学長室だより

"What's Going on"

Mother, mother
There's too many of you crying

Brother, brother, brother
There's far too many of you dying

これは、アメリカ、デトロイトのモータウン・レコードに属していたマーヴィン・ゲイ(Marvin Gaye)の1971年のアルバムのテーマ曲、"What's Going on"の始まりの部分です。ベトナム戦争から復員した弟のフランキーから戦争の実態を聞き、衝撃を受けて作った作品です。この曲から始まるアルバムは、全編流れるように曲が続いていき、反戦の他、貧困と格差、環境問題もテーマとなっているコンセプト・アルバムです。ポピュラー音楽の世界では、コンセプト・アルバムなど珍しく、ビートルズ以外にはないというような時代に、黒人による、政治的なメッセージをもった、音楽性のきわめて高い、こうしたアルバムが出たということは大変な出来事だったと思います。しかも、このアルバムは彼のセルフ・プロデュースでした。いろいろな意味で、ポピュラー音楽史上記念碑的なことだったと思います。

実際、80年代後半のことだったと思いますが、30数人のイギリスの音楽ライターによる、これまで出されたポピュラー音楽界のアルバムの中で最高のものは何かという投票で、このアルバムが、歴代1位と評価されたことを記憶しています。

しかし、マーヴィン・ゲイは、モータウンを代表するアーティストのひとりではありましたが、もともとは、こうしたプロテスト・ソングをつくるような人ではなく、男女関係が彼の持ち味で、ヒット曲も、今に残る名曲も数々ある人でした。女性歌手とデュエットした名曲もいくつもあります。

また、彼は、精神的にきわめて不安定な人で、恵まれているとは言えない家庭環境で育ち、薬物中毒がずっとついて回ったその生涯は、精神の不調との闘いと言っていいようなものでした。私生活も順調ではなく、二度の結婚と二度の離婚を経験しています。一度目の離婚の時には、高額な慰謝料が払えず(一度目の妻は彼が属していたモータウン・レコードの社長ベリー・ゴーディ・ジュニアの妹アンナ・ゴーディで、彼より17歳年上でした)、離婚をテーマにした2枚組のアルバム(邦題「離婚伝説」)を出したものの、営業的には失敗したとされています(名盤との評価もあるのですが)。

1983年に出したアルバム"Midnight love"が、念願のグラミー賞に輝いた翌年、不調の極みに落ち込んだマーヴィンは、両親にプレゼントした豪邸に引きこもり、バスローブのポケットに銃を入れて家の中を歩き回り、何かに怯えてブラインドから外をのぞき、そして、子どもの頃の彼に頻繁に体罰を加えていた、アルコール依存症で、女装趣味のある(こうした嗜好に対する当時の偏見は非常に強く、マーヴィンの人生にも影響を与えたと思いますので記します)牧師であった父親と激しく諍い、マーヴィンが父親を殴打した後、彼はその父親に銃で撃たれ、44歳の生涯を終えました。その銃は、彼が護身用にマーヴィンが父親に贈ったものでした。

"What's Going on"という楽曲は、家庭環境や、病気などで研ぎ澄まされていた彼の精神が、アメリカの行っていたベトナム戦争――よその国に派兵し、化学兵器を使い、残虐行為をさんざん働き、特殊部隊をつぎ込んでも勝つことができず、自国の多くの若い兵士を死に追いやり、PTSDの存在を世に広めることになった戦争――の本質、中核に鋭く反応してできたものだと思います。

この、彼の残した永遠に残るであろう名曲"What's Going on"は、次のように続きます。

Father, father
We don't need to escalate

You see, war is not the answer
For only love can conquer hate

そして、次のフレーズが、リフレインとして楽曲に繰り返し響きます。

You know we've got to find a way
To bring some loving (understanding) here today


これまで、学長室だよりで、ロシアとウクライナのことに2回ほど触れてきました。両国の戦闘が激しさを増していると聞きます。この、結局は、"人殺し"である戦争が、一刻も早く、なんとか、ともかく、終息することを、切に願います。

令和4年度入学式式辞

新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。一昨年からのコロナ禍、繰り返し繰り返し襲ってくる感染の波の中で、みなさんは、よく学修を進め、今日の日を迎えました。そのみなさんの我慢、努力に心から敬意を表します。

