学長室だより

この8月に思うこと。

ロシアがウクライナに攻め込んだ戦争が、まったく残念なことに終結しない中、そして、核使用をほのめかすような発言までなされるようになっている中で、この8月を迎えました。今年は原爆や戦争を取り上げたテレビ番組が多いように思われるのは、この戦争の影響でしょうか...。

戦争を避けるのには、人々が戦争を憎み、何があっても戦争をしないという意志、さらに、できれば、戦争に対する生理的とも言えるような嫌悪感を持っていなければと思います。そして、人々の教育にかかわっている私としては、そうした心性をつくるには、やはり教育の果たす役割が重要で、戦争経験者の方々が少なくなっていく現状の中では、戦争体験を伝えるという活動がとても大事だと思います。

そうした、戦争は絶対にいけない、ということを身に沁みて知り、決して起こさないという心性をつくるに際して、戦争で殺された人が一体どんな姿になるものなのかと、ご遺体のことを語る、あるいは見せるということはどうだろうかと思うことがあります。

私の体験を言いますと、小学生の頃に、父の本棚にあった広島の原爆の写真集をたまたま手に取って、その中の、顔もわからないような黒焦げの状態で、仰向けになって、両上下肢を屈曲して何かにすがろうとしているかのような姿で道路に"転がっている"(失礼な言い方ですが、そうとしか描写できません)ご遺体の写真を見たときの衝撃は今も忘れられません。そのご遺体の姿は今もまざまざと目の前に浮かびます。私の原爆及び戦争に対する恐怖感と嫌悪感の一部は、それに起因していると思いますし、それは、原爆及び戦争についての生理的忌避と言えるものになっているとも思います。

 こうしたご遺体を"さらす"ことが、死者に対する冒涜だという意見があり、確かにそうしたことには慎重でなければならないとは思いますが、私は、その意見にはちょっと違和感があります。この違和感を的確に言い表していると感じたエピソードがあり、それは、「おこりじぞう」などの原爆を描いた絵本の作者として知られる山口勇子さんに関するものです。かなり前とはなりますが、印象的でしたので、そのエピソードを紹介した新聞記事を切り抜いて保存してあります(20161124日朝日新聞夕刊)。それは、ベトナム戦争がまだ終結しない時代のことです。山口さんがスウェーデンで開かれた「子どもを守る世界会議」に参加した時、南ベトナムの代表から、「日本のお母さんに伝えて」と、幾枚かの写真を手渡されたそうです。しかし、その中にあった虐殺された子どもたちのご遺体の写真が、羽田空港の税関で、「死体を冒涜し、残虐すぎて、わが国の風俗に反する」と告げられて、没収されてしまいます。その時、山口さんは次のように叫んだそうです。「残虐!? いったいこの残虐をだれがしでかしたのですかっ」まさしく、その通りだと思います。この、誰がしたんだ!?誰にされたんだ!?ということが、単にご遺体を"さらす"のは冒涜だとばかり言われると、見えなくなってしまうように思います。

 また、同じ記事の中に、山口さんの著書にある、広島の爆心地で瀕死のご両親を見つけた時の文章が紹介されていました。「びしゃびしゃと切り刻まれたようになっていたり、汁が出たりして、そういうかたちで両親とも死んでいきました...人間の死にかた、人間の姿ではなかった。」文中の"びしゃびしゃ"という言葉がまた、とても強烈に心に迫ってきます。

 戦争で殺されると人間はどんなふうになってしまうのか。リアルに子どもたちに知ってもらえば、きっと戦争を起こすことはないだろうと思うのは、単純過ぎるでしょうか...。

1つの訳語の違いで...、シジフォスの神話 その2

なにゆえ分かったかというと、お気づきのように、内田さんは、これまでの訳で「侮蔑」とされていたものを、「俯瞰」と訳していたのでした。「俯瞰」とは、現在の自分より一段上に立って、自分を突き放して見るということです。つまり、それは、苦しんでいる自分を相対化するということになり、それによってシジフォスは運命に打ち勝つということか!...とわかったわけです。ちなみに、内田さんは、前回引用した文章に続けて、「「辺境性」という私たちの「不幸」(というより、私たちの「宿命」)は、今までもこれからも確実に回帰し、永遠に厄介払いすることはできません。でも、明察を以ってそれを「俯瞰する」ことなら可能です。私たちは辺境性という宿命に打ち勝つことはできませんが、なんとか五分の勝負に持ち込むことはできる。」と書いています。

単語の訳語ひとつで、文章、そして作品全体がわかったり、わからなかったりするということで、私も翻訳書をいくつか出していますが、訳語の選び方の重要性にあらためて気づかされました。しかし、となると、なぜこれまでの訳者は、そう訳さなかったのか?一体もとは何という単語なのか?ということが気になり始めました。私はフランス語が読めないのですが、原著を取り寄せ、段落の数や、文章の数(ただ、ここは、段落が切れるところなので文章の同定は難しくありませんでした)などから、単語を割り出しました。その単語は、"mépris"でした。辞書を引いてみると、「侮蔑」、「軽蔑」となっていて、「俯瞰」というような訳語はありませんでした。これまでの訳者が「侮蔑」と訳してきたのはもっともなことだったのだと得心するとともに、内田さんは随分と思い切った訳をしたのだなぁと、感心しました。

内田さんの訳のおかげで、私はこの作品を理解することができたのですが、私と同じようなことを思った人がいることが後日わかりました。哲学者の門脇健さんの「哲学入門 死ぬのは僕らだ!」(角川SSC新書)という2013年に出た本に、シジフォスの神話のあの箇所の、内田さんの訳が載っていたのです。です。この方は内田さんとは親しいらしく、本の帯文は内田さんが書いています。この本に、門脇さんは、カミュは自殺は認識の不足であると言っているとし、次のように書いています。

"カミュはこの「認識」について、...「méprisによって乗り越えられぬ運命はない」と表現しています。...この「mépris」を新潮文庫版の翻訳者・清水徹氏は侮蔑と訳され、内田樹先生は「俯瞰」と訳しておられます(「日本辺境論」、新潮新書)。辞書的には「侮蔑」「軽蔑」が正解ですが、「既成の価値体系から解放されつつ自分を眺める」という文脈では「俯瞰」という内田訳がぴったりきます。自分が今どんな価値体系に縛られてどん底に落ち込んでいるのか、「こんな価値観に縛られているなんて馬鹿じゃないの」と自分を突き放して見ることができるとき、そこには広々とした世界がひらけてくるのです。"

正解ではないかもしれないが、「ぴったり」くるとは、まさしくそのとおりだと思います。この内田さんの訳に出会わなければ、私は、シジフォスの神話について、何か大事なことが書かれているようだけれど、すっきりとわからないままだったと思います。2020年3月の卒業式でもシジフォスの神話に触れることはなかったと思います。告辞では、これまでの訳者の方に敬意を抱きつつも、内田さんの訳を、引かせてもらいました。翻訳という作業の奥の深さをつくづくと感じさせられました。