1つの訳語の違いで...、シジフォスの神話 その2
なにゆえ分かったかというと、お気づきのように、内田さんは、これまでの訳で「侮蔑」とされていたものを、「俯瞰」と訳していたのでした。「俯瞰」とは、現在の自分より一段上に立って、自分を突き放して見るということです。つまり、それは、苦しんでいる自分を相対化するということになり、それによってシジフォスは運命に打ち勝つということか!...とわかったわけです。ちなみに、内田さんは、前回引用した文章に続けて、「「辺境性」という私たちの「不幸」(というより、私たちの「宿命」)は、今までもこれからも確実に回帰し、永遠に厄介払いすることはできません。でも、明察を以ってそれを「俯瞰する」ことなら可能です。私たちは辺境性という宿命に打ち勝つことはできませんが、なんとか五分の勝負に持ち込むことはできる。」と書いています。
単語の訳語ひとつで、文章、そして作品全体がわかったり、わからなかったりするということで、私も翻訳書をいくつか出していますが、訳語の選び方の重要性にあらためて気づかされました。しかし、となると、なぜこれまでの訳者は、そう訳さなかったのか?一体もとは何という単語なのか?ということが気になり始めました。私はフランス語が読めないのですが、原著を取り寄せ、段落の数や、文章の数(ただ、ここは、段落が切れるところなので文章の同定は難しくありませんでした)などから、単語を割り出しました。その単語は、"mépris"でした。辞書を引いてみると、「侮蔑」、「軽蔑」となっていて、「俯瞰」というような訳語はありませんでした。これまでの訳者が「侮蔑」と訳してきたのはもっともなことだったのだと得心するとともに、内田さんは随分と思い切った訳をしたのだなぁと、感心しました。
内田さんの訳のおかげで、私はこの作品を理解することができたのですが、私と同じようなことを思った人がいることが後日わかりました。哲学者の門脇健さんの「哲学入門 死ぬのは僕らだ!」(角川SSC新書)という2013年に出た本に、シジフォスの神話のあの箇所の、内田さんの訳が載っていたのです。です。この方は内田さんとは親しいらしく、本の帯文は内田さんが書いています。この本に、門脇さんは、カミュは自殺は認識の不足であると言っているとし、次のように書いています。
"カミュはこの「認識」について、...「méprisによって乗り越えられぬ運命はない」と表現しています。...この「mépris」を新潮文庫版の翻訳者・清水徹氏は侮蔑と訳され、内田樹先生は「俯瞰」と訳しておられます(「日本辺境論」、新潮新書)。辞書的には「侮蔑」「軽蔑」が正解ですが、「既成の価値体系から解放されつつ自分を眺める」という文脈では「俯瞰」という内田訳がぴったりきます。自分が今どんな価値体系に縛られてどん底に落ち込んでいるのか、「こんな価値観に縛られているなんて馬鹿じゃないの」と自分を突き放して見ることができるとき、そこには広々とした世界がひらけてくるのです。"
正解ではないかもしれないが、「ぴったり」くるとは、まさしくそのとおりだと思います。この内田さんの訳に出会わなければ、私は、シジフォスの神話について、何か大事なことが書かれているようだけれど、すっきりとわからないままだったと思います。2020年3月の卒業式でもシジフォスの神話に触れることはなかったと思います。告辞では、これまでの訳者の方に敬意を抱きつつも、内田さんの訳を、引かせてもらいました。翻訳という作業の奥の深さをつくづくと感じさせられました。