学長室だより

令和4年度卒業・修了式式辞

卒業生、修了生のみなさん、ご卒業・ご修了おめでとうございます。めぐりあわせとはいえ、コロナ禍の3年間、コロナが明けないうちに卒業、修了の年を迎えたこと、なんとも気の毒です。特に、大学院のみなさんには心残りもある2年間であったと思います。しかし、そうした逆境ともいえる状態の中で、あなた方は、よく学びよく研究し、今日の日を迎えました。その努力に敬意を表します。また、学長として誇らしくも思います。

さて、私は、障害児や発達の心理学を専門にしています。20世紀初めのロシアの発達心理学者にヴィゴツキーという人がいました。この人は、37歳という若さで結核で亡くなりましたが、現代の心理学にいまだに大きな影響を及ぼしつづけている人です。この人が、人間の発達の原則について言ったことに、「精神間機能から精神内機能へ」というものがあります。どういうことかというと、子どもは初めは自分一人でできないことを、母親などの大人の助けをかりてやり遂げる、これが精神間機能です。それが徐々に、助けてくれる大人を自分の中に取り込んで、一人でできるようになる、これが精神内機能です。人間の行う様々なことの発達原則が、この「精神間機能から精神内機能へ」ということだというのです。当たり前のことのように思いますが、彼は、きちんと定式化して示しました。

このヴィゴツキーの原則を、敷衍(ふえん)すると、人は助けをかりた人を内に取り込んで発達していく、ということです。助けてくれる人は一人ではないでしょうから、人の心には、多くの人が取り込まれていくことになります。となると、人の集まりである「社会」、その社会と相似のものが人の心のなかにできるということになります。このように、ヴィゴツキーの言っていることは、社会を重視し、社会に親和的で、社会に対する楽天的、寛容な姿勢を背景に提唱されているものということになります。実際、彼は、人間の高等な心理機能の社会的な起源を強調する心理学のひとつの学派である文化‐歴史理論の創始者ともされています。

しかし、ヴィゴツキーを取り巻く実際の社会、ロシアとソビエトの社会は、彼に対して温かい目を向けてくるものではありませんでした。まず、彼は、ユダヤ人でしたので、様々な差別を受けてきました。帝政ロシアでは、ユダヤ人には居住制限があり、ユダヤ人が住むことを許されていたのは、ウクライナ、ベラルーシ、リトアニアだけでした。彼の出身地は、そのうちのベラルーシで、ゴメリというところでした。そして、そこで、ヴィゴツキーは、子ども時代にポグロムを経験しています。ポグロムというのは、ロシア人たちが徒党を組んで、理由もなくユダヤ人を襲い、財産を略奪し、暴行を加え、ひどい時には殺害するという犯罪行為を言います。彼の出身地のゴメリでは、このポグロムが、彼が子どもの頃に2度起こったという記録が残っています。また、彼は、モスクワ大学へ入学することを志しますが、そのためには、非常に限られたユダヤ人枠をねらわなければなりませんでした。さらに、彼が受験する時には、成績の他に、抽選というプロセスも加えられ、それをパスしなければなりませんでした。

また、彼は、政治・社会的に非常に困難な状況にありました。ヴィゴツキーもその一端を担っていた革命政府、つまりソビエトは、革命の指導者レーニンの死後変質します。特に、ヴィゴツキーらを支援し、彼らもまた支持していた政権中枢にいたトロツキーが、スターリンとの熾烈な権力闘争に敗れ、失脚すると、自由な言論や表現、研究ができなくなっていきます。そして、ソビエトは、政権批判が許されないよく知られるような共産党の独裁国家となっていきます。

そうした政治状況の中、ヴィゴツキーは、追い詰められ、研究の拠点をモスクワから移さざるを得なくなっていきました。そういうヴィゴツキーが研究拠点を移した先は、ウクライナのハルキウでした。そして、ヴィゴツキーは、ハルキウで十分な研究ができないまま、結核を悪化させて、37歳で亡くなります。その後ソビエトでは、スターリンが死ぬまでの20年間、ヴィゴツキーの本を出版することはできませんでした。

