。今後も多くの人たちを巻き込みながら、活動の幅と深みとが一層増していくことを期待しています。「ふれる・もつ・かんじる」展が開催されるのは、毎年この時期です。この学長室だよりをお読みいただいた方々には、コロナが明け、また、この催しが開かれた時には、ぜひとも訪れていただきたく存じます。

(花澤先生が活動の写真を送ってくれました、雰囲気をお感じください。なお、障害者のアートでは、自閉症を有する人たちの細密画とも言えるような表現がよく知られており、有名な人には、イギリスのStephen Wiltshireさんなどがおり、我が国の山下清さんー"裸の大将"―もそうした人の一人です)



1.ワークショップ後の写真撮影(2018年)
(花澤研究室と小林研究室の学生:左端は花澤准教授、右手黄色の服が小林准教授)

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2.作品展示のようす(2019年、芸術館工事のため美術棟ギャラリー)

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独ソ戦―絶滅戦争の惨禍―

「意外や意外、日本の国内で独ソ戦のことを知りたいという人が実は大勢いたんですね」というのは、朝日新聞の夕刊で10月末に5回にわたって特集していた"独ソ戦を考える"の最終回の冒頭で紹介されている池上彰さんの言葉です。2020年の新書大賞を取った"独ソ戦"(大木毅、岩波新書、2019年)に触れて言っているもので、この特集もそれを受けてのものでした。私も池上さんにまったく同感です。私などは、専門でソビエトの心理学を勉強し、行ったことのある外国は、ソビエト及びロシアだけという人間ですので、こうした本に関心をもつのは当然としても、一般の人の関心の対象となるとは到底思いませんでした。それが大賞を取ったと聞いた時には、へぇー!?と思ったものです。

というわけで、"独ソ戦"は、昨年、出た当初に買って読むことは読んでみました。が、内容は、本格的な戦史・軍事史で、当方、地理的思考が苦手なため、記述の中心ともなっている作戦の内容がよくつかめないため、よき読者にはなれませんでした。しかし、そのなかで強く憶えていることは、"世界観戦争"という言葉です。ナチス・ドイツにとって、この戦争は単なる地政学的な陣取り合戦ではなく、共産主義者を抹殺しようとする"世界観戦争"=絶滅戦争であったということで、彼らのユダヤ人政策と同根のものであったということです。私は、レニングラードの900日の包囲戦―100万人近くの餓死者を出した都市封鎖など、ナチス・ドイツはなぜすぐに突入占領しなかったのかわからなかったのですが、"軍事的合理性"を越える絶滅戦争だったんだと言われてはじめてわかりました。また、独裁者の思い込みや、重要な局面で自らの不利な状況を理解しなかったことなども数々示されていました。こうしたことで、一体何人の犠牲者が出たことかと思うと、暗然たる思いにかられました。スターリンが、ドイツが侵略してきて来たことをしばらく信じなかったというのは割と知られていることでしたが、ヒトラーも、英仏の対独宣戦を聞いた時には「さて、どうする?」と呟いたそうです。

ロシアに行くと、第2次大戦に関連するモニュメントに沢山出会います。これは、やはり、3000万人とも言われる世界でもっとも多くの犠牲者を出した国であるが故のことだと思います。独裁者の間違った判断に起因する死であっても、ひとりひとりの死の重みは変わりません。ソビエト時代、極東のハバロフスクを訪れた時には、戦死者の名を刻んだ巨大なモニュメントの前に、その死を悼む"永遠の火"がともされており、現地で選抜されたという高校生たちが数名直立して番をしていました。3月でしたが、あちらはまだまだ真冬で、雪も積もっており、粉雪の舞う曇天の下でしたが、選ばれたという誇りがうかがえる堂々とした顔つきでした。今どうなっているのかと思い、ネットで調べてみたところ、もはや火の番をする高校生はいないようでした。ちょっと残念な気がしました。