2020年アーカイブ

隔世の感、、、

新しくできた公益のホールでの集会に車椅子の人を介助して入ったところ、あとから守衛さんが追いかけてきて、「そういうので入られると困るんだよね、床に跡がついちゃって。ほらこれ、ここも。」・・・。やはり車椅子の人と東北地方を旅行している時に、駅の乗り換えで、エレベーターを使わせてほしいと駅員さんに頼んだところ、「こういうことは前もって言ってもらわないと困るんだよね、急に言われてもね・・・」。エレベーターと言っても障害者用のものなどありませんから、荷物運搬用です。これは、40年近く前の私の経験です。

今年はオリンピック・パラリンピックが東京で開催される予定でした。このオリンピック関係の報道では、パラリンピックのことが必ず合わせて言われ、「オリ・パラ」と略されたりもしています。パラリンピックは、長らく注目を浴びずにきたのに、今では、必ずオリンピックと合わせて言われる、これは、上で述べました40年前の光景からすると、隔世の感があります。これは、障害に対する世の中の見方・意識が変わってきたことを物語っており、よいことだと思います。(このことは、4月に教育新聞の取材を受けたときに、昨今の障害者をめぐる意識の変化としてお話したところです、上に記したことやオリ・パラのことは記事にはなりませんでしたが)

8月24日の朝日新聞朝刊に「特別支援学校開校相次ぐ」というタイトルの記事が1面に出ていました。全国で36校、東京では6校開校予定だそうです。専門的な支援教育を望む保護者が増えたなどの理由で、支援学校に通う子どもはここ10年で2割(2万7千人、9割は知的障害の子ども)増えており、深刻な教室不足が背景にあると言います。確かに、教室不足は深刻で、私が都の特別支援学校の実習の巡回等をしていた時(もはや10年近くも前になりますが)でも、特別教室を全部つぶし、通常1学級の教室を2つに分けたり、それでも足りず、校庭に校舎を立てている学校もありました。

私が1回目の大学4年を迎えた年は(次の年も4年生をやりました、留年したわけです)、昭和54年で、特別支援関係者の間では、「54義務化」として知られる年です。障害を有するお子さんの学校として、盲学校、聾学校は戦後すぐに都道府県の設置義務、就学義務が法令化されたのに対し、知的障害や肢体不自由、病弱のお子さんの学校である養護学校についてはそれが遅れ、昭和54年度(1979年度)にようやく義務化されました。これを「54義務化」と言っています。これによって、養護学校が全国につくられ、対象の子どもたちが通うようになります。この義務化に対し、障害者団体の中には、障害児も地域の学校で受け入れを図るべきで、養護学校を設置して子どもたちを就学させることは、差別の固定化につながるということで、養護学校を批判し、義務化に反対する映画が作られたり、地方から当時の文部省まで反対の行進が行われたりしました。

こうした当時のこと-養護学校をつくるということにあんな反対運動があったこと-を思い出すと、今、特別支援学校が増えているということには、やはり、隔世の感を覚えます。上のような経験をし、義務化に反対する運動のあった40年前と異なり、「オリ・パラ」という用語が広まっている現在、特別支援学校に行く人が増え、それに応じて特別支援学校が増えていることは以前とは異なる意味をもち歓迎すべきことと思います。

広島、長崎、そして終戦の日に

「もはや、この惨状に対して、あらゆる語彙が今日限り私にとって無力になった」とは、長崎に原爆が投下された次の日に、軍の報道部員として現地に入った詩人東潤氏の言葉です。8月8日朝日新聞の夕刊(被爆地ルポルタージュ 苦悩と葛藤)で紹介されていました。「爆心地近くで呆然とする30歳近くの女性のもつバケツには、女の子の首が入っていた。」という文章に続けて書かれています。「アウシュヴィッツの後で詩を書くのは野蛮だ」というアドルノの言葉と響き合うようです。

昨年9月、広島で学会があって、原爆資料館をはじめて訪ねました。展示されているもの、ひとつひとつが重いものでしたが、訪ねたちょうどその頃、企画展として、原爆を被災された市民の方々が、被爆直後の様子を描いた絵が展示されていました。これは、当時の状況を記録した写真などが十分ないため、絵で記録を残して行こうという試みということでした。描かれている内容は、どれも胸塞がるようなものでしたが、特に強く印象付けられたのが、亡くなったモンペ姿の女学生の遺体が川に浮いている、海の方に流れていくかと思っていると、また元の場所に戻ってくる、気の毒に思って、海の方に押し戻したりするのだけれども、気持ちが残っているのか、翌日にはまた川を漂っている、そうしているうちに遺体が崩れていく、手首がなくなり、足首がなくなっていき、最後には首が落ちてしまう、そうなったところで、あまりにも気の毒だと思い、引き上げて葬ってあげたという経験を、経過を追って何枚かの絵で描いたというものでした。凄惨な出来事を、描いているタッチは素朴で、それだけに一層、そくそくと事柄の不条理が伝わってくるようでした。

広島で被爆直後に、「言語に絶する人々の群」を見た原民喜(のちに自死)の小説「夏の花」にふれて、中川成美氏(立命館大学特任教授)は「非戦闘員である普通の人々にくだされたあまりに過酷な運命のありさま」と、書いていますが(朝日新聞2020年8月12日夕刊、心を蝕み続ける不条理―いま読むべき戦争文学)、強く共感するところです。戦争ではこうした事態になってしまうということを、子どもたちの心に届くように伝えていくのは大人の、教師の仕事だと思います。