このようにヴィゴツキーを取り巻いていた社会は、彼に対して決して寛大ではありませんでした。しかし、そういう状況の中でも、彼は、社会に信頼を置く発達原則を提唱したのです。

さて、世界は今、ロシアのウクライナへの軍事侵攻という、21世紀に起こった信じられない蛮行に、凍り付いています。こうした中で我々はどうした態度をとるべきでしょうか。

私は、ヴィゴツキーに倣いたいと思います。やはり、人の社会を信じ、この困難な状況を見据えていこうと。

教育という営みは、ヴィゴツキーの言う「精神間機能から精神内機能へ」ということを、組織的に、意識的に、系統的に行おうとするもので、社会を信じ、人間の未来を信じるということを前提にして、はじめて行い得るものです。そうした教育という営みにまた信を置こうと思います。

また、ヴィゴツキーの言うような「精神間機能から精神内機能へ」というのは、高等教育での知の伝授にも言えることで、というより、むしろ、高等教育こそ、人から人への伝承ということが必須です。それをあなた方は、卒業論文、修士論文、課題研究で行ってきたことと思います。そこで鍛えられた知の構築の方法を携えて、それを生かして、人から、社会から頼られ、活躍していかれることを期待しています。

ヴィゴツキーの出身地であるベラルーシのゴメリは、昨年3月にロシアとウクライナの戦争の第1回目の停戦交渉の行われた場所となりました。先ほど述べた、ヴィゴツキーが新たな研究拠点としようとしたウクライナのハルキウは、昨年、ウクライナがロシアの猛攻をしのぎ死守した場所です。ヴィゴツキーの由縁(ゆえん)の土地が、ロシアとウクライナの戦争の中で知られることになってしまいました。

かつて、ロシアとウクライナは、崩壊するまで同じソビエトに属していました。ソビエトは、第二次世界大戦でもっとも多くの死者を出した国です。その数は、人口の1割を越え、二千数百万人と言われています。この戦死者数には、当然ながら、ロシアとウクライナのどちらの人々も含まれています。

この膨大な数の戦死した人々は、人類をナチスから守る凄惨な闘いで亡くなった人たちです。ソビエトは、独裁国家になっていましたが、ナチスとの闘いに払った犠牲については忘れるべきではないと思います。そうした、かつては同じ国に属して過酷な運命に殉じたロシアとウクライナの人々が、今、戦火を交えているというのは、なんとも残念で、悲しいことです。戦禍の中では、教育は成立しません。教育科学の研究者として、人間として一刻も早い停戦を願います。

先ほど名前を挙げた、ヴィゴツキーが支持したロシアの革命家トロツキーは、「人生は美しい」と言いました。みなさんも、美しい人生を大いに享受してください。そうであることを心から期待していますが、しかし、いろいろうまくいかないこともあるだろうと思います。行き詰まるときもあるでしょう、また、病気になることもあるだろうと思います。そうした時は、みなさんのうちにある、みなさんの中に取り込まれた本学と本学の教員を思い出してください。また、みなさんは、私たちの中にもいます。いつもみなさんを待っています。みなさんの人生が、みなさんらしく、美しいものであることを祈っています。本日はおめでとうございます。ありがとうございました。

令和5年3月17日
 東京学芸大学学長 國分 充

「砂の器」

NHKの今月の「100分で名著」は、北条民雄の「いのちの初夜」です。女優でもある中江有里さんが講師です(名著127「いのちの初夜」北條民雄 - 100分de名著 - NHK)。北条民雄は、ハンセン病者を隔離収容していた全生病院(現在の全生園)に入院していた患者・作家で、「いのちの初夜」は、その代表作です。ハンセン病は、人権にかかわる重大な差別を、国を挙げて最近まで行ってきたという歴史をもっており、それは、障害者差別とも繋がるものであるため、私も授業の中で取り上げてきました。北条民雄の作品のことや、全生園のことなど、今後学長室だよりでも取り上げてみたいと思いますが、今回は私がハンセン病のことを強く意識させられるようになったきっかけのようなことなどを記したいと思います。それは、松本清張の「砂の器」にまつわるものです。

