学長室だより

アレサ・フランクリンの"Ain't no way"

アレサ・フランクリンを主人公とした映画"リスペクト"が、ジェニファー・ハドソンの主演で上映されることが新聞に出ていました(朝日新聞夕刊2021年11月11日)。アレサ・フランクリンといえば、クイーン・オブ・ソウルとも言われる圧倒的な歌唱力で知られているミュージシャンです。演じるジェニファー・ハドソンも、モータウンのシュープリームスをモデルにした"ドリーム・ガールズ"のエフィ役(悲運の実力派歌手フローレンス・バラードがモデル)でデビューし、主役のビヨンセ(ダイアナ・ロスがモデル)を食ってしまったとも言われた実力派で、さもありなん、もっともなキャスティングと思いました。

アレサ・フランクリンは数々の名曲を残していますが、その一つに"Ain't no way"という曲があります。私が博士課程の院生でいたころの頃のことです。もはや30数年前になりますが、その頃はどこへでも車で移動していていました。東京近郊での研究会が終わって、夜、東北自動車道を仙台へ向かって走っていました。いつものようにカセットテープで音楽を聞きながらの運転で、聞いていたのはアレサ・フランクリンのアルバム"Lady Soul"。その中に"Ain't no way"がありました。これまでも何度も聴いていたもので、いい曲だとは思っていましたが、それが、その時には、これまでとまったく違って聴こえてきたのです。音のひとつひとつが、身体の隅々までしみ込んでくるというか、身体全体が曲に浸されるというか、感動というより、何か強烈なものに打ちのめされたというような感じで言葉も出ないというような状態になったのです。

いやいやこれは運転しては危ないと思い、カセットを止め、直近のPAに車を止めて、あらためて、初めから聞いたのですが、それはいつもの"Ain't no way"で、先のような感覚は、残念ながら、戻ってきませんでした。

こうした体験が特に印象深く残っているのは、ちょうどその頃、同じような体験をした人の文章を読んだからです。それは、村上春樹さんで、彼の小説は私には難度が高く、読んだことはないのですが、その頃、彼が週刊朝日に書いていたエッセイは、雑誌をとっていたこともあり、毎週読んでいました。その中で、疲れて疲れての疲労困憊の中、無理をして、ジャズを聞きにいったが、ともかく眠くて会場ではずっと寝ていたのだけれど、あるプレーヤーの演奏するところで、目が覚め、その時には、身体全体の細胞が音楽にひたされ、疲れがそぎ落とされ、活性化されるように感じたというような体験を書かれていました。

考えてみれば、私も研究会の発表準備でかなり疲労している中での出来事で、身体的には村上さんと同様の状態にあったと思います。とすると、こうした体験が生じるこちら側の条件としては、何か疲れているということがあるように思いますが、それに何かプラスするものがあるように思います。私の場合、ある種の達成感というのか空白感というのか、そうしたものがあったようにも思います。村上さんの場合には必ずしもそうでないように思いますが。

この村上さんのエッセイについての記憶があいまいなのが気になって、本当のところはどうだったのか調べてみました。新潮文庫に"村上朝日堂はいかにして鍛えられたか"があり、その中の"音楽の効用"というタイトルのものがそれでした(日付はわかりませんでした)。ふたつのエピソードが書かれており、私の記憶は、そのふたつが混ざったようなものとなっていました。ひとつは、クラシックで、リヒテルのブラームスの2番のピアノ協奏曲を聞いた時に、「細胞の隅々にこびりついていた疲弊がひとつひとつひっぺがされるみたいに取れて、消えていった。僕はほとんど夢見心地で音楽を聴いていた。...曲が終わったあと、ほとんど口をきくこともできなかった。」と書かれています。もう一つは、ジャズ・セッションで、これはだいたい私が書いたとおりでしたが、目がさめたプレーヤーとは、アルト・サックスのソニー・スティットという人でした(私は知らない人です)。また、村上さんは、そういう素晴らしい体験はしょっちゅうできるわけではなく、何年かに一度しか起こらないと記されていました。まことに残念ですが、私が車を止めてあらためて聞き直してもそうした感覚が起こらなかったことと一致するようにも思います。ただ、村上さんのように数知れず音楽を聴いている人でもそうだとすると、私にはもはや起こらないことかもしれません......。

追加で。
"リスペクト"にはHPがありました。以下です。
映画『リスペクト』公式サイト

「日本の小学校教師の肩から英語を下ろそう」。

大分前のこととなってしまいましたが、JETプログラムで来日して愛媛県の小中学校でALTを勤めたアメリカ人のローラ・カッツさんが「小学校の英語教師―日本人の専任も増やして」というタイトルで、朝日新聞の「私の視点」の欄に記事を載せていました(朝日新聞7月22日朝刊)。

彼女は、来日して、日本の小学校教師の多様な仕事ぶりに驚いたと言います。アメリカの学校では体育の教師は別にいて、子どもはカフェテラスで食事をし、清掃は清掃員が行うのに対し、日本の教師は、こうしたことの他、課外活動や運動会などの行事にも膨大な時間を費やしているとし、さらに、彼女の見た教師は、歯がきちんと磨けなかった子供がいて、それに対して親から苦情が来て、それにも対応していたそうです。こうした状況の中で、小学校5,6年で英語が教科となったことは、すでに多くの責任を背負っていた教師たちにとって大変なことだったとし、その中で、日本政府がALTとして「輸入」した自分たちのようなネイティブスピーカーはそれなりの役割を果たしてきたけれど、しかし、自分たちは、子どもの「お手本」にはなれないと言います。つまり、ネイティブが英語を話せるのは当たり前で、自信と熱意をもつ日本人の教師―日本人でもここまで英語を話せるという「お手本」となる日本人の教師が必要だと指摘しています。そのため、政府は予算措置を講じて、小学校に専任の英語教師をもっと積極的に採用すべきだ、過重な負担を背負う「日本の小学校教師の肩から英語を下ろそう」と書いています。こう言っては失礼かもしれませんが、まことに立派な日本語で、論旨も明快でよくわかり、まったくそのとおりと感心しました。

過日、文科省が教職の魅力を伝えるべく、「教師のバトン」プロジェクトを立ち上げたところ、労働環境の過酷さを訴える投稿が殺到して炎上しました。よく言われるようにビルドアンドビルドで教師の多忙化は限界に近いような状態となっています。教師のなり手が不足しているというのは、大量退職期に当たるというせいもありますが、いろいろなところで、いろいろな人が指摘するようにこうしたことが強く関わっていると思います。本学では一昨年に教師の魅力を伝えるべく動画をつくり配信しましたが、その費用200万円はクラウドファンディングでたちまちに集めることができ、応援してくれている人たちが沢山いるのだなと心強く思いました。が、しかし、昨今のなり手不足の状況は深刻で、教師の業務の本格的な見直しが必要なところまで立ち至っていると思います。その時、ローラ・カッツさんがアメリカのこととして記しているような、いくつかの業務を教師以外の人材にゆだねるというのはひとつの方法かと思います。ただ、清掃や給食というは、学校の活動として有意義な点もあり、諸外国からも注目されているところもあるので、まったく教育活動から切り離すというのではなく、子どもの指導もできる担任教師以外の人材にまかせるというようにすれば、日本の教育のよい点も生かすことができると思います。

今年1月の中教審答申では、小学校高学年で外国語、理科、算数の3教科で教科担任制を進めるとされました。そして、その後、体育も加えるという検討会議の報告が出ました。こうしたことが、子どもの学びを深めるとともに、教員の負担を軽減する手立ての一つとしても機能するようになることを期待しています。