学長室だより

1つの訳語の違いで...、シジフォスの神話 その1

コロナの感染症としての位置づけが5類となって、まるでコロナが明けたようなムードとなっていますが、コロナの感染が広がり出したときに、あらためて注目された作家にアルベール・カミュがいます。このアルベール・カミュは、私が若いときから意識してきた作家・哲学者で、入学式や卒業式の告辞などでも、これまでたびたび彼及び彼の作品に触れてきました。(2020年度新入生へのメッセージ2020年度卒業式2021年度入学式

2020年度の卒業式の告辞で引いたのは、彼の『シジフォスの神話』です。これは、「真に哲学的な問題は自殺である」という衝撃的な一文からはじまる哲学エッセイで、思春期の私は、特に強い関心をもって読みました。が、しかし、この作品の一番いいところが何なのかよくわからないという思いを、ずっと抱えていました。シジフォスというのは、ギリシア神話に登場する人物です。ゼウスの怒りを買って、山の麓から頂きまで重い岩を運びあげるという作業を課せられますが、岩は、シジフォスが山頂まで運んだ瞬間、再び麓へ転がり落ちていきます。シジフォスは、永遠に岩を山頂まで運び上げるという罰を受けたのでした。そうしたシジフォスの営みの中で、カミュが関心を持つのは、麓に転がり落ちた岩を再び山頂に運び上げるために、シジフォスが岩を追いかけて山を下りていくところです。

私が高校生の時に初めて読んだものでは次のように書かれています。
「私がシジフォスに関心をもつのはこの下降この休止の間である。...これは意識の時間である。...この神話が悲劇的であるとすれば、それはこの英雄が意識的だからである。...シジフォスはその悲惨な条件の全貌を知っている。...つまり山を降りるあいだ彼はこの条件を考えるのである。彼を苦しめたに違いない明視が同時に彼の勝利を完成する。侮蔑によって克服されない運命はないのだ。」(新潮社、矢内原伊作訳、1951

この「侮蔑によって克服されない運命はないのだ。」で、段落が切れているのですが、最後のキメとなっている文章の意味がよくわからないのです。

別の訳を見てみますと、以下のようになっていました。

「こうやって麓へと戻ってゆくあいだ、この休止のあいだのシーシュポスこそ、ぼくの関心をそそる。...これは意識の張りつめた時間だ。...この神話が悲劇的であるのは、主人公が意識に目覚めているからだ。...シーシュポスは、...自分の悲惨な在り方をすみずみまで知っている。...まさにこの悲惨な在り方を、かれは下山のあいだじゅう考えているのだ。かれを苦しめたにちがいない明徹な視力が、同時に、かれの勝利を完璧なものたらしめる。侮蔑によって乗り超えられぬ運命はないのである。」(新潮文庫、清水徹訳、1969

この2つの訳では、細部は少しずつ違いますが、意味するところは同じで、最後の文章の1つ前まで(後者の訳でいうと、「かれを苦しめたにちがいない明徹な視力が、同時に、かれの勝利を完璧なものたらしめる。」まで)はよくわかります。ここまで読んでくると、「うむ、うむ、で、それはなにゆえに?どうやって?」と思います。そして、その答えを期待して最後の文章を読むと、そこに書かれているのは「侮蔑によって乗り超えられぬ運命はないのである。」です。どうでしょうか?「えっ、何?この"侮蔑"というのは??これが答え??」という感じではないでしょうか。少なくとも私はそうで、結局、突然でてくる「侮蔑」という言葉の意味がよくわかりませんでした。

長年、そうした思いを抱えていたのですが、2009年に出た内田樹さんの『日本辺境論』という本を読んでいたところ、この部分が引用されていました。そこでは、以下のように書かれていました。
「坂を下っている、このわずかな休息のときのシシュフォスが私を惹きつける。...この時間は覚醒の時間でもある。...彼が山を下りながら考えているのは彼自身の状況についてである。彼の苦しみを増すはずのその明察が同時に勝利を成就する。どのような運命もそれを俯瞰するまなざしには打ち勝つことができないからだ。」(新潮選書、内田樹訳、2009

別に意識することもなく、あぁ、あの箇所だ、くらいの気持ちで読んでいたのですが、読んでみると、例の箇所の意味がすっと分かったのです。あれっ?という感じでした。(この記事続く...)

栗山英樹監督の創基150周年記念事業特別企画、特別講演会開催!

以前の学長室だよりでお知らせしたように、令和5年5月20日(土)、WBC優勝チームである日本代表チームの監督、本学卒業生の栗山英樹氏をお招きして、創基150周年記念特別企画、特別講演会を開催いたしました。

ご講演に先立って、この度創設した東京学芸大学栄誉教授の称号の授与を行いました。これは、栗山監督の今回の快挙を顕彰するために、急遽創設したもので、監督が第1号の授与者となりました。そして、その後「人を育てる力」と題して、ご講演をして頂きました

お話は、WBCでのダルビッシュや大谷などの選手の様子や、選手と監督とのやり取りなどのエピソードが中心でした。栗山監督は、具体的な出来事から核心を抽象化してつかみ取ってくる、あるいは、逆に抽象的な名言などから現実的なエピソードを導いてこられるのがとてもお上手で、登場人物がダルビッシュや大谷というような有名選手だからというだけでなく、グッと引き込まれる内容をもっていました。これこそ、ご著書の『栗山ノート』などからうかがえる読書量に裏打ちされた知力と思います。ご講演の後には、学生からの質問などにもよくお答えいただきました。特にうれしかったのは、学生から栗山監督の中で、学芸大での学びはどう生きているかという問いに対するお答えでした。栗山監督は、学芸大の中では教育ということが繰り返し強調されており、教育というのは人のために何かするという営みなので、これを4年間聞いてきた結果、人のために何かするということが、体の中に入っているように思うとおっしゃっていました。これは、ご講演の中でも言われていていたことでもありましたが、まことにありがたく思いました。また、こうした質問をした学生も立派!、よく考えていると思いました。その他にもいくつか質問が出ていましたが、総じて、立派な質問ばかりで、さすがはうちの学生!とあらためて思いました(自分が若い時とはまったく違います)。

講演が終わると、監督には、講演をオンラインで配信していた教室を回っていただき、ご挨拶いただくとともに、そこでも質問などにお答えいただきました。その後はさらに野球場に行っていただいて、硬式野球部とご歓談いただきました。野球場では、お話の後に、色紙を用意していた野球部員約70名ひとりひとりにサインと写真撮影をしていただき、結局、予定していた時間を、1時間半近く遅れての終了となりました。

以前の学長室だよりに書きましたように、監督は、本学が創基150周年を迎えるということを、意気に感じてくれて、スケジュールを空けてくださったのでした。そして、また、この日も、お疲れもみせず、学内を飛び回って(こちらが連れ回したのですが)学生たちへの対応をしてくださいました。こうしたことを、「神対応」というのでしょう。監督のお人柄がよく感じられるものでした。これも以前に記しましたが、こうしたお人柄であればこそ、WBCにああした有名な大選手たちを集めることができ、また、そうした選手たちが、ついていくのだろうとも思いました。学生だけでなく、われわれ教職員一同にとっても大変に有意義な一日となりました。まことにありがとうございました。

写真は、当日頂いたサインです。学長室に飾ることにしました。

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