もはや半世紀近く前になりますが、中学生の一時期、推理小説への興味から、松本清張に随分と凝って読んでいた時期がありました。当時、清張の本は、文庫本にはなっておらず、出ていたのは、光文社のカッパ・ノベルズと新書版のシリーズでした。これは、中学生が買うにはちょっと値が張ったように記憶しています。が、面白く、やや無理をして購入し、主要な作品――「ゼロの焦点」、「点と線」、「目の壁」など――を読みました。「砂の器」もそうして読みました。「砂の器」は、分厚い本でした。

小説を読んで何より印象に残ったのは、「ズーズー弁」と言われるしゃべり方をするところが――無アクセント地帯というのでしょうか――、東北地方以外にも福井や島根にもあるということでした。小説では、島根の「ズーズー弁」に焦点が当たっていきます。

こういうところが印象に残ったというように、この小説にはハンセン病のことも書かれていた(そうでないとこの小説に出てくる事件が成立しませんので)ものの、事件の推理にばかり気をとられて読んでいたせいか、それほど強い印象は受けませんでした。

ところが、テレビの映画劇場のような番組で映画となった「砂の器」を見て、驚きました。こういうことだったのか!!と。ネタばれになるので、詳しくは書きませんが、丹波哲郎扮する刑事が映画の最後に捜査結果を縷々報告するシーン――その場面には、ハンセン病のため、故郷を追い出され、お遍路姿で、行くところと行くところで、差別偏見に晒されながら流離う父と子の姿、また、主人公の作曲したオーケストラによる荘重な音楽が重なります――には、時間を忘れ、深く感動しました。そして、一方では、本にはこんな風に書いてあったか??とも思いました。本棚から本を引っ張り出し、あらためて確認したほどでした。上にも書きましたが、ハンセン病のことが書いてはありましたが、やはり、この映画の映像が訴えてくるほどのもののようには、描かれていませんでした。こう思うのは私だけかと思っていましたが、そうでもないことがネットを見てわかりました。(ウィキペディアの「砂の器」の項にも、原作と異なる映画版の特徴として、"原作ではハンセン(氏)病への言及は簡潔な説明に止められているが(言及箇所は第六章・第十七章中の2箇所)、映画版では主に橋本忍のアイデアにより、相当の時間が同病の父子の姿の描写にあてられている。"と書かれていました。)

ここで、私がテレビで見た映画というのは、1974年に野村芳太郎監督によって撮られたものです。私は、その数年後にテレビで放映されたものを見ました。この映画については、映画化された当時「映画が原作を越えた」と言われたとも聞きましたが、もっともだと思います。その後、「砂の器」のテレビドラマもいくつか作成され、関心をもって見ましたが、ハンセン病に係わる肝心のところは変えられており、ストーリーに説得力を欠くものとなっていました。

こうしてハンセン病のことは、私の関心の中に常に存在するようになり、最初に記したように授業で取り上げたりするようになりました。そして、また、本学に赴任したところ、期せずして北条民雄所縁の全生園の近くに住まいを構えることとなったのです。全生園は、我が家から歩いて20分で、週末の散歩コースとなりました。また、全生園の中にある資料館も気軽に見たりすることができるようにもなったのです。この辺りのことは、また、稿を改めて記したいと思います。

ところで、福井や島根にもある「ズーズー弁」ですが、福井地方の「ズーズー弁」は、金沢大学に30歳台半ばで赴任した時に実際接することになりました。福井出身の子の「ズーズー弁」は、東北出身の私が聞いても、本場の「ズーズー弁」と区別がつきませんでした。ちょっと驚いたことは、金沢の学生たちが、福井の出身の子たちがそうした話し方をすることを知っていたことでした。その話し方は、「コアラのマーチ」と言うと、はっきりするというので、福井出身の子にそう言わせて、面白がっていました、言っている本人も面白がっているのが、なんとも無邪気なところでした。30年前の思い出です。