学長室だより

「ありがとうございました」

もはや大分前となってしまいましたが、この欄で何度か触れたNHKラジオの「ラジオ深夜便」の「明日への言葉」というコーナーで、歌人で細胞生物学者の永田和宏さんが、「老いを照らす短歌」というテーマで話をされていました。いくつも心に沁みるお話がありましたが、やはり歌人であり、2010年に亡くなられた奥様の河野裕子さんとの思い出を語る中で、河野さんの病状が重くなり、もはやお別れも近いと感じられるようになってきた時に、「ありがとう」という言葉をどうしてもかけることができなかったというお話が印象的でした。なぜ言えなかったかというと、「ありがとう」と言うと、別れを認めるということになってしまうからだと言われていました。

この「ありがとう」と別れということに関して、もうひとつ、永田さんが「後悔している」とも言って話されたことに、恩師との別れがありました。永田さんの細胞生物学の恩師である市川康夫先生が死の床にあった時、お見舞い――これが最後になると、お互い科学者なのでわかっている――を辞する際に、永田さんは、「先生、ありがとうございました」とは、どうしても言えなかったそうです。そう言うことは、"これでお別れです"ということになるためです。それで、「また来ます」と言って病室を出たのだそうですが、その後を追いかけるように、ドアの向こうから、市川先生が「永田君、ありがとう!」と叫んだのだそうです。それを聞いた永田さんは、ひどく嗚咽してしまって、ちゃんと先生に伝わるように「ありがとうございました」と返せたかどうかが分からず、そのことを強く後悔していると言われていました。市川先生はその晩に亡くなられたそうで、何とも心揺さぶられるお話でした。

私の恩師の松野豊東北大学名誉教授は、2021年3月にご自宅で91歳の生涯を終えられました。病気で臥せられていたわけではなく、全体的に弱られていて、苦しまれることもなく普通の生活を続けられている中で亡くなったと聞いています。コロナ禍の最中だったため、ご葬儀もご身内だけで済まされ、私が先生と最後にお会いしたのはいつだったか、はっきりしなくなってしまいました。私も、先生にきちんと「ありがとうございました」とお伝えする機会を逸してしまいました。何とも残念です。

松野先生は、私が学長になると報告した6年前、「身体の隅から隅まで健康診断を受けて、学長職に臨みなさい」というお手紙をくださいました。その学長職も6年目となり、任期終了まで残り半年を切りました。心は、終了モードとなりつつありますが、残りの期間、でき得ることをきちんとなして、お世話になった東京学芸大学に、きちんと「ありがとうございました」とご挨拶して、お別れできるようにしたいと思います。

追記:この文章を、いつも学長室だよりをチェックしてもらっている本学職員M係長(本人が名前を出してくれるなというのでイニシャルにしますが、いずれわかるように女性です)に見せたところ、永田和宏さんは彼女が好きな歌人の一人だそうで(M係長はお茶の水女子大学で日本文学を専攻し、卒論は短歌だったと聞いています)、恩師とのエピソードも知っていました。そして、さらに、このことを詠んだ永田さんの短歌もあることを教えてくれました。3首ありました。こうしたエピソードを知って読むと、いっそう胸に迫るものがあります。

・「ありがとう」と病室よりぞ聞こえたる逃げるるごとく出でし廊下に

・そんなにも大きな声の残りしか「ありがとう」なる声は最期の

・亡くなってしまえばそれが前日か会いたりきまこと死の前日に

それにしても、身内のこととはなりますが、うちの職員は優秀だとあらためて感じ入りました。M係長に「ありがとう」と御礼したいと思います(お別れはもう少し先ですけど)。

令和7年度9月卒業・修了式式辞

卒業生、修了生のみなさん、ご卒業・ご修了おめでとうございます。一昨年、新型コロナウイルスの感染症法上の位置づけがようやく5類となり、パンデミックは収束しましたが、みなさんの大学生活には、いろいろの影響があったことと思います。しかし、みなさんは、そうした中で、よく学びよく研究し、今日の日を迎えました。その努力に敬意を表したいと思います。ご苦労様でした。

