学長室だより

創基150周年記念式典式辞

みなさまには、本学の創基150周年の記念式典にご出席いただきまして、まことにありがとうございます。特に、壇上にいらっしゃる文部科学省の安彦審議官、東京都の浜教育長、おもちゃ王国の髙谷社長には、ご来賓としてお出でいただきました。また、フロアにいらっしゃいますが、小金井市の白井市長にもお出でいただきました。まことにありがとうございます。

すべての方々をご紹介いたしたいところではありますが、時間の都合上それはゆるされません。どうぞお許しください。

さて、創基150周年というのは、明治6年1873年に、東京府小学教則講習所が設置された時から数えてということでございます。これまで本学は、創基について、周年行事を行ったことはありませんでした。これには、やはり、戦前の師範学校についての戦後の評価が関係しているかと思われます。今回創基と冠して周年行事を行いますのは、そうした師範学校も本学の歴史の中にきちんと位置づけていくというわれわれの姿勢の現れです。「東京学芸大学150年の歩み」として、周年史もまとめました。これまで、周年史は2度編纂されておりますが、いずれも新制大学から数えてのもので、今回のような周年史は、初めてです。

さて、先ほど、東京府小学教則講習所の設置から数えて150周年と申しましたが、昨年が学制発布から150周年ということでしたので、この講習所は、学制発布と時を置かずに設置されたということです。近代日本の教育制度の基本をなす重要なことであったと言えます。その後の本学の歩みを簡単に申し上げますと、小学教則講習所は、その後、これも先ほど申し上げた師範学校となり、東京にはいくつかの師範学校が設置されました。そうして、終戦を迎え、昭和24年1949年に、それらの師範学校を統合して東京学芸大学が発足いたしました。その後、昭和41年1966年に、大学院修士課程教育学研究科を、平成8年1996年には、埼玉大学、千葉大学、横浜国立大学と本学の4大学から成る大学院博士課程、連合学校教育学研究科を設置いたしました。平成16年2004年の法人化を経て、平成20年2008年には、教職大学院教育実践創成専攻を設置いたしました。平成27年2015年には、学校教育及び地域での教育活動を支援する教育支援職を養成する教育支援課程を、わが国ではじめて設置いたしました。

その間、附属学校は、幼稚園、小中学校、中等教育学校、高校、特別支援学校と全部で11を数えるに至り、学校園は、それぞれの教育現場に立脚した先導的な研究成果を挙げ、全国に発信してまいりました。

最近の本学のことを申しますと、令和4年2022年に、教員養成フラッグシップ大学の指定をうけました。これは、わが国の教員養成を先導する先進的な取り組みを進め、それを全国的に展開していくことを期待される大学・学部が指定されるもので、審査の結果、全国で4つの大学・学部が選ばれています。本学では、このために先端端教育人材育成推進機構を立ち上げました。これは、

8つのユニット、1つのチームから成り、ユニットでは、学校教育、教員養成をめぐる我が国の問題ほとんどすべてを網羅する取り組みを進め、チームで全国展開を図るという大掛かりな取り組みで、今年で2年めとなりますが、着々と成果を上げております。

また、本学は、教員養成系大学としては、かなり珍しく、おもちゃ王国様をはじめとして、産学協働を、附属学校をも巻き込んで進めて参りました。これは、今後の教員養成系大学の在り方を先んじて示してきたと自負しているところです。野球場グランドの前、南側に風変わりな建物が立っております。これは、HIVE(H,I,V,E)棟と言いまして、スタートアップを支援するミスルトゥ株式会社の寄付によって建った建物です。この建物をたまり場のようにして、子ども、学生、教員、地域の人が集い、協働して面白そうなことを立ち上げていくことを目指しています。そうした様々な人々の協働というものは、教員養成系大学のひとつの方向性を示しているのではないかと思います。あの建物の、緩やかなカーブを主とするフォルムは、直線的な固いあり方を拒否し、しなやかに、すべてを受け止めていくような柔軟性を体現しているようにも思います。まだ、ご覧になっていらっしゃらない方は、休憩時間やお帰りの際にぜひご覧頂ければと思います。

さて、初代東京学芸大学長の木下一雄は、新制大学として初めて迎えた卒業式の式辞で次のように述べたと言います。「学芸の名を冠する大学設立の理想は、明治時代に菊地大麗氏の唱えたところでありますが、本学はこの精神を採り、高き知性と、豊かな教養に富む人物の育成を基盤とし、その上に、信念かたき教育の専門職を養成する、明白な使命をもち、こうして皆さんを世に送り出すことになりました」というものです。木下学長の言葉の中にある「高き知性と、豊かな教養に富むことを基盤とし、信念かたき教育の専門職」というのは、教育者たるものの理想をまさに言い当てたもので、そうした教育者を養成するという使命は、大学のみならず、本学の源流たる講習所以来、師範学校時代を経てずっと脈々と流れている、本学のバックボーンでございます。