さて、私は、障害児や発達の心理学が専門ですが、20世紀初めのロシアにヴィゴツキーという心理学者がいました。この人は、38歳という若さで結核で亡くなった人ですが、現代の心理学にいまだに大きな影響を及ぼしつづけている人です。この人の言ったことに、「人間の発達というのは、ひとつの機能なり能力なりが単一でそれだけでぐんぐんと伸びていくというのではなくて、いくつかの機能・能力が結合して、新しい機能・能力が生み出されていく、そのことの繰り返しだ」というのがあります。どういうことかと言いますと、例えば、赤ちゃんは、マンママンマやバブバブバブと音声を発しますが、この赤ちゃんがもっている音声を発する能力が、意味づけを行う人間の能力である思考と結びついて、つまり、結合して、意味のある音声である"言葉"になる。この言葉というのは、単なる空気振動である音声にも、頭の中の思考にもない、新しいものです。この新しく誕生した意味ある音声である言葉が、今度は、いろいろな機能・能力と結合していきます。例えば、言葉とわれわれの運動能力とが結合すると、言葉によって運動を始めることができ、言葉によって運動を終えることができます。これが随意運動という新しい機能・能力で、これがまたいろいろな能力・機能と結びついていきます。こうしたことを繰り返していくのが人間の発達だという考え方です。

このように何かと何かの結合が新しいものを生むということは、製品の品質向上などでもよく見られることです。昨年はパラリンピックがオリンピックと合わせて東京で開催されましたが、障害をものともしない競技の素晴らしさ、レベルの高さには随分と驚かされました。そうしたパラリンピアンの、例えば、義足の選手の活躍には、カーボンファイバー製の義足の開発ということが大いに貢献していると言われます。これは、カーボンファイバーという材料と、義足とを結びつける、つまり、結合させることで成立したものです。このような製品の品質向上は、経済の発展をよぶもので、経済学では、これまでにない新しい結合が、経済発展の契機として重視されています。これが、イノベーションと言われるものです。イノベーションは、以前は技術革新などと訳されていましたが、今は、新結合と訳されています。

さて、翻って、学問の世界を見てみますと、世紀の大発見や新学説と言われるものも、ゼロから何かをつくり上げたというより、これまでに知られている何かと何かを結合させることで得られたものが少なくないことに気づきます。例えば、私の専門の心理学でいいますと、神経症と夢とを結合させることで無意識の心理学、フロイトの精神分析が誕生しました。ダーウィンの進化論も、多様な生物の形態とマルサスの人口論を結合させたところで生まれました。また、20世紀の世界を変えたマルクスの唯物史観という歴史の見方も、経済史と政治史、文化史等を結合させて、経済の動きの方を土台に置いて世界史を見るという視座から発したものです。

このように人が何かを創造するということは、ゼロから何か新しいものをつくるということだけではなく、これまで知られていることの間に、新しい結合を見つけ出したというようなことも多くあるということです。そして、その新しい結合をつくるためには、言うまでもないことですが、結合するもののことを知っていなければなりません。

先ほど挙げたカーボンファイバー製の義足の開発は、カーボンファイバーと義足の両方を知る人がいて、はじめて可能になったことです。フロイトは、神経症と夢とを、ダーウィンは、多様な生物の形態と人口論とを、マルクスは、経済史と政治史、文化史等を知っていたから、新しい学問を創造することができたのでした。

これを敷衍するなら、人間の切り開いてきた知識という広大な世界で、どこにどのような知識があるのかを掴んでいるということが、創造にとって重要ということです。深く掘るには広く掘れという言葉があります。必ずしも詳しく知る必要はありません。だいたいあたりがつくということでよいのです。それが教養です。

みなさんは、これから大学、大学院で様々な学問領域で学ぶことになるわけですが、そうした中で、ひとつのことをぐっと掘り下げて学ぶことは大事ですが、一方では、視界を広くとって、人間の知識の大枠を掴む、そういう勉強の仕方も学んでほしいと思います。それは、遠回りのようにも見えるかもしれませんが、専門の領域を極め、新たな発見に通じる道ともなることに心をとめてもらいたいと思います。

これから、みなさんは、本学で学問に出会うほか、教員にも、そして仲間にも出会います。出会いというのは、結びつきをつくることです。これも結合です。みなさんの本学での、学問と人との出会い、結びつきが、みなさんの人生を変える素晴らしい出会いとなることを祈っています。本日はおめでとうございました。ありがとうございました。

令和4年4月4日
東京学芸大学長 國分 充