さて、本日は、みなさんの卒業・修了を祝うおめでたい日なのですが、残念ながら世界は、今、平穏とは言えない状況にあります。みなさんも痛烈に感じたように、今年の夏は、昨年にも増して気温が高く、「命に係わる危険な暑さ」、「熱中症警戒アラート」という言葉は、日常的な用語としてすっかり馴染んでしまいました。最高気温が40度に達することも珍しいことではなくなり、旱魃に苦しむところも出ている一方で、「線状降水帯」、これも馴染みの言葉となってしまいましたが、「線状降水帯」による水害も頻発しています。大規模な山火事も、こうした異常気象の影響と言われています。このような気候は、もはや我が国、そして、世界の日常となりつつあります。地球環境に何か重大なことが起こっていることは明らかで、地球温暖化が背景にあると言われています。この地球温暖化は、残念ながら、人間がもたらしたものです。人間がもたらしたものとすれば、人間こそ、対策を考える必要があるのではないかと思いますが、CO2削減などの取り組みはなされていますが、やや遅きに失した感は否めません。今年の夏の異常な暑さは、地球温暖化に対する対策を、一層早く進めることを迫っています。

これは、自然と人間の関係で生じていることですが、人間どうしの関係でも、重大な問題が生じています。戦争です。ウクライナへのロシアの侵攻は、3年半を超えました。ロシアは、ウクライナ東部4州を一方的に併合し、国連で非難されても不法な支配をやめようとしません。最近では、ドローンを飛ばして、ヨーロッパ各国の領空を侵犯するという危険な挑発行為を繰り返しています。イスラエルとハマスの戦闘は、2年を迎えようとしています。イスラエルは、人質を奪還するためとしてガザの人々を追い詰め、テロリストの隠れ家となっているという理由で、無辜の子どもや一般の人々も逃げ込んでいるガザの病院や学校を繰り返し空爆しました。さらに、看過し得ないのは、イスラエルは、補給物資の搬入も妨げ続け、餓死者を、子どもを含めて多数出すような事態をも引き起こしています。こうしたロシア、イスラエルを国際社会は止められずにいます。

今目の前で起こっているこうしたことは、人間の、人類の生存を脅かすことです。求められているのは、自然とも、人間どうしでも、共存・共生の道です。しかし、現在、大国では、強権的であったり、事実に基づかない発言を繰り返す指導者が現れ、大局的な人類の行く末など、視野にあるようにはみえません。わが国でもポピュリズムが勢いづき、異常気象も中東の戦争も政治的な話題として一顧だにされていません。

本学は、"有為の教育者"の養成を使命とし、教育者養成のフラッグシップ大学と自負しています。実際、文部科学省からそうした指定を受けてもいます。そうした本学で、みなさんは、教育の意義を学び、本格的な学問に触れるというきちんとした高等教育を受けました。そういうみなさんは、教育に関わる領域ではもちろん、他の領域でも、社会の中でそれにふさわしい貢献をなすことが期待されています。特に、今言ったような世界情勢・政治情勢の中では、みなさんの役割の重要性、必要性は一層増しています。自然と人間の関係、そして、人間どうしの問題は、簡単には解決に至らない大きな問題だと思いますが、みなさんには、こうした大きな問題も視野に入れて、"有為な教育者"として持ち場持ち場で活躍してほしいと思います。"有為の教育者"の、"教育者"というのは、教師と教育支援者のことです。一方、"有為"というのは、抽象的な言葉です。何にとって、どう"有為"であるかという具体的な中身を込めるのは、みなさんの仕事、みなさんに任されています。社会を変え、未来をつくっていくのは、結局は教育です。教育の力を信じて、平和で安全な中で、生きることをみなが等しく謳歌できる社会をつくり、そうした社会を次の世代の子どもたちに手渡していってほしいと思います。

ロシアの革命家トロツキーは、「人生は美しい」と言いました。みなさんも、美しい人生を大いに享受してください。本日、みなさんは、本学を卒業・修了していくわけですが、ときには本学と本学の教員を思い出してください。私たちは、いつもみなさんを見守っています。みなさんの人生が、みなさんらしく、美しいものであることを心から祈っています。本日はおめでとうございます。ありがとうございました。

令和7年9月30日
東京学芸大学長 國分 充