本学は、今後も、教育支援職を含む有為な教育者養成を使命とし、粛々と、清々と歩を進めて参りたく存じます。みなさま方におかれましては、引き続きのご支援、ご協力、ご指導を賜りたく、お願い申し上げます。以上をもちまして、私のご挨拶とさせて頂きます。どうもありがとうございました。

令和5年11月4日

東京学芸大学長 國 分 充

ディスレクシア(読み書き障害)

この頃は、眠りが浅くなり(寝るのにも体力が要るということがわかりました)、NHKラジオで夜11時から始まり朝の5時に終わる「ラジオ深夜便」という番組を、うつらうつら聞いていることが多くなりました。ちょっと前になりますが、10月はディスレクシア(読み書き障害)啓発月間ということで、ディスレクシアの正しい認識の普及と支援を目的とするNPO法人エッジを立ち上げた藤堂栄子さんという方がお話をされていました。藤堂さんは、お子さんがディスレクシアと診断されたことから、こうした法人を立ち上げたとのことで、これまでのいろいろのご苦労やエピソードをお話しされていました。その中で特に興味深かったのは、お子さんがディスレクシアと診断されたために、ご本人もディスレクシアであったことがわかり、それにより、これまで遭遇した人生の困難が説明できたというお話で、なるほどなぁと思いました。 

ディスレクシアというと思い出すことがあります。それは、もはや30数年前となりますが、私が東北大の助手を務めていた頃、オランダの児童学研究所の所長が、研究室(当時の東北大の研究室は講座制で、教授・助教授・助手で知能障害学研究室という組織を構成しており、そこに博士・修士・学部卒論の学生20人くらいが属していました)を訪ねてきて、研究について懇談交流をする機会がありました。Kempという学者でしたが、大男で、やっぱりオランダ人は大きいのだと実感しました。その時に、彼が問うてきたのが、「日本では鏡映文字の研究はどうなっているか?」ということでした。彼はリテラシーの研究者と聞いていたので、その頃わが国で注目を浴び始めてきた学習障害の子どものリテラシーに関する質問でもあるかと思っていたのですが、この思いがけない質問に、みなポカンとしました。「鏡映文字??」という感じでした。鏡映文字とは、鏡文字とも言われ、文字の左右が逆転している文字のことで、幼児期の子どもの書字によく見られるものです。この鏡文字への対処法は、「放っておけ。そのうち治る」というもので、そして、実際「治る」のです。一生鏡文字が「治ら」なかったというようなことは、当時聞いたことありませんでした。もちろん、障害とは見なされていませんでした。 

そのため、ん?と思ったわけですが、しかし、考えてみれば、彼らが使っている文字であるアルファベットという文字体系は、空間的な位置関係に対する能力への負荷の強いものであることに気付きました。例えば、b,d,p,qは、縦棒と半円形という文字の構成要素は同じで、縦棒に対して、右に凸の半円形部分が右下に付けばb、裏返って左下に付けばd、右上に付けばp、裏返って左上に付けばqとなります。というように、上下左右という空間認識に相当に負荷のかかる一群の文字なのです。それに対して、われわれの使っているひらがななどは、直線・曲線が複雑に使われているもので、左右がひっくり返っていても何という文字かわかるようにできています。例えば、「あ」を左右反転して書いたとしても、他に読める文字がないので、ああ、「あ」だな、と分かるわけです。また、同じことですが、ひらがなの鏡映文字を書いている子どもは、自分の書いた文字以外でそのような文字に出会う機会はないのです。しかし、アルファベット文化圏でdの鏡映文字を書いている子どもは、そこかしこ(新聞、テレビ、雑誌等々)で、bという文字と出会います。となると、鏡映文字は固定化してしまう可能性があります。 

Kempはそうしたことは何も言いませんでしたが、使っている文字体系との関係で、負荷のかかる能力があり、それが障害ともなり得るということに気づかせてくれました。あらためて障害と文化との関係に思いを致しました。 

下の図は、当方の6歳の孫の書いたものです。当方、子どもの文字の研究には疎く、お子さんの文字を見ることは少ないのですが、かなり"激しい"鏡映文字ではないかと思います(治るかしら?)。ちなみに、当方の下の娘は、左右だけでなく、上下も逆さの文字を書いていました。ただ、これは理由がわかっていました。下の娘は、上の娘とちゃぶ台で向き合ってよく絵を描いたりしていたのですが、その中で上の娘が字を書いて教えることがあり、大人なら、逆向きに書いて教えてやるところなのですが、子どもは"熾烈"ですので、そんなことは一切気にせず教えていたのだと思います。器用にすらすらと書いていました。もちろん今は"治って"います。記録としてとっておかなかったのが悔やまれます。研究者としての自覚が足りなかったのでしょう...。ただ、治りにくい文字がありました。それは、「さ」と「ち」でした。それで、この二つは、左右鏡映と言えばそう言える文字ということに気づかされました。ですので、当時住んでいるところを、下の娘は、しばらく「かなぢわ」と書いていました。 

右から読みます(「ばあばとえみちゃ(小さい"や"は"ち"の右下に書いてあります)んへ」)。

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